大人になって分かった、"アスペルガー症候群"。

Beauty 2016.10.18

彼女たちは、長い間、かろうじて社会に溶け込むことができていた。それから30歳を過ぎて初めて、自分が自閉症スペクトラムの一種である“アスペルガー症候群”であることを自覚したのだ。今回、実際にアスペルガー症候群と診断された女性たちが、自身の闘いについて語ってくれた。

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一部の人は、長年自分がアスペルガー症候群であることに気付かずにいる。そして、大人になって初めてアスペルガー症候群であると診断された時、ようやく解放された感覚を味わう人が多いのだという。photo: Getty Images
 

「まるで自分の人生に、最後のパズルのかけらが綺麗にはまったようなものでした」と、自分がアスペルガー症候群であると診断された時、アレクサンドラは安堵を覚えたことを語った。人生に散りばめられた落とし穴のような他人との違和感に、ようやく名前を付けることができたのだ。「はっきりと明示されたことで、救われました。もし診断がなかったら、きっと自殺していました」。そんな彼女は、40年以上、自分の特別な性質を自覚することなしに、どのように生きていくことができたのだろうか?

家族内での自閉症の問題は、正しく認知されていないがために、間違って病気の一種と同一視される場合が多い。この神経化学的な特性は、ここ何年かでメディアや映画界から関心が集まり、取り上げられるようになった。とりわけ映画『レインマン』(バリー・レヴィンソン監督/1989年)の中で、ダスティン・ホフマンが、非常に知能指数が高いながら、社会的に人間関係を築くのが困難な自閉症の男性の役を演じ、自閉症の存在が世に知られるようになった。ただ、この映画は、自閉症スペクトラムへの認知を多くの人へ広めることができたと同時に、自閉症でない人に間違った固定観念を植え付けることにもなった。アスペルガー症候群の人なら、誰でも知能指数が高く、10カ国語を話し、ポーカーゲームでカードの数字を当てることができるわけではない。ほとんどの人は平均的なIQを持ち(知的障害の人が、IQ70以下であるのに対し)、仕事もあって、家族もいる。しかし一方で、時折日常生活を理解するのが困難な状況に陥り、彼らの研ぎ澄まされた感覚は、強い刺激を与える環境に耐えられなくなってしまう。

このような困難に対峙した時、とりわけ女性というのは男性よりも“共感”の認識が高いため、社会に適応するための回避策を編み出し、自分が周りと同様に“普通である”ことを見せようとするもののようだ。(ある日、その見せかけの“偽者の自分”に耐えられなくなり、糸が切れてしまうまで……。)

*次のページでは、自身が自閉症であると知らずに社会に合わせようと本心を隠しながら生きてきた女性たちの事例を紹介します。

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■昏迷と自閉

「自分自身でいないために、自分の感情を押し殺していた」 

「忘れもしません、自分が作り上げていた“見せかけの自分”の重さに、精神が屈した瞬間の音を」と、ジュリーは言った。31歳、大学院生で作家の彼女は、何もかも諦めてしまいそうだった。もっとも、小さい頃から自分が社会と著しく乖離していくことに気づいてはいた。「友達と一緒にいなくてもすむように、お腹が痛いふりをしていました。時々母が学校まで私を迎えに来てくれて、無言で家に帰りました。成績がよかったので、母は私に何も言いませんでした」。しかし、月日が経つと、社会からの要求はますます高まり、より細かくなり、ジュリーの知的理解力から遠ざかるばかりだった。本心を隠すことに、疲弊してしまった。「男子の気を引くために、髪の毛をとかしている女子たちがいて、目がくらみました。他の人たちを真似して行動してみようと試みましたが、社会の人間関係には、まったくなじめませんでした」。仕事に就いた時には、誤解されたり、また執拗に環境に適応することを求められることがあり、耐えられなくなった。精神的に燃え尽きてしまったという。

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アスペルガー症候群の女性の多くは、社会的な慣習が理解できずに溺れ、“偽者の自分”に閉じ込もり、自分を押し殺してしまう。photo: Getty Images
 

アレクサンドラも、 “生き続けるために、社会に適応する”という行動基準を自分に課していたことを、苦しそうに思い出しながら語った。若かった彼女は、パリ交通公団にオペレーターとして務め、周囲に普通の女の子として見てもらえるために、猿真似でも何でもした。「自分自身でいないために、自分の感情を押し殺していました。とても辛かったです」。その後も、これだけの苦難では足りないと言わんばかりに、さらに彼女に苦しい試練が与えられ、ますます内に籠もるようになった。「9歳の時に暴行されました。兄も私を殴りつけました。自分の身に何が起きているのか、理解することができませんでした」と、アレクサンドラは話した。そして13歳の時、何もかもが禁じられたかのようなこの世界で、完全に自分を見失い、決意をした。「生きることや、人間の行動を理解するために、たくさん本を読もう」と。

孤独や排除と対峙した時、その原因が自閉症にあると考えたことはあるだろうか? 初めておぼろげに覚えた“ためらい”について、アレクサンドラは思いを馳せた。実は母親が異変に気づいて家庭医に相談したこともあったが、家庭医が「そのうちよくなるでしょう」と言い放った一言によって一掃されてしまった。しかし実際には、状況はよくならなかった。「暴行を受けていたことも黙っていました。思春期はずっと自分の部屋に引き込もって、長い間抑うつ状態でした。そして、嘘をつくことを覚えました」。その後、アレクサンドラは結婚をするが、暴力的な夫であったため、10年間の結婚生活の後に離婚。そしてやっと、治療を始めることとなる。「担当の精神科医は、私が抱えている人間関係の問題を読み解くのにゆっくり時間をかけました。そして41歳で初めて、自閉症と診断されたのです」

*次のページでは、アスペルガー症候群が広く認知されるようになる前のことについて、そして診断されたことで女性たちに起こった変化についての事例を紹介します。

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■近年になってようやく明るみに出た事実

「精神科医は母に、私ではなく、まず彼女自身が診断を受けるべきだと言いました」

アレクサンドラは、幸運にも、のちに彼女を導いてくれる精神科医に出会った。実はそれまでアスペルガー症候群の事例は特殊であり、医療の歴史の中ではようやく近年になって専門家の耳に入るようになったばかりで、それまでは十分な知識を有するものが少なかった。「アスペルガー症候群は、1940年代から知られるようになりました。ちょうど知的障害を伴う自閉症であるカナー症候群と同じくらいの時期です。しかしアスペルガー症候群を調査していたオーストリア人、ハンズ・アスペルガーの研究資料は、1980年代の終わりまで英訳されることがありませんでした。その後10年かかって、やっと初めて世界保健機関の医学書に登場することとなったのです」と、作家のアドゥリーヌが説明する。アスペルガー症候群の話題であれば答えられない質問はないという彼女は、自身もアスペルガー症候群で、ブログで“アスペルガール”としての苦しみを告白している。

アドゥリーヌの母親は、幼くして娘が“小さな大人”のようであったと打ち明けている。母親はアドゥリーヌを精神科医の元に連れて行った。「その時は、親を責める風潮がありました」と、アドゥリーヌは残念そうに言った。「精神科医は、娘に治療を施そうとするよりも前に、母自身が診断を受けるべきだと、母に言いました。恥ずかしくなった母は、それ以来話題にすることはありませんでした」。アドゥリーヌは、その後も(彼女自身“あまり普通じゃない”と捉えていた)両親と一緒に暮らし続けていた。「両親は私に腹を立てることはありませんでした。私は時々躁病の症状がありましたが、何も気にしていないようでした」。それから少し経って、彼女は自分が普通より知能指数が高いことに気付いた。「自分の幼い息子を見ていてわかったのです。息子は4歳で、すでに“高い潜在能力”があると言われました」。彼女は飛び抜けた才能を持っているという自覚はあったが、それとは別に、他に何かがあるような予感がしていた。「自分に合った人生を歩むために、どうにか障害を乗り越えながら自分を保っていました。アスペルガー症候群であると診断された時、驚きはありませんでした。自分が持ち得た特殊な知能は、自分に不足しているものを補い、困難を回避させる術を身につけるために大きな力となりました。幸運だったと思います」

■診断による解放

「自分が得体の知れないものでなくなりました」

アドゥリーヌの直観は当たっていたが、すべての人が彼女のようにアスペルガー症候群の問題を鋭く分析することはできない。アレクサンドラが通う、アスペルガー症候群友好会の設立者、ミリアム・サルバックが言うには、「問題は、みんながアスペルガー症候群になりたがっていて、まるでプレゼントであるかのように捉えていることです」。しかし、自身の自閉症の問題に気が付かないまま苦労してきた多くの女性たちにとっては重荷でしかなく、症状を診断されたことで、やっと解放感を味わうことができるのだ。「その時、やっと自分のことが分かったのです。自分が得体の知れないものでなくなったのです」と、アレクサンドラは証言する。もちろんいいことばかりではないが、「普通の人と違いがあることを認識しながら生きています。メディカル・センターに通ってはいますが、自分自身を受け止めています。いまこうしていることに満足しています」と、離婚してからは、別のパートナーを見つけ、幸福な夫婦生活を営んでいるアレクサンドラ。定期的にアスペルガー症候群友好会でのお茶会に参加し、社会生活にうまく適応できるようになってきたという。

一方ジュリーは、完全に人生を変えることを選んだ。クリエイティブな活動に方向転換をして、ブログを書いたり、また最近では、世間にアスペルガー症候群についての認知を広げるため、自閉症を題材にしたコミックを出版した(1)。そして、パートナーとの関係も絶った。「生活空間を共有するのは、辛いことでした。週末に友達の家に遊びに行くのも耐えられませんでした。知らない場所で、知らない人と出会ったり……不安で神経発作を起こしていました……!」それからというもの、彼女はひとりで平穏に生きている。次のパートナーを見つけることを急いでもいない。しかしアドゥリーヌに関しては、あまり変化がない。作家の仕事は続けているものの、「買い物は、自分の知覚への刺激を制限するために、朝早く起きて、人があまりいないうちに済ませています」という。まだ闘いは続いているようだ。

(1) 『La Différence invisible (見えない違い) 』 (Éditions Delcourt社刊) 
 

texte : Mylène Bertaux (madame.lefigaro.fr), traduction : Sawako Yoshida

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