マチュー・ガニオが小劇場で演劇に挑戦した。
自分の可能性を追求し続けるエトワール。

パリとバレエとオペラ座と。

5月16日、パリの小劇場でオペラ座のエトワール、マチュー・ガニオが初舞台を踏んだ。こう書くと、オペア座の舞台で踊るダンサーの彼なのに......と、訝しく思うだろう。が、この初舞台というのはダンサーとしてではなく、セリフをしゃべる役者としてのことなのだ。出演したのはゴーゴリの『狂人日記』をベースに、音楽、演劇、ダンスで構成された『Le Rappel des Oiseaux』(プロモーションビデオ:https://www.youtube.com/watch?v=xoEcOtWSA_U0)。椅子とベンチを配したシンプルなセットの舞台の下手で福間洸太朗がピアノを弾き、マチューが演じるという1時間の作品である。ダンスも少しはあるものの、メインは台詞。この驚くべき挑戦は、観客はもちろん批評家からも高い評価を得る素晴らしい結果となった。


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5月16日、バスチーユのCafé de la Danseにて公演のあった『Le Rappel des Oiseaux』より。ピアニストはベルリンをベースに世界中で活躍する福間洸太朗。
photos:Stéphane Audran

 


■ 『Le Rappel des Oiseaux』出演のきっかけ。


「作品の脚色と舞台監督を務めたオリアンヌ・モレッティは、マルセイユ・バレエ学校の同窓生。彼女の方が少し年長です。今から7年くらい前にパリで彼女と再会したのですが、ちょうどヘルニアで休業している時でダンスを今後続けられるのか不安な時期でした。そして、自分の声をなんとかしたいとも思っている時でした。その頃すでに舞台の仕事をしていた彼女が、「何言ってるの。その声でいろいろできるはずよ。私たち、きっと一緒に何かできるわ!!」って励まされて......。もしそれが実現したら素晴らしいなあとは思っていたけど、当時は全然具体的なことじゃなかったし、実現したとしても、ずっと先のことだろうって思っていたんです。その出会いの後、歌い手として、舞台監督として活動する彼女の舞台を何度か見る機会があって、こうした才能ある友人と一緒に何かを創り上げるというのは、その工程からして興味深いことだろうなって......。友情に結び付けられた二人なら、すべてがポジティブに作用しますよね。互いに助け合い、良い効果をもたらすというように。今回のプロジェクトが具体性を帯びてきたときに、『彼女が僕に何かを提案するからには、彼女は僕を信頼しているんだ。何も知らない僕だけど、僕にできることだと彼女は思ってるんだ 。彼女がもし僕を信じてないなら、僕に声をかけてリスクを負うような馬鹿げたことはしないはずだ』って、自分に言い聞かせたんですよ。彼女の確固たる決意が僕に安心を与えてくれた、といえますね」


■ 喋ることのないダンサーが舞台上で台詞を喋る。


「ダンスでは喋ることがないのに、この作品は台詞がメインです。基本的に自分の声が好きじゃないので、これは僕にとって余計に大きなチャレンジとなりました。台詞については、何もかもが新しいことばかり。まずは覚えることですね。昨秋から始めたのだけど、これにはとても時間がかかりました。僕は身体の記憶によって仕事をしてるのであって、言葉の記憶ではありませんからね。それからイントネーションです。その違いによって意味が異なる、テキストの読み方で聞き手に与える印象が異なる......そういった仕事をオリアンヌと共に、時間をかけて進めました。いかにして言葉に重みを与え、味わいを与えるかということも。そして、またどうしたらより生き生きと聞こえるか、どうしたら観客に聞き取りやすくできるかとか。こうした仕事はとても興味深いものでしたね。本当に、新しいことばかり! それに僕は実生活ではすごい早口なんです。とてもハイ・スピードで話します。だから舞台で話すときは、スピードを落とすことを自分に強いる必要があったんですよ。ゆっくり話す......まるで亀の歩みのように。リハーサル中、何度も何度も『もっと、ゆっくり!』と注意されました。努力を怠ると理解しにくく、聞き取り難い速さになってしまうので、リズムの仕事も要求されました。そして、まったく予測もしなかったことがひとつ。ピアノ曲の演奏に合わせて、ダンスを踊るシーンが何回かありましたね。ダンスから台詞に移る際、ほんの少し息切れしただけで、言葉の出方が違う、ということがわかったんです。ただでさえ言葉を正しく発声するように集中する必要があるというのに、そこに息切れが加わって......大変でした。このように学ぶべき新しい基礎知識がたくさんあったので、時間、エネルギー、集中力をつぎ込む必要のあるプロジェクトとなりました」


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リハーサルより。左:羽をむしりながら狂気を語る。右:オリアンヌ・モレッティとセリフの稽古。
photos:Charles François

 


■ この作品におけるダンスの役割


「ブリューノ・ブーシェ(注・オペラ座スジェ)が振り付けたダンスの部分があったおかげで、この作品において途方にくれることなく済んだ、といっていいでしょうね。延々と台詞が続いた後にダンス、そしてまた台詞......という作りの作品。ダンスの部分は、自分ができることに突然戻れる瞬間だったのです。台詞を喋ることは、僕に技術ではなく集中を求めます。自分の語ること以外は考えません。だからダンスの部分がくると、そこでポーズというか、少し息抜きをすることができたんですよ。ブリューノは僕が演じる人物を作ることも助けてくれました。彼はダンサーなので、こういうシーンではこのように立つといいとか......言葉を身体的にどう表現するのが的確なのかを知っています。彼とのこうした仕事も、とても面白かったですね」


ロシアの作家ニコラ・ゴーゴリが1835年に発表した『狂人日記』。貴族の出の小役人アクセンティ・イヴァノヴィッチは出世もできず、長官の令嬢への恋心もままならず......現実との葛藤に理性を失い、徐々に狂気を強めてゆく彼は、ついには自分をスペインの国王だと思い込み、精神病院に入れられてしまう。日記形式で書かれていて、そこには鬱陶しい役所の課長、愛しい令嬢、他の犬と会話もするし手紙をしたためる飼い犬が登場する。マチューは犬も含めて登場人物ごとに声や体つきを変えての熱演で、会場をひきつけた。美しいテクニックはもちろん、その詩情、抒情性に満ちたダンスで知られるエトワールであるあるが、この晩、台詞という新しい表現法においても彼のヴィジョンを役柄に吹き込む完成度の高い仕事ぶりを発揮。観客は彼が吐き出してゆくアクセンティの狂気に戸惑わされ、引き込まれ、笑わされ、痛みを覚え、涙を誘われた。

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■ アクセンティ・イヴァノヴィッチの狂気


「ゴーゴリの作品は過去にいくつか読んだことがあって、中でも『鼻』が好きなんですが、『狂人日記』は知りませんでした。狂気を演じるというのはオペラ座でニコラ・ル・リッシュの創作『カリギュラ』を踊った時に、すでに経験があります。狂人というのは自分以外の人物、周囲の出来事を一際強く感じとり、それを自分の中で増大させていって......実際の狂人にはリミットがないけれど、それって僕たちアーティストの仕事に近いものがあるといえますね。 だから今回このプロジェクトの内容を聞いた時にも、『おやおや、僕は狂人を演じることになるのかぁ......』といった反応は、全くありませんでした。それにこのゴーゴリの文章で面白いのは、アクセンティは狂人とはいっても、その狂気を介して、社会的なことなど何かを告発していることです。もちろん犬が人間のようにしゃべったり、手紙を書くと信じる、といった部分もあるにしても。憎悪、恋愛感情、失望に終わった希望、越えられない人生のバリケード、ヒエラルキー......彼が語っていることは、馬鹿げていません。こうしたことを狂人を通じて語らせるというのが、この作品の上手さですね。それにアクセンティというのは、精神病棟に入れられた頭のおかしな奴というのではない。彼の狂気は、彼なりの生き残る方法です。現実に目をつぶって生き延びてゆくための......。不条理な事、生き難いことに押しつぶされるより、たとえ世間が彼についてこなくても、自分が生きたいことを自分に想像しながら生きることを彼は好んだんです」


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リハーサルより。左:振り付け担当のブリューノ・ブーシェ(中央)と共に。右:公演のメインビジュアル。
photos:Charles François

 


■ 狂気はバッハ、恋愛感情はラモー。2作曲家の作品を使い分け。


「最初の曲はバッハのパッサカリア(ハ短調BWV.582)でした。これはローラン・プティのバレエ『若者と死』の曲として知っている人も多いでしょう。このプロジェクトのごく初期の時点でバッハの曲は狂気を描くというオリアンヌの意見を聞き、それには僕も賛成でした。ところが彼女がこのプロジェクトを開催者にプレゼンしたときに、『バッハが狂気? その反対ではないか?』という声があって......。僕がバッハを聴くのは、そのスピリチュアルな面が気に入ってのことです。想像の世界、非物質的世界......強いスピリチュアリティというのは狂気との結びつきがありますよね。例えばこのパッサカリアはとても美しくて、人間的次元での狂気を表現していると感じるんです。精神的で、この世のものならぬという。だからパッサカリアを使うことを僕からオリアンヌに希望しました。この作品の音楽のセレクションは基本的には彼女で、メールでコタロー(注・福間洸太朗)と選曲についてかなりやりとりをしていた様子です。僕が踊る、あるいはベンチに横たわるといったシーンにピアノが重なるのですが、ピアノの演奏のあるときに台詞をいうシーンがあって......これはきつかったですね。台詞に集中することと、ピアノより大きな声で話すこと、それに音楽とほぼ同時に台詞が終わるようにするには、ピアノは今どの部分を弾いているのか音楽に注意を払う必要もあったので、これはかなり複雑なエキササイズとなりました。それに1時間の公演中、一度も水を飲まずにしゃべり続けるのも大変でした。ダンスはあるし、照明は強いし、緊張もしているしで、あっという間に口が乾いてしまって......。後でコタローからも『僕だって水なしで口が渇いたんだから、君はさぞかしだろう、と心配したよ』と言われました」


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photo:Stéphane Audran

 

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photo:Stéphane Audran

 


■ この公演にチャレンジした動機。


「この公演に参加したのは、決して『僕は俳優の仕事もできます。見てください』という気持ちからではありません。僕はダンサーです。ダンスが僕の職業です。今回のことは、自分の可能性を広げたいという気持ちからのチャレンジでした。居心地の良い自分の小さなゾーンに納まっていず、未知を発見し、より先へと前進するためのチャレンジだったのです。ぼくにとって一種の研修......とでも言えばいいのかな。だから、公演が終わったとき、「このリスクを背負うことを決めたことは、良いことだったのだ」と自分に言えたのは、うれしかったですね。たとえパーフェクトではなく、改善点があっても、ポジティブなことに満ちた素晴らしい経験でした。観客も喜んでくれたようですから、うれしいですよ。本番前はセリフを忘れたらどうしよう、セリフを飛ばしたらどうしようとか心配したけれど、そうした大事もなかったし、恐怖に押しつぶされることもなく、良い1時間を経験できたことに満足しています。だからといって42歳のオペラ座の定年の後、演劇へということでもありませんよ。何かをするというのは次に関わるほかのことに常に役立つものです。ダンスと演劇という違いはあっても、人物像の築き方や、人物の真実味の描き方、舞台上での立ち居振る舞い......学ぶことがいろいろあって、それって最高! 他の世界を見て、役に立つことも得られ、何もかもがダンスという僕の仕事に役立つ。つまりこの経験はフランスの表現でいうなら、弓矢の矢を変えるのではなく、矢を追加する、ということだったのです」


踊り慣れたオペラ座とは異なり、小さな劇場での公演だった。身近にいる観客の反応が肌で感じられ、それに支えられ、励まされたそうだ。このプロジェクトにより多くのポジティブなことが学べ、福間洸太朗という素晴らしいピアニストと知り合うことができて、建設的な経験だったゆえ一度きりとなっても満足とはいうものの、改善点もあるので是非次の機会を! と願うマチュー。まだ具体的には何も決まっていないが、公演の好評ぶりはすでに舞台関係者間での話題なので、再演があることを期待しよう。それに日本語字幕をつけることによって、日本での公演も考えられるはずだ。

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■ J.M.WESTONのフィルムParis est un balletにも出演。


彼のオペラ座外の活動は、なかなか日本まで伝わってこないのではないだろうか。現在J.M.WESTONのサイトでは、彼をフィーチャーしたショート・フィルム「Paris est un ballet(パリはバレエだ)」を見ることができる。これはカラフルな新作ローファー"ル・モック"のプロモーションのため、J.M.WESTONがVogue Hommes誌と共同制作したものである。スエードレザーの柔らかなル・モックを素足に履いて、エレガントに、軽快にパリ中を駆け抜けるマチュー。この撮影についても少し語ってもらうことにしよう。
http://www.jmweston.fr/jp/les-invites/mathieu-ganio


「これも僕にとっては新しい体験と言えるものでしたね。昨秋、朝から晩まで2日間をかけての撮影でした。オフ日で愛犬とのんびりしているところ、その晩の公演で踊るはずのソリストが怪我で降板したので、慌てて劇場にかけつけるというストーリーで、モックをはいた僕がパリを駆けるんです。撮影では、何度も何度も同じ動作を繰り返して......。監督からフィルムのアイデアの説明はしてもらったけれど、実際にやってる最中はどんなフィルムになるのか、僕には見えてなかったので、上がったフィルムを見て驚きました。ベストの部分が上手く編集されているし、とてもリズム感にあふれていて! 1分ちょっとのフィルムでも良いものを求めると、あれだけの時間と手間がかかるものだと知りました。日頃インターネットやテレビで見ているものの舞台裏を見た、という感じでしょうか。そしてエディティングがいかに大切なものかもこの経験で理解できました」


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フィルム撮影中、スチール撮影も同時に行われた。J.M.WESTONのサイトでは見られない貴重な写真をここに特別公開。
photos:James Bort

 


■ 今夏はエトワール・ガラ2016。リハーサルがもうじき始まる。


目下、オペラ座で7月2日から公演の始まる『ブラームス シェーンベルグ・カルテット』 (ジョージ・バランシン)のリハーサル中で、これがオペラ座の2015-16シーズンの最後の作品となる。その後、エトワール・ガラ2016での来日が待たれる彼。もうじきロンドンからリアム・スカーレットがオペラ座に来て、『With a Chance of Rain』のリハーサルが始まるそうだ。


「リアム・スカーレットの名前はもちろん耳にしていました。でも彼のことはそれほど知らなくって......。でも今回僕たちが踊ることになった『With a Chance of Rain』のビデオを見て、彼の仕事にはすぐに興味が湧きましたね。見損ねたけれど、最近パリの映画館で彼の新作『フランケンシュタイン』のライブ上映がありました。この作品の舞台評も素晴らしいようですね。今の時代の若いコレオグラファーが物語のある劇作品のバレエを作るって、珍しいこと。そういう仕事をする彼とは、ぜひとも仕事をしたい、という気になります。今回僕たちが踊る『With a Chance of Rain』は物語のある作品ではないにしても、これをきっかけに、彼のような振付家と近づきになれるのはうれしいですね。エトワール・ガラは今回も踊りたい作品ばかりで......特にパトリック・ド・バナがエルヴェ・モローと僕に創作した男性二人のパ・ド・ドゥの『失われた楽園』は、今年の1月に日本で初演できる予定がキャンセルとなったので、今回踊れるのがとにかく待ち遠しいです! こうして彼の新作を日本の観客に紹介できることがうれしいし、彼の作品を踊るのは僕には初体験なので新しいスタイルともいえるし......。『シンデレラ』と『アザーダンス』はどちらもアマンディーヌ・アルビッソンがパートナーです。彼女とはオペラ座でもここのところ一緒に踊ることが多くなっていて......息の合う僕の新しいパートナーなんですよ。『シンデレラ』はまだ彼女とは踊ったことがないので、新しい作品をこの機会にこうして踊れることにとても満足しています。この作品はオペラ座でも長いこと公演がないし、それに踊られることの多いパ・ド・ドゥではなく、僕たちが今回踊るのはヴェールをたなびかせて踊る作品最後のパ・ド・ドゥ。音楽も素晴らしいので、これをガラで踊ってみたいとずっと前から願っていました。とても抒情的で......この作品を全幕で見たことのない人にも喜んでもらえると思います。『アザーダンス』はつい最近オペラ座で、そしてブレストでのツアーでアマンディーヌと踊りました。昨年日本で踊ったのが最初で、それ以来回を重ねているので、この夏、この作品における僕たち二人の成長ぶりをお見せできるでしょう。身体的にかなりきつい作品なんだけど、音楽が素晴らしいのでそれにのせられて快適に踊れます。この間のオペラ座での公演は『ロミオとジュリエット』とほぼ同時だったけど、この美しい作品を観客と分かち合えるのかと思うと、舞台に出ることはご褒美をもらうような感じでした。それほどこれを踊るのが楽しみなんですよ」


ニコラ・ル・リッシュが引退し、現在オペラ座で最古の男性エトワールとなったマチュー・ガニオ。オペラ座恒例のデフィレでは任命が新しい順にエトワールが登場するので、彼はトリを務めることになる。最古参であることを日頃意識することはないが、任命から12年経ったことにより、自分のエトワールとしてのキャリアの半分が過ぎたことに思い至るという。ダンサーとして成長を遂げつつ、新しいことにチャレンジを挑む彼のアーティストとしての成熟ぶりを見られるのは、この夏のエトワール・ガラでの楽しみのひとつといえよう。

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