アートと恋を謳歌、ペギー・グッゲンハイムという人生。

Culture 2018.08.06

前衛芸術を擁護し、アメリカの現代美術の発展に貢献したペギー・グッゲンハイム。現代アートで最大のコレクションを築き、人生において脱線も楽しんだ彼女の、バイタリティあふれるアートライフとは。

ヴェネツィア・ビエンナーレのスター。

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1948年、第24回ヴェネツィア・ビエンナーレのグッゲンハイム館にて、展示準備中のペギー。この時解体された状態で届いたカルダーのモビールの一部が梱包材と間違われて捨てられそうになる、といった出来事が。現代芸術は当時のイタリアでは未知の世界だった。

水の都ヴェネツィア。しかし、最近は現代アートの都とも呼べるほどで、とりわけ2年に一度開催されるヴェネツィア・ビエンナーレが注目を浴びている。歴史を19世紀末に遡る国際現代美術展覧会で、第2次世界大戦中は中断され、1948年に再開された。その第24回開催時に、ヴェネツィアはおろかイタリアでもかつて誰も実際に目にしたことのなかったモダンアート作品を並べたパビリオンが出現した。

ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコ、アレクサンダー・カルダーなど、ペギー・グッゲンハイムの個人コレクションからの展示である。彼女の所蔵するアメリカの新進作家の作品は、イタリアにおける現代美術の刺激になるだろうと、ビエンナーレの事務総長から招待を受けてのこと。美術に深い知識のないまま始めたアート収集の業績が50歳にして芸術界から認められるという、これはペギーにとって素晴らしい栄光の瞬間だった。新しすぎると過去に拒否されたピカソの作品がビエンナーレデビューできたのも、グッゲンハイム館のおかげ。内戦中で不参加となったギリシャのパビリオンを使っての展示で、案内板にはフランス、イギリス、ベルギーといった国名とグッゲンハイムの名前が並んだ。それを見た彼女は「私はまるで、新しいヨーロッパの国になったように感じていた」と、自著『20世紀の芸術と生きる』で回想している。

彼女が亡くなった翌年80年に開館したペギー・グッゲンハイム・コレクションも、ヴェネツィアのアート巡礼地のひとつ。最大の現代アートの個人コレクションを築いたペギーは、どのような女性だったのだろう。収集作品の数もさることながら、恋人の数はそれを上回るといわれているが……。

ハイスクール卒業後、興味が持てることを探しにパリへ向かった22歳の裕福な令嬢ペギー。彼女には、銅山で財を成したグッゲンハイム家の父からの遺産、金融業で財を成した母方のセリグマン家の祖父からの遺産があった。20年代、第1次世界大戦後の解放的な雰囲気にあふれるパリ。ニューヨークで知り合った美貌のフランス人作家ローレンス・ヴェイルと再会したペギーは、彼と電撃結婚する。ボヘミアンの王と彼女が呼ぶ夫とふたりして、画家や作家がたむろするモンパルナスの暮らしをアルコールとともに満喫した。ペギーが財産持ちでなければ結婚しなかっただろう彼は、芸術に無知で無能であると彼女に手厳しかった。

これが幸いした。それなら才能ある恵まれない人々を援助しましょう、とペギーは思い至るのだ。作家、アーティスト……その中には、500フランを彼女から借りて、カメラを買うことができた写真家、ベレニス・アボットも含まれている。

>>令嬢から現代美術コレクターへと脱皮。

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令嬢から現代美術コレクターへと脱皮。

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パリのアパルトマンにて。隣の彫刻はブランクーシの『マイアストラ』。ベッドをともにした相手ながら、お目当ての『空間の鳥』を彼から安く買えず、ペギーは彼と絶縁する。その代わり、クチュリエのポール・ポワレの姉妹からたった1000ドルでこの作品を購入。その後、『空間の鳥』もコレクション入りする。

財力と人脈を生かした画廊経営を友人から提案されたのは40歳直前、ローレンスとの結婚生活が破綻していた頃。彼女はそのアイデアに飛びついた。でも、何を扱うか? 伝統と因習を重んじる厳格な母に育てられた反動で、ヨーロッパでは自由を謳歌する暮らしをしていた彼女にフィットするのは、過去の芸術ではなく反骨的な現代美術だった。

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美術評論家ハーバート・リードと。ロンドンに予定していた美術館のための作品購入リストを、未来の館長である彼と打ち合わせる。このリストが、その後の彼女の収集のベースとなる。後方はイヴ・タンギーの作品。彼とも彼女は関係を持ち、彼の妻をやきもきさせた。

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夫ローレンスが息子シンバッド、彼女が娘ペギーンを引き取った離婚後も、休暇などは一緒に。

大叔母からの遺産が入り、当時暮らしていたロンドンでの画廊計画を本格的に開始。名前はグッゲンハイム・ジューヌと決めた。パリで知り合ったマルセル・デュシャンにそのための指導を求めることにした。40歳になる年、ついに画廊がオープン。『ジャン・コクトー』展で幕を開け、1年半の間、彫刻、絵画など現代芸術を展示した。晩年に夫の数を尋ねられ、「ほかの女性の夫も含めて?」と聞き返したというエピソードが残されている彼女。モダンアートにのめり込み、芸術家との接触が増し、それと比例して男性関係に加速度がついていくのは、この頃からだ。

所蔵品もかなりの数になったところで、画廊経営ではなく、現代芸術の常設館を開く計画をペギーは練り始める。しかし、場所が見つかり、美術品をさらに買い集めるぞ、とパリに向かったところで情勢が変わった。第2次世界大戦の勃発だ。計画は中止。その予算でモダンアートの1日1点購入を開始する。1910年から39年までの代表作をすべて揃えよう! とジャコメッティ、マグリット、レジェなど意欲的にコレクションを築いていった。

>>芸術作品と男性芸術家を“収集” する。

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芸術作品と男性芸術家を“収集” する。

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リサ・インモルディーノ・ヴリードランドによるペギーのドキュメンタリー映画『Art Addict』(2015年)のメインビジュアル。

戦争の混乱期、絵画は買い時でもあった。とはいえ、ナチスによるユダヤ人財産没収を恐れた彼女は帰国を決心。収集した芸術作品はもちろんだが、諸般の事情からフランスを離れねばならぬアーティストたちも一緒に連れていくことになった。これも彼女の財産と人脈の成せる技で、その恩恵を被った人々の中に、彼女好みの貴公子的風貌の画家マックス・エルンストがいた。 

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パーティが頻繁に催されたニューヨークのペギーのタウンハウスは、第2次世界大戦中のヨーロッパからの“亡命芸術家”のコロニーとも形容された。マルセル・デュシャン、アンドレ・ブルトン、アメデオ・デザンファン、フェルナン・レジェ、ピエト・モンドリアン……女性3名はペギー(後列)、ベレニス・アボット(中列)、レオノーラ・キャリントン(前列)。1942年、錚々たる顔ぶれ。

ニューヨークに落ち着くや、アートアディクトを自認するペギーは、画廊を開く準備に奔走する。さらに、エルンストの美、才能、知名度にご執心だった彼女は、彼との結婚に成功するのだ。芸術家の妻になるという、長年の夢を叶えたペギー。彼のほうはというと、この結婚はアメリカでの居住を確実にする都合の良い手段だったのだ。 

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ニューヨーク時代、マックス・エルンストは、ペギーからの前払金をホピ族の人形などの掘り出し物につぎ込み、さらに“宝探し”と称して街で女性をハント。惚れた弱みのあるペギーだが、口論の絶えない彼との結婚生活だった。

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ペギーがカテドラルと呼んだリビングルームは、エルンストが収集する民芸品と、ペギーの収集する芸術作品で飾られていた。

平穏とはいいかねる結婚生活の中、42年10月、「今世紀の芸術」画廊をオープン。凸型の壁、糸で吊るされた絵画、軟体動物のような形の椅子兼展示台……フリードリヒ・キースラーによる奇想天外な展示法もおおいに話題となった。アメリカにヨーロッパのシュルレアリスムを広め、さらに知人の画商から助言を得た彼女はアメリカの無名の現代芸術家たちの作品を購入し、展示。彼女の功績は大きい。さらにデュシャンの提案で、この時代には珍しく女性芸術家の作品だけを集めた展覧会も2度開催。アート界では画期的な出来事だったが、参加女性の若い画家と恋におちたエルンストがペギーのもとを去る、という痛手を負うことに。

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晩年、自分の最大の業績はジャクソン・ポロックだと語るペギー。1943年に無名だった彼の個展を開き、資金援助をして支え、また自宅の壁画も依頼している。ベッドは一度だけともにしたらしいが、作品に買い手も付かなかった彼は、彼女が無欲に援助した例外的なアーティストだといわれる。

>>モダンアート界に君臨する白髪の貴婦人。

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モダンアート界に君臨する白髪の貴婦人。

終戦後のヨーロッパが落ち着きを取り戻すと、亡命芸術家たちはニューヨークを去っていった。アメリカが好きではなく疲れ切っていたペギーも、4年半続いた画廊を閉鎖し、ヴェネツィアへと向かうことにした。若い時に訪れて以来、心惹かれていた土地だ。

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1949年に入手した“未完の館”パラッツォ・ヴェニエル・デイ・レオニにて。大きな鼻にはコンプレックスを抱き続けたが、ほっそりとした肉体には自信を持っていた。裸で日光浴をすることもあった。

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運河が見下ろせる寝室はお気に入りの淡いターコイズブルーでペイントし、カルダーが製作したシルバーのヘッドボードを置いた。ポロックをはじめとする収集芸術作品はリビングに飾り、そこでパーティをよく催し、名ホステスぶりを発揮。

ビエンナーレに参加後は、購入した18世紀建築の未完のままのパラス内に所蔵品を展示して、春から秋にかけて一般公開。ここはアメリカの名士たちの迎賓館的存在ともなった。彼女はイタリアの現代作家の作品を買い続け、イタリア男との恋愛もあって……。60歳になる頃、娘と元夫ローレンスを亡くし、髪を黒く染めるのをやめた。それと同時に、人間が丸くなったともいわれる。自分の男性関係も含めて46年に発表したあけすけな回想録を、〝モダンアート界に君臨する白髪の貴婦人〟といったイメージが読み取れるように書き直して出版した。最後の買い物は、カルダーのグワッシュ。その6年後、ペギーは81歳で生涯を閉じた。

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晩年のトレードマークとなった奇抜なサングラスをかけて。ヴェネツィアでは「光が毎時間奇跡のように移り変わる」とペギーは讃える。その美しさを求め、ゴンドラで愛犬とともに運河を散策するのが夕方の日課だった。


Peggy's Collection in Venice

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美術館はペギーが暮らした18世紀のパラス。前住民は、美女の誉れ高きカステルロッセ子爵夫人(カーラ・デルヴィーニュの大叔母)。

アートアディクトが収集した20世紀の前衛芸術。
ペギー・グッゲンハイム・コレクション

ポロック、ジャコメッティ、アルプ、モンドリアン、エルンスト、コーネル、ロスコなど、ペギーが情熱を傾けて築いたコレクションをここで見ることができる。それは自分の死後、ソロモン・R・グッゲンハイム財団に建物とともに寄贈することを彼女が承諾した結果だ。ソロモンは彼女の伯父で、ニューヨークの美術館に名を残しているが、ペギーの芸術収集はこの美術館とはまったく関係なしに、彼女が興味と好奇心に導かれて独自に行ったものである。

Peggy Guggenheim Collection
Palazzo Venier dei Leoni, Dorsoduro 701, 30123 Venezia 
開)10時〜18時
休)火、12/25
tel:39-041-240-5411
一般15ユーロ
www.guggenheim-venice.it/inglese/museum/index.html

*『フィガロジャポン』2018年3月号より抜粋

2018年9月、映画も公開!
『ペギー・グッゲンハイム アートに恋した大富豪』

●監督/リサ・インモルディーノ・ヴリーランド
●2015年、アメリカ映画
●96分
●9月8日より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

réalisation : MARIKO OMURA

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