認知症患者の目線で描く『ファーザー』は、介護者の「救い」になる。
Culture 2021.06.02
『ファーザー』と同じく認知症患者が見る世界を描いた『全員悪人』の著者・村井理子氏は、この映画は介護者の「救い」になると語る。
© NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION TRADEMARK FATHER LIMITED F COMME FILM CINÉ-@ ORANGE STUDIO 2020
名優アンソニー・ホプキンスの二度目となるアカデミー賞主演男優賞受賞で注目を集め、現在公開中の映画『ファーザー』。認知症患者の父とその娘の葛藤を、患者である父側の目線から描いた作品だ。
ホプキンスがアメリカでアカデミー賞を受賞したまさにその翌日、日本でも1冊の本が発売になった。エッセイストで翻訳家の村井理子氏が書いた家族のドラマ『全員悪人』(CCCメディアハウス)。この作品もまた、家族の認知症を主題に扱う。介護する側の村井氏ではなく、介護される患者のモノローグで書き、発売後たちまち重版がかかった。
2つの作品に共通するのは、観客、あるいは読者が、認知症当事者に見える世界を、そのまま追体験する点だ。断片化し一本の線でつながらなくなった記憶、いないはずの人が見える不安、自分を何もできない幼児扱いする者へのいら立ち、そしてどんどん己が何者かさえわからなくなっていく戸惑いと恐怖......。
途中からはミステリー作品を見ているような錯覚にとらわれさえするが、認知症患者の目から見える世界とは、大げさではなく、このようなものであるようだ。
『ファーザー』を見た村井理子氏が身内の認知症についての経験を寄稿してくれた。
文/村井理子
お稽古の生徒について話す義母
週末が近くなると、二年前に認知症と診断された義母から、電話連絡が入るようになる。決まって彼女は、「週末、お茶でも飲みに来ない?」と私を誘う。
「来週お稽古があるから、和室をきれいに片付けたんよ。そしたら窓から見える庭の木がほんまにきれい。だから、あなたとお茶でもどうかなって思って」
義母はうれしそうな声で言う。私はそんな彼女に二つ返事で行きますねと答え、和菓子を手土産に実家を訪れる。きれいに片付けられた和室に、義母と向き合って座る。
これはどこのお菓子? へえ、かわいらしいわあ、甘さも上品で美味しいわねえ、この淡い色合いがほんまに最高やわ。
喜んだ義母は、体調の悪い日に比べれば信じられないほど昔のままの口調で、笑顔を見せる。こんなたわいもない会話を、私としばらく繰り返す。彼女が週一回教えているというお稽古ごとには、何人か生徒さんがいらっしゃって、長い方だともう二〇年以上も通ってきてくれているそうだ。
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義母は「そういえば、みなさんお元気かしら? お顔を見ていないような気がするんやけど?」と不思議そうに言う。私は「今はコロナですから、もう少し教室はお休みにしないといけませんね」と答える。すると義母は「ああそうやったわ! コロナでお休みやったわね」と言う。
「こんな状況やけど、がんばって来て下さる方には楽しんでもらいたいのよ」と、義母の情熱は衰えることを知らない。彼女は私が知る限り、人生の半分以上をこのお稽古事に打ち込んできた。生徒さんたちをまるで娘のように、親戚のように大切にしてきた。認知症と診断されようとも、その熱意が変わったようには見えない。
ただ、一つだけ以前とは大きく変わったことがある。
彼女が愛した生徒さんはもう、義母のお稽古には通っていない。二年ほど前、最後の最後まで残ってくれた二人の生徒さんは、私に丁寧な挨拶の電話をくださったのを最後に、お稽古を辞めた。義母の認知症が進んでしまったからだ。彼女たちが苦渋の決断を迫られていたことを、この最後の電話で知った。
先日、アンソニー・ホプキンスは、認知症と家族の苦悩をテーマにした映画『ファーザー』でアカデミー賞主演男優賞を受賞した。認知症となったアンソニーの苦悩や恐れを、認知症当時者の目線で描いた本作は、今現在介護職に従事する人、家族の介護をしている人たちにとっては、大きな謎を解く鍵でもあり、これから先の生活への覚悟を決める作品になるのではと感じている。
認知症当時者と向き合う人であれば多くが経験するであろう、認知症患者だけに見える光景というものがある。当事者には、くっきりと見えていて、現実以外の何ものでもない光景が、我々介護をしている側の人間には、影も形も見えないということが本当によくある。
家に入ってきた泥棒、浮気をする配偶者、自分の大切なものを盗む親族。こういった光景は認知症当時者の目には、これ以上ないほどはっきりと見え、見えているのだからそれは揺るがない真実となる。それを家族に理解されず、誤解が生まれることで、強い怒りが爆発する。
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自分も大事な人を傷付けるように
介護する側は自分が疑われることで、悲しみ、腹を立て、無気力になっていく。人間の暗い部分を見せつけられ、この人は変わってしまったと絶望する。しかし、絶望しているのは、変わらざるを得なかった認知症当時者も同じだ。
本作でホプキンスが演じた認知症の父親も、見えないものを見て、盗まれていないものを盗まれ、それを娘に訴えてはぶつかり合う。認知症患者の症状は世界共通のものなのだと、ある意味、救われたような気持ちになった。
だれもがこの道を進んで行く。私は本作に主演するホプキンスに、年老いた家族を重ねるのではなく、自分自身を重ねて観た。私もきっと、見えないものを見て、家にやってくる知らない人に慄き、誰よりも大事な人たちを傷つけることになるのだろう。
幸運にも病気で命を落とさないとすれば、多くの人間が避けて通ることができない認知症という病。心から愛する人だからこそ、疑い、責めてしまうこの病を理解し、認知症当時者の閉ざされた世界を、その深い悲しみと絶望を、ほんの少しでも垣間見ることができたら、彼らに対する愛を失うことなく、併走することができるかもしれない。そんな希望を抱かせてくれた作品だった。
『全員悪人』
村井理子 著
CCCメディアハウス
〔家族が認知症になった。悪気はない。それでも周囲に迷惑をかけてしまう。家族以上に戸惑い、苦悩しているのは本人なのではないか。いろんな事件が起こる認知症当事者と家族の日々〕
●監督/フロリアン・ゼレール
●脚本/クリストファー・ハンプトン、フロリアン・ゼレール
●出演/アンソニー・ホプキンス、オリヴィア・コールマン、マーク・ゲイティス、イモージェン・プーツ、ルーファス・シーウェル、オリヴィア・ウィリアムズ
●2020年、イギリス・フランス
●97分
●配給:ショウゲート
●5月14日(金)より TOHOシネマズ シャンテほか 全国ロードショー
https://thefather.jp
© NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION TRADEMARK FATHER LIMITED F COMME FILM CINÉ-@ ORANGE STUDIO 2020
texte: RIKO MURAI