小説
手先が器用
平野啓一郎
振り返ってみるにつけ、母は不器用な人だったと思う。決して悪い人ではなかったが、人を褒めるということがうまくできず、子供の頃は、冷たいと感じることもあった。テストで良い点を取っても、かけっこで一番になっても、その話を聞いた母の反応は、そっけないものだった。父とうまくいかなかった理由も、一つにはそれだったと思う。
母のそういうところを冷静に見ていたのは、祖母だった。母は多分、子供の頃からそんな感じだったのだろう。
祖母は、わたしにやさしかった。同居していたので、母に褒められ足りない分は、いつも祖母が褒めてくれた。
祖母は裕福で、おっとりとした品の良い人だった。
わたしが小学二年くらいの頃だった。ある日、外出前に着替えをしていた祖母は、
「ともちゃん、ちょっとこっちで、おばあちゃんのお手伝いしてくれる?」
とわたしを呼んだ。居間には母もいた。
「おばあちゃんね、今日は真珠のネックレスをしていくんだけど、首のうしろでこれを留めてくれなあい? ともちゃんは、手先が器用だから。」
真珠というものを、わたしはその時、初めて目にした。きれいだった。ほのかに虹色を帯びた白銀の玉の中に、ぼんやりと、わたしの姿も映っていた。
「おばあちゃんの宝物なのよ。できる、ともちゃん? この金具をこうやって開いて、引っかけるのよ。」
「うん! やってみる。」
祖母は椅子に腰掛けると、わたしに背中を向けてじっとしていた。少し手こずったが、わたしはどうにか留め具をはめることができた。
「ああ、よかった。ありがとう。ともちゃんは、やっぱり手先が器用ね。」
感謝されて、わたしはうれしかった。小さな時には、大人が大切にしているものには、大抵、触らせてもらえないものだが、祖母が自分の「宝物」を、その短い時間、わたしに委ねてくれたことがうれしかった。それに、祖母が自分のことを「手先が器用」だと思っていたことも。わたしはその期待に応えられたのだった。
実際は、わたしは特に、「手先が器用」な方でもなかったと思う。祖母がわたしを観察していて、本当にそう思っていたのか、ただ、何の気なしに言ったのか、さびしそうなわたしの自尊心を満たそうとしてくれたのかは、わからない。ともかく、わたしは祖母にとって「手先が器用」な子なのであり、それからは、針仕事で針穴に糸を通したり、一緒にこよりを作ったりと、祖母をよく手伝うようになった。
わたしは、自分でもいつの間にか、祖母の言葉を信じていた。学校でも、「手先が器用」なことを求められる作業には、率先して手を挙げた。図工が楽しくなり、クラスメイトからも、「手先が器用」と言われるようになった。わたしが活発な性格になったのは、その頃からのことだった。今、アパレル企業でパタンナーという仕事をしているのも、元を正せば、この祖母の一言があったからだろう。
祖母の死は、わたしに大きな喪失感をもたらした。わたしの小学校の卒業式に出席したいと言ってくれていたが、六年生の夏の終わりに、急に亡くなってしまった。卒業式には、それで、母だけが出席することになった。
当日の朝、わたしは、着替えをしている母に呼ばれた。
「知美、……ネックレスを留めてくれる?」
わたしは、母の手の中にある真珠のネックレスを見つめた。祖母の形見だった。
「うん。」
背中に回り込んで、髪を掻き上げた母のうなじを見つめた。何か露わで、無防備なものが、その時初めて、わたしの目に触れた感じがした。後れ毛に触れないように留め具をはめると、母は「ありがとう。」と礼を言って、「知美はやっぱり、手先が器用ね。」と言った。
大袈裟な笑顔もなく、静かな口調だったが、わたしは、母もそう思っていたのだろうかと、やはりうれしくなった。
母は、祖母から何か言われていたのだろうか? それとも、「手先が器用」といつもわたしを褒めていた祖母の姿を見ていて、思うところがあったのか。
中学生になると、母とよく一緒に料理を作るようになった。わたしはもう、母にとっても「手先が器用」な子供なのだった。そう思われている関係を壊したくなかったので、ジャガイモの皮むきも、魚の三枚おろしも、できるだけ上手にできるように努力した。母は相変わらず、オーバー・リアクションが苦手だったが、それでも、「知美は手先が器用ね。」と褒めてくれた。
今はもう、祖母も母もいないが、わたしには一人、娘がいる。
つい先日、小学校の入学式だった。わたしは朝、糸替えをしたばかりの真珠のネックレスを手に、娘を呼んだ。
「ママ、このネックレス、留められないから、うしろで留めてくれる? ひなちゃん、手先が器用だから。」
そう言うと、娘は「うん!」と、好奇心を露わにして真珠の玉に見入った。
「ママのおばあちゃんが持ってた宝物のネックレスなのよ。」
娘はよろこんで仕事に取りかかった。その真剣な面持ちを背中に想像しながら、わたしはあの時の祖母の、そして母の心境を考えていた。
photography | Ayumu Yoshida(objects) |
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styling | Mayu Yauchi(objects) |