ピーターラビットと湖水地方 ピーターラビットの生みの親、その知られざる素顔。
Travel 2017.07.20
愛くるしくて、いたずら好き。誕生から100年以上の月日を経たいまも、世界中の人々に愛され続けているピーターラビット。作者ビアトリクス・ポターは、その物語に描いた動物たちや自然を深く愛する一方で、自分の可能性に果敢に挑戦し、信念を貫いた女性だった。そんな彼女の真の姿に迫る。
幼いころのビアトリクス。シャイな表情は大人になっても変わることはなかったが、内には強い意志を秘めていた。photo : MIYUKI SAKAMOTO
ビアトリクス・ポターが生まれたのは1886年。ヴィクトリア時代のこのころのイギリスは、産業革命が起こり世界に先駆けて大きく飛躍しながらも、女性が独立して暮らすのにはほど遠い時代でもあった。
ビアトリクスが生まれ育ったロンドンのケンジントン地区は、いまでは高級街だが、当時は新興住宅地だったとか。生家は第2次世界大戦で焼け落ちてしまい、現在跡地にある小学校の壁にはプレートがはめ込まれているだけとなっている。
先代の興した事業の成功によって満ち足りた暮らしを送るポター一家の長女ビアトリクスは、当時の裕福層の子女がそうであったように、学校には通わず家庭教師によって教育を受ける。それは学友もなく寂しく窮屈な日々だったに違いない。
若いころのビアトリクスによる『不思議の国のアリス』のワンシーンを描いた絵。慌てふためくウサギの息づかいが画面から伝わってくるよう。
しかし、聡明な彼女はクリエイティビティとイマジネーションを駆使して、自分だけの世界を築き上げていく。ペットの動物たちを熱心にスケッチしたり、『不思議の国のアリス』など童話のお気に入りのシーンを描いたりしながら。
父ルパートによる、画家ジョン・エヴァレット・ミレーのポートレート。撮影技術が玄人並みだったことが分かる。ビアトリクスもミレーに会い、絵のアドバイスを受けたこともあったそう。
ビアトリクスの父ルパート・ポターは法律家ながらもアマチュア・フォトグラファーでもあり、当時を代表するラファエル前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレーと親交もあるほど芸術に造詣が深かった。
だが、娘の絵の才能を認めて美術教師をつけたものの、ビアトリクスが働くことはよく思わなかった。それは「働き収入を得る行為」は品がないと考えていたから。
拡大鏡を使って細部まで観察し、それを紙の上に忠実に再現したボタニカルアート。その正確さで、数えきれないほどあるキノコの分別に役立つほどだったという。
26歳ごろから、ビアトリクスは休暇先で見つけたキノコのボタニカルアートを熱心に描くようになる。ほかの人は見逃してしまうような身近な素材を深く探求し、科学的な裏付けもプラスしながら描く手法は、少女時代から養った賜物でもあった。
ニア・ソーリー村のそばにある森で見つけたキノコ。ビアトリクスもこんな情景に心ときめいていたのかもしれない。
丁寧に書き込まれたそれらは、学術的な資料として申し分ないだけでなく、力強さで芸術的にも突出している。キノコの生体も研究し、論文にまとめて学会に提出するものの認められることはなかった。一説には、それは彼女が女性だったからとも言われている。
>>ピーターラビットの誕生から全盛期。ヒルトップ購入へ。
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ポター一家は、毎年夏になると長期休暇に出かけていた。ロンドンでは、自宅の窓から四角く切り取られたグレーの空を見上げるばかりのビアトリクスにとって、青空の下どこまでも続く緑の草原や森を何の束縛も受けずに自由に闊歩できる日々はかけがえのないものだったに違いない。
目にまぶしいほどの緑と湖が美しい湖水地方。ロンドンから訪れたポター一家にとって心洗われる情景だったことだろう。
ビアトリクスが湖水地方を初めて訪れたのは16歳のとき。それは彼女に生涯のテーマを授けることになる。そして、その後30歳前後まで一家で毎年湖水地方を訪れるが、その間もビアトリクスは挑戦を続けやがて成功を掴んでいく。
「ピーターラビット」以前のビアトリクスによるグリーティングカードの絵。リアルなウサギが服を着ているスタイルがすでに確立されている。
27歳のころ、ビアトリクスは最後の家庭教師であるアニー・カーターの病気の息子にあててストーリー仕立ての絵手紙を送った。ここに初めてピーターという名前のウサギが登場する。
のちに、彼女にすすめられ『ピーターラビットのおはなし』を上梓。出版社が見つからず自費出版することになるが、翌年にはウォーン社から色をつけた絵本が出版された。
『ピーターラビットのおはなし』の記念すべき初版本。8000部発行したが、刊行前にすべて注文で品切れになった。
繊細な水彩画の色をできるだけ忠実に紙面に再現するべく、ビアトリクスは当時開発されたばかりの印刷法の活用にもこだわったという。自然やそこに暮らす生き物をこのうえなく愛しながらも、最新技術にも無関心ではなかったことが興味深い。
本はまたたく間に大ヒットとなり、これをきっかけにビアトリクスはビジネスウーマンとしての手腕も発揮。ピーターラビットのぬいぐるみや壁紙、ゲームなども自ら考案して特許を得て販売し、世界初のライセンス商品とする。
ニア・ソーリー村にある「ヒルトップ」。春から夏にかけては色とりどりの花が咲き乱れる。
そして、湖水地方のニア・ソーリー村に念願のコテージ「ヒルトップ」を購入。とはいえこの時代は、未婚の女性が一人暮らしをするなど論外。実家に残り、年老いた両親の面倒を見るのが当たり前とされていた。
そんな堅苦しい習慣にならってロンドンの両親の家で暮らしながら、時間さえあれば「ヒルトップ」に通う生活を送っていたという。
「ヒルトップ」内の仕事部屋に置かれたビアトリクスのデスク。ここから数々の名作が生まれた。
その後、数々の物語を刊行し、印税を得ては湖水地方の農場や土地を次々と購入していった。
>>結婚、そして羊の生育者としての晩年。
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湖水地方での不動産購入の際、ビアトリクスの手助けをしたのは、地元の弁護士ウィリアム・ヒーリスだった。彼はプライベートでもビアトリクスとともに歩んでいこうと結婚を申し込む。
ビアトリクスとウィリアム。仲睦まじい様子が写真から伝わってくる。
彼女の両親はウィリアムを「田舎の一弁護士」として娘の結婚相手として認めなかったものの、ふたりはロンドンの教会で挙式。これをきっかけに、ビアトリクスは晴れて湖水地方に移転する。
ふたりが結婚式を挙げたセント・メアリー・アボット教会。ビアトリクスの実家と同じロンドンのケンジントン地区に位置し、ネオゴシック様式の荘厳な建物が印象的。現在は歴史的建造物に指定されている。
初めて「ヒルトップ」を購入したころから、周辺の土地で地元の農民の助けを借りながら農業を志したビアトリクスだったが、湖水地方で暮らすようになってからはさらにのめり込んでいく。
「ヒルトップ」側からの眺め。結婚後は正面にみえる白い建物「カースル・コテージ」を新居とし、「ヒルトップ」は仕事場に。毎日この野原を横切って「出勤」していたとか。
特に減少傾向にあった地元産の羊、ハードウィック・シープの育成には熱中し、品評会ではたびたび賞を取るほどに。この頃には、ロンドン出身のベストセラー絵本作家のミス・ポターではなく、ツイードのスーツにクロックスを履いた羊農家のミセス・ヒーリスとして知られることを好んだとも言われている。
育てた羊が賞を取り、上機嫌で賞状を掲げるビアトリクス。このころになるとすっかりとこの地に馴染み、ツイードのスーツが彼女のトレードマークとなっていた。
ビアトリクスが特に大切に育てたハードウィックシープは、この土地原産の羊。白い顔と足に茶色のボディがユニーク。
刺激にあふれ洗練された都会の生活ではなく、大自然のなかでのエコロジカルな暮らしを選んだビアトリクス。湖水地方の自然を、時代に左右されることなく守りたいという強い意志を彼女亡き後も受け継いでいくために、没後は書籍で得た印税をもとに購入したすべての不動産を「ナショナル・トラスト」に寄付、管理を一任した。
あまりにも有名なこの絵は、まだロンドンに暮らしていたころに描かれたもの。畑のラディッシュまで失敬してしまうほど田舎で自由奔放に遊ぶピーターは、ビアトリクスの願望の具象化だったのかもしれない。
湖水地方を訪れると、いまでもビアトリクスが慈しみ、生涯かけて保護した風景が、数十年の月日を経ても彼女の暮らしていたころそのままの姿で私たちの目の前に延々と広がる。彼女が残してくれたものの壮大さ、美しさには誰もが胸を打たれずにはいられないはずだ。
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BEATRIX POTTER™ © FrederickWarne & Co.,2017
photos : SHU TOMIOKA, texte:MIYUKI SAKAMOTO