髪の男。
「おとこのて」
『本当に悲しかったんだよね、
うん、本当に悲しかったんだ』
男は思い出さないようにしていたことを思い出した。今ならその悲しかった出来事も受け止めることができるわずかな強さが男にはあること、そのわずかな強さに気付いてしまった。
"悲しかった"その言葉が中目黒の夜に溶け出し、白い空気と共にどこか遠くの方へ消えていった。
-おとこのて-
その男は女の髪を作ることができる。
作るというよりその女が本来在るべき
自然な姿に"戻す"ことができる。
ハサミを持つその男の指先はまるで女性のようにしなやかだった。指先に空気の流れを持ち、人にばれないようにしているその繊細な指先がどこか女性らしさを醸し出している。かといってその男が女性らしいというわけではないということは、ケアを念入りにしていないからこそ感じることのできる指だった。
その男の髪の色は乳白色、そしていつも水色や薄い紫の服を着ていた。まるで未来から来たような現実味のない雰囲気を醸し出し、未来人だということを隠しているかのように店はいつも様々な色をした花達に囲まれていた。
その男は単に髪を切るのではなく、
女の意志や感情を切ることができる男だった。
(未来人だからかもしれない)
その手で潔く女の意志や感情を
いとも簡単に切ってしまう。
女達が "本当は切ってしまいたい"
ということを男は知っていた。
(いとも簡単に知っていた)
女達は自分の意志に潔さを持つほど強くはなく、だからこそ、こっそりとその男に自身を委ねていた。
本来あるべき姿に戻ることができた女達は
当たり前のようにその男に心を許し、
その男を信じることができた。
(そして男は女達から信じられていることを
当然ながら知っていた)
髪を触れられているだけのはずが一人の女は
心さえも触れられている気がした。
奥の方で寂しさを明確に感じながら。
そしてその一人の女の心に
(触れてしまっている)ということを
男が知らなかったわけではない。
ただ、(触れていない)と思い込める
"必要のない柔軟さ"を男は持っていた。
髪を触れられているのに
何かが遠かった。いつも遠かった。
何かが手に入らない、
何かが"確実"に手に入らなかった。
その何かに言い訳をして探す勇気がないことを私は知っていたけれど、かといって探すことができるほど私は強くはなく、どこにもあの人に及ばないということを一人で勝手に理解していた。
それが結局の所あの人と私が近くならない何かなんだろう。
花の香りを嗅いではすぐ後ろに居るその男の指先を思い出した。無意識に呼吸は深呼吸となってあの人にばれないように一人ため息をまた今日も流してしまった。
目をゆっくりと開けたその女が見つめる先には
何色にも混じり合う花達がいた。
先週とは違う花。あの人が選んでいるんだろう。
しばらく眺めているとその花がやたら羨ましく思えてきた。
あの人に考えてもらっていること、
あの人から君がいいと選ばれていること。
そしてなにより、その花達がその男を
守っているような気がしたからだ。
花達が私のことを見て鼻で笑っている。
だからといってその花に
私が言い返すことができるものは
何一つとして見つからなかった。
わずかに聴こえる女のため息に男は美しさを感じていたことを男は当然ながら知っていた。しかし男は"必要のない柔軟さ"によって知らないふりをしたまま女の髪だけに触れた。
女は髪を触れられるたびに、なぜ
こんなにも近くてこんなにも遠いのか
考えても考えても分からなかった。
だからといってそれを聞くこともできない男の周りにあるその薄くて柔らかい膜のようなもの。それは人差し指を少し押せば破けそうなのに破くことができないもの、押す勇気さえもないのだけれど、その膜が一体なにでできているのか、その膜で守られているものがなんなのか分かることも、分かってあげられることもなかった。
横目で男の目を見た時
一瞬だけ目が合ったものの
すぐに視線を私の髪に戻っていった。
そして今日も私は、私に戻ることができた。
「ありがとう、またね。」
私達はきっとこれからも
この言葉だけを交わしていくのだろう。
"必要のない柔軟さ"を
今日も男は誰にも知られないように。
男は一人でふとあの事を思い出した。
その目には
人間でいうところの涙のようなものだった。
金色のようにも見えて綺麗な水色だった。
その色を見る限り男はやはり未来人である。
全身から花の香りがする未来人は中目黒の空を眺めながらまたそうやって、知らないふりをした。
『本当に悲しかったんだよね。
うん、本当に悲しかったんだ』
おとこのて。