映画『急に具合が悪くなる』が問う、人生との向き合い方。小説家・藤野千夜がレビュー。

Culture

泣きそうなほどに美しい音声の調和、対話の深さ。

癌転移と闘う哲学者と医療人類学者の往復書簡集を基盤に、魂の軌跡と映画のメソッドを濱口竜介監督が高度に融合。セーヌ河畔のふたりの対話と交感も胸を打つ。主演のヴィルジニー・エフィラと岡本多緒がカンヌ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞。
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『急に具合が悪くなる』

文:藤野千夜 作家

映画『急に具合が悪くなる』の第一の舞台は、フランスの介護施設「自由の庭」だ。そこには認知症患者が多く入居している。

主人公のひとり、マリー=ルー・フォンテーヌはその施設のディレクターで、入居者それぞれの自主性や、尊厳を大切にしたいという明確な理想を持つ。そのための研修に時間を費やすが、その時間が実際の介護の負担になると苦情を言う職員もいる。でもマリーは対話をあきらめない。

また、マリーはある日、重度の自閉スペクトラム症の青年と一緒に雨宿りをしたことで、同じ響きの名を持つ日本人女性、森崎真理と知り合う。彼女はパリで公演をする舞台演出家で、主演俳優の孫がその青年、智樹だった。

「近くで見たら、誰もまともではない」

真理の演出する舞台で、主演の吾朗が口にするこの言葉はとにかく印象的だ。観客が自由に奏でる楽器と、興奮した智樹の発する声が調和する場面は泣きそうなほどに美しい。

そして終演後の対話で、真理は自分が末期癌であることをマリーに明かす。

3時間16分あるこの映画では、ずっと誰かが誰かをケアしている。でもそれは決して一方的ではない。誰かを助けながら、人はきっと誰かに助けられている。長い目で見ればもっとそうだろう。私たちはみな年を取るし、「急に具合が悪くなる」ことだってある。

どんなに受け入れがたくても、受け入れるしかないことが世の中にはある。もちろん老いて過去を忘れても、その人の歴史がすっと消えるわけではない。

それが人生だと、このやさしい映画は強く教えてくれる。智樹を演じる黒崎煌代は見事だった。


『急に具合が悪くなる』
●監督・共同脚本/濱口竜介
●出演/ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代ほか
●2026年、フランス・日本・ドイツ・ベルギー映画
●196分 ●配給/ビターズ・エンド
●TOHOシネマズ日比谷ほか全国にて公開中
https://www.bitters.co.jp/soudain/

藤野千夜/Chiya Fujino
海燕新人文学賞「午後の時間割」で1995年デビュー。 2000年『夏の約束』(講談社文庫)で芥川賞受賞。以後の主著に『団地のふたり』(双葉文庫)、『団地メシ!』(角川春樹事務所刊)ほか。

*「フィガロジャポン」2026年8月号より抜粋