「誰も私にマニュアルを渡してくれなかった」一般人からモナコ公室へ……シャルレーヌ公妃が明かした胸の内。
プロの水泳選手からモナコ公妃となったアルベール2世大公の妻・シャルレーヌ公妃は、モナコに移り住んだ際、自分にはまったく未知の世界だった環境のしきたりを学ばなければならなかった。
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彼女が慣れ親しんでいたのはプールであり、王宮にはほとんど縁がなかった。モナコにやって来たシャルレーヌ・ウィットストックは、南アフリカで知っていた世界とはかけ離れた環境に慣れていかなければならなかった。それから数年後、彼女はこの時期を「パリ・マッチ」誌で自ら振り返り、こう語っている。「宮殿で暮らし始めたとき、立派なプリンセスになるためのマニュアルを誰も私に用意してくれませんでした。また。この宮殿に公室の夫妻が暮らすのは、20年以上ぶりのことでした。」この宮殿で最後に暮らしていた公室夫妻は、アルベール2世公の両親であるレーニエ3世とグレース・ケリーだった。1982年にグレース公妃が交通事故で亡くなった後も、その存在はモナコ公国で人々の記憶に残り続けていた。2011年、アルベール2世大公と結婚したシャルレーヌ公妃は、いまなお往年の女優グレース・ケリーの存在が色濃く残る一家に入ることになった。
「まるでクリスマスツリーのようだった」
彼女がそれまで送ってきた人生と、そこから一転して歩むことになった人生との隔たりは、モナコ公室入り後の最初の数年間によく表れている。2010年、すでにアルベール2世大公と交際し、モナコでより公的な立場を担うことになろうとしていた彼女は、初めて赤十字舞踏会に出席した。当時「タトラー」誌に掲載されたインタビューで、後に公妃となるシャルレーヌは、このような夜の社交イベントに向けて、自分は十分な準備ができていなかったと語っている。「私にとって初めての赤十字舞踏会は、まさに試練の場でした。私は水着で過ごすことに慣れていて、ファッションについては何も知りませんでした」と、プロの水泳選手としてのキャリアを振り返りながら語った。
舞踏会当日、彼女は準備のことを考えるより先に、一日中ビーチでバレーボールをして過ごしていたという。友人から緑色のドレスを借り、自分で髪を整え、爪には赤いマニキュアを塗った。そして、自分の装いについて「まるでクリスマスツリーのようだった」と評している。このエピソードから浮かび上がるのは、まだその世界のしきたりを十分に理解していなかった若い女性が、未知の環境の作法を一つひとつ学んでいく姿だ。「パリ・マッチ」誌では、宮殿に入った当初、誰からも「一人前のプリンセス」になるための方法を教えてもらえなかったと明かしている。
グレース・ケリーとの比較
こうした学びの時期は、モナコ公国の人々の視線が注がれるなかで進んでいった。シャルレーヌ公妃より前に同じ立場にあったのがグレース・ケリーであり、いまなお彼女の存在はモナコの人々にとって特別な意味を持っている。アルベール2世大公とシャルレーヌの結婚当初から、ふたりはとりわけブロンドの髪や青い瞳を理由に比較されるようになった。モナコ公室に詳しく、『Charlene: In Search of a Princess(原題)』(L’Archipel刊)の著者でもあるアーリーン・プリンスルーによれば、こうした比較は、新たな公妃をめぐる周囲の期待の一部でもあったという。「当時、世間は『2人目のグレース公妃が現れる』と想像していたのだと思います。ブロンドの髪や穏やかな青い瞳など、外見がとてもよく似ていますから」と彼女は説明している。
当時、シャルレーヌ公妃が「グレイシー」(親しい人々から呼ばれていたグレース公妃の愛称)と同じような「華やかな魅力」をモナコにもたらすことを期待する人もいた。しかし、アーリーン・プリンスルーは、そんな期待に応えるのは難しいと考えている。「ふたりは別の人間です。まったく違う人間なのです。」アルベール2世大公自身も、シャルレーヌ公妃が受けることになるプレッシャーを予想していた。グリマルディ家の協力を得て、米国の伝記作家ジェフリー・ロビンソン(『Bardot』『Princess Grace』『The Laundrymen』などの著書で知られる)が執筆した『Grace of Monaco: The True Story(原題)』の中で、アルベール2世大公は、自身が結婚する女性はメディアだけでなく、モナコ国民からも厳しい目にさらされることになるだろうと語っている。「彼女は常に注視され、私の母と避けられない比較にさらされることになるでしょう。それは大変な重荷です」と、アルベール2世大公は語っていた。
アーリーン・プリンスルーによれば、元水泳選手だったシャルレーヌ公妃が経験した困難は、グレース・ケリーが直面したものとも重なるという。米国出身の元女優もまた、1956年にレーニエ3世と結婚した後、故郷や家族、慣れ親しんだ生活を離れてモナコに移り住んだ。「グレース公妃もまた、モナコで温かく迎えられたわけではありません」と、『Charlene: In Search of a Princess』の中でこの専門家は述べている。結婚後、グレースの身近な人々は米国へ戻り、新たな公妃となった彼女は、慣れ親しんだ環境からかなり遠く離れた場所で暮らすことになった。この専門家によれば、アルベール2世大公の母もまた、モナコで本当に自分の居場所だと感じられるようになるまでには、数年を要したという。もっとも、これはあくまでその専門家個人の見解である。とはいえ、両者の共通点はそこまでだ。グレース・ケリーとシャルレーヌ公妃は、共に王子との結婚によって人生を一変させたが、その歩んできた道のりや人柄はそれぞれ異なっている。
モナコでの苦難の始まり
シャルレーヌ公妃にとって、人生の変化は南アフリカを離れ、親しい人々の一部と別れることも意味していた。アーリーン・プリンスルーによれば、モナコ公国で暮らし始めた当初、彼女はひとりで過ごすことになり、親しい友人もほとんどいなかったという。この専門家は、そうした状況は時間とともに変化していったと考えている。現在では、兄のギャレスがモナコで暮らしており、南アフリカにいる家族も彼女のそばにいる。モナコで暮らし始めた最初の数年間には、いまのように家族を身近に感じられる環境はなかった。

さらに、シャルレーヌ公妃はモナコで暮らし始めた最初の数年間、主に英語で話していた。フランス語で初めて公の場でスピーチを行ったのは、アルベール2世大公との結婚から4年後となる2015年7月、夫の在位10周年を祝う場でのことだった。宮殿広場に集まった人々を前に、彼女はこう切り出した。「大公殿下、今日ここに殿下の10年間の御治世を祝うことができ、私たちはこの上ない喜びに包まれています。」続いて、アルベール2世大公に直接こう語りかけた。「あなたは人々に愛されるプリンスです。そして、私が心から愛するプリンスでもあります。」そのとき、大公は深く感動した。この稀有な愛情表現の記録は、いまもなおモナコ大公宮殿に保存されている。
From madameFIGARO.fr
※この記事は、フランスの新聞社「Le Figaro」グループが発行する「madame.lefigaro.fr」で掲載されたものの翻訳版です。データや研究結果はすべてオリジナル記事によるものです。
- text: Lovelly Ndinga Ikobo (madame.lefigaro.fr)
- translation: Hanae Yamaguchi