障がいを持ち、産みの親に捨てられた少女がオリンピアンに。
Culture 2021.08.22
文/オクサナ・マスターズ(パラアスリート) 
オクサナ・マスターズ選手(32歳)。飽くなき挑戦 パラサイクリングだけでなく夏冬パラリンピックの複数競技で8つのメダルに輝いた。 photo: HARRY HOW/GettyImages
チェルノブイリ原発事故の影響も疑われる、先天性欠損症を持って生まれた孤児を育てた養親の愛と励まし。
ウクライナのフメリニツキー州で1989年に生まれた時、私の両脚は脛骨が足りず、左脚は右脚より約15cm短かった。両手の親指と腎臓の1つ、胃の一部と右の上腕二頭筋も持ち合わせていなかった。
医師たちは、先天性欠損症の原因は胎内での被曝だろうと言ったが、86年のチェルノブイリ原発事故が直接の原因だと特定することはできなかった。とはいえ、事故後数年のウクライナの放射線レベルは高く、私の両親は妊娠中に国内を旅行していたようだ。私の産みの親は出産時に私を引き取らず、私はウクライナの3カ所の施設を点々として育てられた。
いまとなっては、5歳の時に私の写真を目にしたアメリカ人の養母が、私を養子にするために多くの困難を乗り越えなければならなかったことがよく分かる。国際養子縁組が成立するまでに2年かかり、彼女はシングルマザーの身で手続きをやり遂げてくれた。
7歳でアメリカに到着した時、私は健康な発育状態とは程遠かった。栄養失調で、初めて風呂に入った際にはバスタブが茶色になった。医師たちは、あのままウクライナにいたら私は10歳まで生きられなかっただろうと言った。大きくなるにつれ、養母のしたことの偉大さに気付いた。彼女は、私の命を救ったのだ。
私は9歳で左脚を切断せざるを得ず、手術後はニューヨーク州からケンタッキー州に引っ越した。そこで出合ったのがボートだ。ある日試してみると、たちまちこの競技のとりこになった。こんなにも自由と湧き上がる力を感じたことはなかった。生まれて初めて、私は自分の肉体と力強さを意識することができた。
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パラリンピックを知らなかった。
14歳の時に右脚も切断しなければならず、約半年間の入院生活を送ったが、ボート競技に戻りたくてたまらなかった。所属する競技団体のディレクターが、パラリンピックを目標にしようと言ってくれた。当時、私はパラリンピックが何かも知らなかった!
そして2012年のロンドンパラリンピック(夏季大会)で、私はダブルスカル(2人乗りボート)で銅メダルを獲得。だが翌年韓国で行われた世界ボート選手権で背中を負傷し、ボート競技のできない体になった。
諦める代わりに、私はクロスカントリースキーに挑戦し、すぐに夢中になった。14年のソチパラリンピック(冬季大会)では2種目で銀・銅メダルに輝いた。
ソチの後は、16年からパラサイクリングも始めた。20年東京パラリンピックの延期の知らせを聞いた時、正直言ってほっとした。もちろん新型コロナウイルスは脅威だが、夏冬「二刀流」の私にとっては、練習期間が少しでも延びるのはありがたいことだ。
一方で、東京大会のほんの6カ月後に行われる北京冬季パラリンピックはかなり厳しい。でも、自分がどこまでいけるかに懸けてみようと思う。
18年の平昌パラリンピックではスキー競技でふたつの金メダルを獲得した。誰も味方のいなかった孤独な少女は消え去り、表彰台の頂点で大勢の注目と歓声を浴びる私がいた。
母はいつも、私ならできる、孤児時代の経験が私を強くしたのだ、と励ましてくれた。試合の前に自信を失いそうになるたびに、彼女は私の視野を広げてくれ、おかげで私は自分のやるべきことに全力を傾けることができた。
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text: Oksana Masters



