【新連載|オーセンティックな香り】軽井沢でホテル・リッツ気分を。

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翻訳家、作家、ジャーナリストの村上香住子が、これまでの人生で出会ってきた“オーセンティック”なモノ・コトを綴る新連載がスタート。身近にありながら忘れかけていた香りや旅の記憶、そして本物の贈り物——日常を豊かにするエッセンスをお届けします。


どんなものでも、生命を宿したものには匂いがあるはずです。

たとえば長毛の愛猫の襟首の辺りに鼻を埋めて、胸いっぱいにすうっと吸い込んでみたり、朝食のパン・ペルデュからバターの匂いの湯気が立ち上っていたり、または雨が降る寸前のあのもやっとした匂い、それから濡れた草の匂いも悪くないし、そして自分の肌の匂い、既製品の香水やアロマオイルだけではなく、私たちの周りには日常的に色々な匂いが溢れているものです。

今はなにもかもAI頼りになりがちですが、考えてみると私たちにはAIにはできない感性、香りというオーセンティックな世界が残されています。

旅の本というのは、これまで多くのガイドブックが出版されていますが、香りの旅の本はまだ出ていないかもしれません。蝋梅の香りやリラの花の香り、黄水仙の香りを求めて旅をするのも、スロートラベルとして、こころ洗われる旅になるのではないでしょうか。または柚子や山椒の香りに包まれてみたりするのも。

今回シリーズで始める「オーセンティックな香り」は、身近にあるのに、すっかり忘れていた香りや旅先の香り、またはオーセンティックな贈り物などについて、毎回書いていきたいと思います。

先日五月の半ば、久しぶりに軽井沢に行ってきました。今は新幹線で1時間で着くので、東京まで通勤する人もいるそうですから、知らないうちに前に住んでいた鎌倉より、都心に近くなっていました。

つい最近まで鎌倉に住んでいたのですが、その頃長谷で諸戸純さんという人と知り合いました。彼女はパリの名門料理学校「ル・コルドン・ブルー」のパティスリー部門で学び、パリのホテル・リッツで働いていたそうです。

純さんが長谷で開いていた予約制のサロン・ド・テ「ル・トレフル長谷」で無花果タルトを食べて以来、すっかり親しくなりました。 「今度は軽井沢で始めます」といっていましたが、その約束通りに「ル・トレフル軽井沢」を開店したので、そのオープニングに招待されたのです。

軽井沢は鮮やかな新緑が眩しいくらいの、初夏のような陽差しの昼下がりでした。お店のある塩沢通りは、グルメ通り、と言われるくらいおいしいお店が並んでいるそうです。

どこからか、イラクサの香りが漂ってくるような道の向こうに、いかにも避暑地のヴィラといったウッドと煉瓦の邸宅風のお店が見えてきます。小さな中世様式の看板の出ているお店の扉を開けると、そこはエレガントなパリのサロンでした。

テーブルの上には、白磁のティーセットが置かれていて、テラスの向こうには、紅葉や檜の木立が並ぶ森のパノラマが広がっています。その日はパリのリッツでお菓子を作っていた純さんのお友達も、軽井沢にお手伝いにきていて、なんだかパリのリッツの中庭にいるような雰囲気です。インテリアも純さんが2年間の準備期間に、パリやフィレンツェで買ってきたアンティックものだし、とても心和らぐ空間でした。

季節のフルーツで作ったタルトレットやアントルメなどを、セレブレーションの紅茶の香りと堪能していると、目前の木立の間を、森の風がさやさやと通り過ぎていきます。

心地のいい新緑の香りの漂う軽井沢で、ホテル・リッツ風のガトー・オー・ショコラやフィナンシエ、ビスキュイをいただくのは、極上気分です。

自分へのご褒美や、スペシャルな昼下がりを過ごしたい方、大事なひとと思い出深い一日を送りたい方には、ぜひお勧めします。

香りで思い出すのは、パリでシャルロット・ゲンズブールが、バック通りの自宅で手料理を作ってくれた夜のことです。その日の夕食前に「ねえ、香りは何がいい?」というSNSメッセージがきました。夕食に好みの香料まできかれるとは思ってもいず、とっさに、「レモングラスの香りが好き」と返信しました。

あのつんとした香りは、適度に自己主張をしていて、きっと料理を引き立ててくれるに違いない。そう思ったからです。その夜のシャルロットの食卓には、バジル、ローズマリー、イタリアン・パセリといったハーブのサラダと、レモングラスにたっぷりと包まれた鱒、といった具合に、実に繊細な香りに包まれたディナーでした。

私たちは夜更けまで、シャルロットの母、亡きジェーン・バーキンの話をしていたのですが、もしかしたらあの夕食の香りは、私たちのこころの扉を開く鍵だったのかもしれません。

ル・トレフル軽井沢
長野県北佐久郡軽井沢町長倉820-138
※予約制
@treflekaruizawa

翻訳家、作家、ジャーナリスト。訳書としてはアンリ・トロワイヤのロシア文豪伝三部作『ドストエフスキー伝』『ゴーゴリ伝』『チェーホフ伝』(すべて中央公論新社)を翻訳する。その他、ボリス・ヴィアンの『ぼくはくたばりたくない』(早川書房)など。1985年よりマガジンハウス、1996年より「フィガロジャポン」のパリ支局長に。20年間のパリ生活のエッセーやパリ文壇との交流記『反記憶』(幻冬舎)など多数。近著は2024年の『ジェーン・バーキンと娘たち』(白水社)。最新刊は『おしゃれなマナーAtoZ パリで暮らして知ったミューズたちの素顔』(CEメディアハウス、2026年)。バーキン、サガン、サンローランなど、本物のパリセレブとの知られざるエピソードと、目の当たりにした本物のマナーの数々を紹介。