イタリアでは「隣の州に行くと食べるものから飲むワインまで変わる!」マッシがリグーリア州で海を眺めた子どもの頃の思い出。

FIGARO Wine Club

日々の生活を彩るワインを自分らしく楽しむフィガロワインクラブ。イタリア人ライター/エッセイストのマッシが、イタリア人とワインや食事の切っても切り離せない関係性について教えてくれる連載「マッシのアモーレ♡イタリアワイン」。今回はピエモンテーゼのマッシが子どもの頃から出かけていたお隣の州・リグーリアについて! 海が香るワインと、料理のペアリングとは?


イタリア人が自国の食文化を語る時、人々はよく“郷土愛の強さ”を口にする。自分の生まれた村のパスタがいちばんであり、隣町の料理すら邪道だと笑う。もちろん僕も例外ではない。ピエモンテ州で生まれ育った人間として、秋の白トリュフやじっくり煮込んだブラザート(牛肉のワイン煮込み)、そして燦然と輝くバローロやバルバレスコには並々ならぬ誇りを持っている。

しかし、そんな頑固なピエモンテ人にも、実は、秘められた逃避行の地がある。それが、南に隣接する「リグーリア州」だ。

山に囲まれたピエモンテに住む人たちにとって、緩やかな丘陵を越え、アペニン山脈を抜けた先に広がるリグーリアの海は特別な存在だ。僕も幼い頃から、週末には潮風の香る沿岸の町へとよく連れて行ってもらっていた。海が見えた瞬間の胸の高鳴りは、大人になったいまでも鮮明に覚えている。それに、僕以上にキラキラとした笑顔で永遠の憧れを見つめる、父と母のあの横顔も。ピエモンテには海がないからこそ、まるで地球の引力に導かれるかのように、リグーリアへ足を運ぶのだ。

リグーリアに関して、僕はどうしても忘れられないある出来事がある。いつもの週末にリグーリアに到着した日の朝、バールで朝食をしていたときのことだ。なんと、リグーリアの地元人が、あろうことか焼き立ての「フォカッチャ」を細長くちぎり、泡立つカプチーノにドボンと浸して食べているのだ!

リグーリアにて、リヴィエラリグーレ(リグーリア海岸)を眺めてカプチーノとフォカッチャ。

初めてそれを見た時の衝撃はいまでも忘れられない。フォカッチャといえば、表面にたっぷりのオリーブオイルと粗塩が振られた、しっかりと塩気のあるパン。それを、甘くミルキーなカプチーノに浸すなんて、ピエモンテ人の感覚からすれば正気の沙汰ではない。

イタリアの朝食といえば、甘いクロワッサンに温かいカプチーノを合わせるのが全国共通の黄金パターンである。ピエモンテでも当然そうだ。「いくらなんでも、それはやりすぎだろう」と、幼い僕は目を丸くした。

けれど、甘塩っぱいであろうフォカッチャを食べて、うっとりと目尻を下げているリグーリアのおじさんを見ていたら、なんだかソワソワしてきた。チラッと父の方を見ると、眉をひそめて口をへの字に曲げているものの、どことなく羨ましそうな、目が離せない様子だ。父のそのわずかに見えた羨望に付け入って、意を決し「僕もあれが食べてみたい!」と言った。母は珍しく、何も言わない。僕たち家族の食文化のシャッターが開くかどうかは、父にかかっていた。

「……まあ、品定めしてやるのも悪くないな」

僕は父に合わせて難しそうな顔で「そうだね……」と言いつつも、内心は喜びに満ちあふれていた。母もやっぱり珍しく、何も言わずにウキウキとした様子。注文し終えた僕たちは、いまからどんなことが待ち受けているのだろうと、興味半分、恐怖半分で、例のアレを待っていた。

フォカッチャとカプチーノがテーブルに並び、恐る恐るおじさんの真似をしてひと口食べてみると、思いがけない感動が訪れた。カプチーノの温かいミルクとコクのある甘みが、フォカッチャの表面にある岩塩の塩気とオリーブオイルの風味が持つ香ばしさを劇的に引き立てるのだ。甘みと塩味、そしてオイルのまろやかさが口の中で見事にフュージョンしている。イタリア版の「塩キャラメル」のような、悪魔的で癖になる味わいだった。

僕は、「Buono!!!!!」と叫びたい気持ちをグッと我慢し、目線だけを父と母に向ける。ふたりとも、幸福という名の雲に包まれたような顔で目を閉じていた。僕は安心して満面の笑みで、「やっぱりおいしいね!」とふたりに言ったのであった。

「食に頑固」と言われるイタリア人だけれど、こんな奇妙で愛すべきローカルルールが隣の州に存在する。これだからイタリアの旅はやめられないのだ。朝食の驚きを経て、ある日の昼食にはこんなことがあった。

僕たち家族が海辺のトラットリアに入った時のこと。「パスタ・アッレ・ボンゴレ(アサリのパスタ)」を注文した。リグーリアに慣れてきていた僕たちはよくこのパスタを注文していて、引き締まったアサリから出る濃厚な出汁と、白ワイン、ニンニク、パセリが絡み合うシンプルかつダイナミックな味わいの虜になっていた。ピエモンテの自宅では貝類を食べる習慣がなかった僕にとって、リグーリアのボンゴレは別格のごちそうだ。最後には、皿に残った旨味たっぷりのオイルを、朝にも食べたあのフォカッチャで綺麗に拭き取って食べるのがお決まりだ。

アサリ出汁をたっぷりと含んだロングパスタ。

「こんなの、ピエモンテじゃ絶対食べられないよね」

数回のリグーリア訪問を経て、いくらか食へのこだわりが柔軟になった父が、満足そうにワイングラスを傾けながら呟く。いままでなら「ピエモンテの料理が世界一だ」と譲らない頑固な父すらも、リグーリアの海を前にすると文句なしにその食文化を受け入れ、脱帽するのだ。

また、ピエモンテでは絶対にない「ペーストジェノヴェーゼ」も、僕たち家族のお気に入りだった。ピエモンテの食卓は、バターやラードを贅沢に使い、牛肉や豚肉、ジビエを重厚なソースで味わうのが日常だ。野菜といえば根菜やキャベツが中心で、魚といえばアンチョビくらいだった。

ところが、リグーリアでは「鮮魚」と「フレッシュなハーブ」が食卓の主役になる。ペーストジェノヴェーゼの鮮やかな緑色のバジル、松の実、ニンニク、オリーブオイルを大理石の鉢ですり潰したソースは、ピエモンテの重厚な煮込み料理とは対極だ。爽やかな香味が鼻を抜け、口いっぱいに夏の風が吹くような清涼感をもたらしてくれる。

食が変われば、当然グラスの中身も変わる。ピエモンテのワインといえば、ネッビオーロ種から作られるバローロのように、重厚でタンニンがしっかりとした赤ワインが象徴的だ。これらは肉料理には完璧な相棒だけれど、繊細なアサリの出汁や、バジルのフレッシュな香りには主張が強すぎる。ここで、父がよく飲んでいたのが、リグーリア州が誇る白ワイン「ピガート」や「ヴェルメンティーノ」だ。

地元産、海の味が溶け込んだピガートを。

グラスに注ぐと、柑橘類や地中海の低木を思わせる爽やかなハーブの香りが立ち上る。ひと口飲むと、しっかりとした酸味のあとに、どこか「塩気」を感じるようなミネラル感が残るのだ。そう、リグーリアの白ワインには、すぐそばにある海の潮風が溶け込んでいる。

アサリの旨味が凝縮されたボンゴレを口に含み、すかさず冷えたピガートを流し込む。パスタの出汁とワインの持つ微かな塩分、そして酸味が調和し、口の中で波が打ち寄せるような心地よい余韻が生まれる。

「ピエモンテでは赤ワインをじっくりと嗜むのが流儀だけれど、リグーリアでは白ワインを海の恵みとともに心地よく飲み干すのが正しい作法なんだよ」

父の言葉である。まるで、リグーリアの専門家のような顔で、ワインについて楽しそうに母と会話していた父。その横で、僕はずっとパスタとフォカッチャを交互に食べては、うんうんと頷いていた。

イタリア人が自分の郷土料理を愛してやまないのは事実だ。しかし同時に、隣の州へ足を延ばし、自分たちの文化にはないものを手放しで楽しむ柔軟さも持ち合わせている。いまは亡き父の、あの少年のような横顔を引き出してくれたリグーリアは、僕にとってピエモンテと並ぶ故郷となっている。

マッシ

フードエッセイスト

Massimiliano Sgai
1983年、イタリア・ピエモンテ生まれ。トリノ大学大学院文学部日本語学科修士課程修了。2007年に日本へ渡り、現在は石川県金沢市に暮らす。著書に『イタリア人マッシがぶっとんだ、日本の神グルメ』(2022年、KADOKAWA 刊)