「働き、食べ、歌い語らう景色の親密さ」映画『よき谷の物語』を、映像作家・飯岡幸子がレビュー。

Culture

人が共生する土地に流れる、幾重もの時間に耳を澄ます。

近現代の開発を免れ、たおやかな緑地の“孤島”めくバルセロナ市の一区域の暮らしを、現代スペイン随一の監督が追う。働き、食べ、歌い語らう景色の親密さ。農園の立ち退き話が急上昇し翳りを帯びてなお、人々の起き伏しは輝きを失わない。
Orfeo Iluso – Perspective Films – 3CAT – Los Ilusos Films – Los Films de Orfeo © 2025

『よき谷の物語』

文:飯岡幸子 撮影監督、映像作家

スペイン、バルセロナ郊外のバルボナ地区。周囲を鉄道の線路や高速道路に囲まれた“よき谷”と呼ばれる地区の夜が明け、町に出演者募集の貼り紙が出されるところから映画は始まる。井戸を掘り、家を建て、土地と生活を切り拓いた日々の苦労や喜びを懐かしむ、今は老いた世代。それぞれの事情で近隣の国や遠い国から移り住み、暮らしを築く人たち。家賃の高騰で郊外に引っ越してきた住人。子供たち。“よき谷”に暮らす人々の口から語られるひとつひとつの物語が、ホセ・ルイス・ゲリン監督によって映像と音で語り直されるように編まれていく。そして映画が編まれ拡がっていくほどに、彼ら、彼らの物語が、いかにこの土地の歴史そのものであるかということに気付かされる。「ここを舞台に西部劇を撮ったらいい」と話す老人が丘の上に立つ場面が印象深く映るのは、そこに西部劇の音が被せられているからだけではきっとない。ひとりの人間の中に在る風景に目を凝らすこと、そこに流れる時間や歴史に耳を傾けることを止めないこの映画の態度そのもの、そこにある敬意に心を動かされるのだ。

人々の間で繰り返し交わされる、植物に話しかけることはある?という質問がある。人間が移り住むずっと前から、誰に見られることもなく(当然そこにカメラもなく)ただずっとそこに在った風景のことを考える。光。風。流れ続ける水。物言わぬ植物たち。同じ土地に重なり流れるまったく異なる時間。記憶を失っていく男性が、絶えず彼に話しかけ質問をし続ける妻に返す、「もっと聞いてくれ。何か覚えているかも」という言葉が忘れられない。今自分が在る場所から、違う時間の中に在るものを「もっと聞く」ことはできるという希望を、静かに教えてくれるような映画だ。


『よき谷の物語』
●監督・脚本・編集/ホセ・ルイス・ゲリン
●2025年、スペイン・フランス映画
●122分 ●配給/コピアポア・フィルム
●ヒューマントラストシネマ渋谷ほか 全国にて公開中
https://goodvalleystories.jp/

飯岡幸子/Yukiko Iioka
2021年、濱口竜介監督『偶然と想像』の撮影監督を務め、世界的な賞賛を受ける。以後、撮影作品に杉田協士監督『春原さんのうた』(21年)、森井勇佑監督『ルート29』(24年)ほか。

*「フィガロジャポン」2026年9月号より抜粋