19世紀末、パリでピカソを一番に見出した小さな女性画商ベルト・ヴェイユ。

Culture

19世紀後半から20世紀の初頭のパリで我が道を歩んだ女性たちがいた。男性優位の時代でも、自分の意思を貫き自由に生きたパリの女たちに焦点を当てる連載「知られざるパリの女たち、その生き方」。第8回は身長150cm、鼻眼鏡がトレードマークのBerthe Weill(ベルト・ヴェイユ/1865~1951年)だ。20世紀初頭、男性社会だった画商の世界で女性として気を吐いた画廊経営者である。無名だったパブロ・ピカソの作品を最初に扱った画商が彼女。昨秋、オランジュリー美術館で『Berthe Weill/Galariste d’avant-garde(ベルト・ヴェイユ/前衛画商)』展が開催され、その知られざる功績、85年の人生にスポットがあてられた。

ベルトがパリのピガール地区に画廊を開いたのは1901年。引越しを繰り返し、最後となったパリ7区サン・ドミニク通り27番地の画廊を1940年にクローズした。第二次世界大戦勃発の翌年である。

1931年に画廊開設30周年祝い、盛大な仮面舞踏会を催した彼女。その2年後に上梓した『pan!.. dans l’œil..』の中で、自身の画商人生についてこう語っている。「心から満足できる仕事を私は創り出した。だから私は幸せだと思わざるを得ない……私は幸せだ」と。画廊経営40年の間に彼女が開催した展覧会は数百近くあり、展示したアーティストは300名近く、画廊が展示した作品は約7,000点とか。パリの20世紀前半の芸術界でのこれほどの活躍にも関わらず、これまで語られる機会がほとんどなかったのだ。

展覧会のカタログ(左)とその客員キュレーターも務めた芸術史家であり、ベルト・ヴェイユのアーカイブを15年がかりで創りあげたMarianne Le Morvan(マリアンヌ・ル・モルヴァン)による「ベルト・ヴェイユ、モダーンアートの商人兼メセナ」。photography: Mariko Omura

七人兄弟の5番目としてベルトが生まれたのは、アルザス地方の貧しいユダヤ人家庭だった。15歳の時に、18世紀の版画と絵画を扱う店で見習いを始めるのだが、その師匠の教えが良かったのだろう。彼は“自分が好きだというだけが、基準”という信条の持ち主だった。彼の元で経験を積んだ彼女は、彼の没後1897年にその未亡人から半年分の家賃を貸してもらって、骨董とアートオブジェを扱う店を開くのだ。当時劇場やキャバレーも多くあったけれど、額縁職人もいて、またゴッホでおなじみの「タンギー爺さん」のような画材屋があって……というピガール地区のヴィクトール・マセ通り25番地。徐々に若い芸術家たちの絵画への関心を膨らませていった彼女は軌道修正し、1901年12月1日に画廊La Galerie B. Weilを開設。女性画商としての人生の始まりである。

パリ、9区。ヴィクトール・マセ通り25番地の記念プレート。1850年に建てられた建物の地上階にベルト・ヴェイユの画廊があった。また建物の上階の小さなアパルトマンに暮らしていた時期もあるそうだ。photography: Mariko Omura

「若者たちに場所を!」

そのきっかけとなったのがパブロ・ピカソの作品だ。彼女が彼の作品を購入したのは画廊開設前、1900年のことだった。彼女をピカソに紹介したのは、カタロニア人の画商ペレ・マニャック。バルセロナからパリにやってきて間もない21歳の画家がパリで描いた初の大作『Le Moulin de la Galette』を含む3点を彼女は100フランで購入した。ピカソの画商として名高いアンブロワーズ・ヴォラールがピカソ展を開催するより先に、彼女はピカソの作品を15点も売ったそうだ。しかも、無名の若手画家にしては破格の価格で。画廊では開設した年にアンリ・マティス展も開催している。1903年には隣のスペースも借りてスペースを拡大。若手芸術家の画廊と並行して、資金繰りのため彼女は骨董の販売も続けていた。

オランジュリー美術館での展覧会より。左はアンリ・マティス作『Première nature morte orange』(1899年)。ベルトはマティスの作品を1902年に初めて画廊で展示した。右はパブロ・ピカソ作『Nature morte』(1901年)。photography: Mariko Omura

約40年の間に彼女が開催した展覧会で紹介したのは主に若い芸術家たちの作品だった。その300名は画風も様々なら、男女も国籍も問わず。例えばシュザンヌ・ヴァラドン、ジャクリーヌ・マルヴァル、マリー・ローランサン……若くはないものの存在を認めてもらうのに苦心していた女性画家たちにも、ベルトは展示の場を提供した。画廊B.ヴェイユの展覧会の中には、スキャンダルを呼んだものもある。1917年に9区テブー通り50番地に移動した画廊で開催した、アメデオ・モディリアーニ展だ。展示の絵画32点中4点は裸婦像。隠毛が見えることから猥褻行為とみなされ、警察が関わる騒動へと発展することに。1点も売れず、36歳で亡くなった短命の画家の生前唯一の個展は成功とは言い難いものとなってしまったけれど、それでもベルトは怯まず。彼の作品5点を自ら購入している。

フォーヴィスムの画家たちの作品が1915年のサロン・ドトーヌで注目されるよりも先に画廊で紹介したのも、彼女である。キュビズムについてもしかり。その中には、フリーダ・カーロと後に結婚するメキシコ出身の画家ディエゴ・リヴェラの作品も含まれていた。彼もモディリアーニもそうだが、彼女は海外からパリに集まってきた芸術家たちの仕事も見逃してはいなかったのだ。

オランジュリー美術館の展覧会より。左はシュザンヌ・ヴァラドンの2点、右はこのシリーズ第2回目で紹介したジャクリーヌ・マルヴァル作『Minerve』(1900年)。彼女についてはこちらを。photography: Mariko Omura

さて、そのモディリアーニが亡くなるのは1920年。これはベルトがテブー通りからラフィット通り46番地へ画廊を移した年である。少し経済的に余裕ができた彼女は、骨董を扱うことはやめ、2フロアある新しいスペースで画商の仕事に専念するのだ。14年後に7区に画廊を移すまで、ここを舞台にベルトは抽象画も扱い、活発な画商活動を行う。画廊の開設25年目の1926年には“銀婚式”と称してヴィレットのレストランDagornomにおいて仮装舞踏会を催し、その5年後には30周年を祝って再び盛大な仮装舞踏会を催している。1933年には30年の画廊人生の回想録を出版。画家そして収集家たちの間でも、彼女の名前を知らぬものはいない時代だ。キース・ヴァン・ドンゲン、マルク・シャガール、アンドレ・ドラン、モーリス・ユトリロ、ジョルジュ・ブラック……まだ無名の時代にベルトが画廊で作品を紹介し、その後名を成した画家たちは少なくない。もっとも画廊の知名度にかかわらず、資金繰りはいつも厳しい状態だったらしい。

オランジュリー美術館で展覧会場の壁を飾ったのは、Marc Vaux(1895〜1971年)が撮影した画廊の25周年祝いの仮装パーティーの写真だ。中央、鼻眼鏡をかけ全身黒い装いがベルト。photography: Mariko Omura
左:きっちりと7・3に分けた髪が特徴の彼女。オランジュリー美術館の展覧会で、もうひとつの特徴である鼻眼鏡が展示された。 右:1933年に発表した『pan!.. dans l’œil..』。“1900〜1930年 コンテンポラリー絵画の舞台裏における30年間”とサブタイトルがつけられている。photography: Mariko Omura

先に書いたようにベルトはユダヤ人である。1938年からユダヤ人の企業経営がドイツ政府によって禁じられ、ベルトは1941年に画廊経営社名を友人名(この人物の詳細は不明)へ変更。これは法を交わす手段だったが、結局この年に画廊を彼女はクローズすることに。戦時下、強制収容を免れたベルトは友人で画家のエミリー・シャミィのアトリエに匿われていたらしい。ベルトがエミリーを発見したのは1905年の独立展でのこと。誰のものでもない独自の作風に魅了され、画廊が最も多く紹介した画家の一人がエミリーである。ちなみに、この展覧会のカタログの表紙に使われているベルトの肖像画は彼女の筆による。画廊閉鎖後、視力も衰え、健康も優れず。また経済的にも苦しく……美術愛好家・収集家協会が公開オークションを催して彼女の財政援助を行なったほどだ。

83歳を迎えた彼女にレジョン・ドヌールが授けられたものの、画廊閉鎖から10年後に当たる1951年、85歳の生涯を閉じる。商才に長けた敏腕の画商ではなく、彼女ならではの視点を守り、芸術および芸術家たちへの愛情に支えられた画商人生だった。自由に大胆に、そして直感で無名の才能を見出し、画廊で紹介し……。“失望もあったけれど喜びもあった。自分がしたいことをした。”こう言い切れる素晴らしい人生をベルトは送ったのである。彼女が画廊を経営していた時期は、アンブロワーズ・ヴォラール(1866~1939年)、ダニエル=ヘンリー・カーン・ワイラー(1884~1979年)、ポール・ギヨーム(1891~1934年)など財を成した著名な画商たちの活動期と重なっている。自身の取り分を抑えて、発掘した若い画家たちの作品を手ごろな価格で売っていた彼女は豊かな暮らしとは無縁だった。画商でありながら彼らのメセナでもあったベルト。彼女流の画廊経営を妨げられる可能性があるということから生涯独身を通し、子どももいなかった。そんな彼女を「La petite Mère Weill(小さなヴェイユ母さん)」と呼んで慕っていたのは、彼女が目をかけ、面倒を見た画家たちだ。ちなみにこう名付けたのは1902年に知り合い、友情関係を築いていた画家ラウル・デュフィだという。いま、その小さなヴェイユ母さんはペール=ラシェーズの墓地に安らかに眠っている。

忘れられた存在ながら、2019年にはピカソ・美術館に隣接するトリニー通りの3番地の庭に彼女の名前が付けられた。奥にベンチが設けられ、地元民の密かな憩いの場となっている。Meertでゴーフルを買い、ピカソ美術館に行く途中に立ち寄ってみよう。photography: Mariko Omura

大村 真理子

madameFIGARO.jpコントリビューティング・エディター

東京の出版社で女性誌の編集に携わった後、1990年に渡仏。2006年から「フィガロジャポン」パリ支局長を務めた後、フリーエディター活動を再開。主な著書は『とっておきパリ左岸ガイド』(玉村豊男氏と共著/中央公論社刊)、『パリ・オペラ座バレエ物語』(CCCメディアハウス刊)。