アラン・ドロン、家庭内暴力を繰り返してきた過去とは?

Culture 2024.02.07

アラン・ドロンは若い頃から華麗な恋愛遍歴を重ねながらも粗暴な面を持ち合わせ、家庭内で暴力をふるってきた。「ル・パリジャン」紙によれば、昨年アラン・ドロンの同居人として報じられた日本人のヒロミもアラン・ドロンの暴力にさらされていたそうだ。彼の子どもたちも辛かった家庭環境を語っている。

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ベルリン国際映画祭でのアラン・ドロンとロザリー・ファン・ブレーメン。(ドイツ、1995年2月16日) photography: ABACA

肋骨8本を骨折、そして鼻は2度骨折。アラン・ドロンの息子のひとり、アラン=ファビアン・ドロンは2013年、「ヴァニティ・フェア・イタリア」誌の取材を受け、ロワレ地方のドーシーに住んでいた少年の頃、母ロザリー・ファン・ブレーメンの顔が腫れあがった事件を語った。田舎の大地所の閉ざされた空間を支配していたのは「恐怖」だった。アラン・ドロンの怒りは、一緒に暮らす相手めがけて鞭のように降りおろされた。アラン=ファビアンは嵐が過ぎ去るのを待つことを身につけた。「肋骨8本を骨折し、鼻は2度骨折。母はそのような仕打ちを受けるだけのことをしたのだろうか」とイタリアの雑誌に語っている。息子の衝撃発言に対し、アラン・ドロンは数日後、ル・パリジャン紙で反論している。「(記事を読んで)ぞっとしたし悲しい。アラン=ファビアンの姉や母も悲しんでいる」と言うと、「ありもしないことを並べ立てて、息子はどうしようもない。金のためにセンセーショナルなことを言っているだけだ」と切り捨てた。一方、母のロザリー・ファン・ブレーメンはこの件に関して黙して語らず、実際にはどうだったのか、大きな謎が残った。しかしこうした暴力の記憶を語ったのはアラン=ファビアンだけではない。彼の周囲の人々も、とりわけ女性に対する態度についてあまりかんばしくない話をしている。

現在、88歳のアラン・ドロンは、何ヶ月にもわたる家族騒動に巻き込まれている。しかも同居人だった66歳の日本人女性、ヒロミにも暴力を振るったことが伝えられている。ヒロミは2023年7月、俳優の子どもたち(アントニー、アラン=ファビアン、アヌーシュカ)から弱者虐待をおこなったとして訴えられ、アラン・ドロンが住むドーシーの屋敷から追い出された。彼女に対しては「モラルハラスメント」、「弱者虐待」、「監禁」、「動物への暴力」の告発がなされている。しかし、2024年1月23日のル・パリジャン紙に公表された国家憲兵隊の調査結果によれば、事態はもっと複雑なようだ。2019年に脳卒中で倒れたアラン・ドロンは、以前従業員と雇い主の関係にあったヒロミとの関係について、2人の間には、ある種の愛情が存在していたと答えている。さらにヒロミから殴られたことがあるかと聞かれ、こんなふうにも答えているのだ。「ああ、私が彼女にイライラして、彼女を殴ったお返しにね」と言うと平手打ちのジェスチャーをしてみせた。ヒロミが2010年、友人のひとりに宛てて書いた10ページにわたる手紙には、スター俳優から何度も暴力を振るわれたことが綴られている。この手紙は証拠書類として提出された。

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華麗なるチンピラ

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1960年代のナタリーとアラン・ドロン。 photography: Abaca

アラン・ドロンの女性とのつきあい方は、若い頃から普通ではなかった。最初はフランスのモテ男の代表的存在、男らしさとロマンスの象徴とみなされた。ロミー・シュナイダーやミレイユ・ダルクとの恋愛が美化され、ダークな側面は闇に秘められた。彼が俳優として人気絶頂だった1950年代から1960年代にかけては、まだ家父長制度が健在で男尊女卑が根強い時代だった。作家で映画監督のベルナール=アンリ・レヴィは2019年制作のアルテテレビ局のドキュメンタリー『Alain Delon, l'ombre au tableau(現代訳:アラン・ドロン、一点の曇り)』で次のようにアラン・ドロンを描写している。「アラン・ドロンはよく、もっとひどい人生になっていたかもしれないと語っていた。そして、何人かの心の広い素晴らしい女性たちと出会っていなかったら、悪の道に走っていたかもしれない、とも」。この発言からは、アラン・ドロンをめぐる女性たちがどのような存在だったのかがうかがい知れる。ギリシャの神殿を柱として支えるカリアティードの娘のごとく、俳優アラン・ドロンを支える存在だったのだろう。このドキュメンタリーの1年前の2018年、アラン・ドロンはフランスのテレビ局「フランス2」の番組「Thé ou Café(テ・ウー・カフェ)」でキャスターのカトリーヌ・セイラックから「あなたはつきあった相手にひどい態度を取ったことはありますか。つまり、マッチョな態度を取ったことは?」と質問され、率直に答えている「平手打ちはマッチョと見なされる? もしそうなら自分はマッチョだったね」

唯一、正式に結婚した妻であり、長男のアントニーの母であるナタリー・ドロンはかつて「リベラシオン」紙の取材に、「私たちは笑い、怒り、合間に愛しあった」と語っている。ふたりが結婚していたのは1964年から1969年にかけての5年間だ。どんな結婚生活だったか想像がつく。1965年、アラン・カヴァリエによるショートフィルムでふたりは互いのことをそれぞれ語っている。ナタリー・ドロンはアラン・ドロンとの最初の出会いを次のように語った。「最悪の出会いだった。彼はとても失礼だったわ。実のところ、私のバッグの上に座っていたから、自分の荷物を取りたいのでほんの少しの間立っていただけませんかと丁寧に頼んだ。そうしたら"バッグを取ったら。あんたのバッグに興味ないし"ですって」。一方、ブリジット・バルドーBFMTVに、「彼は最高にも最低にもなれる男よ」と語っている

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刻み込まれたトラウマ

1935年、パリ近郊のソーに生まれたアラン・ドロンは両親の離婚後、わずか4歳で里子に出された。実の父親は出兵し、母親には十分な稼ぎがなかった。ドキュメンタリー『Alain Delon: Une vie, un destin et un héritage contesté(アラン・ドロンの人生、運命、そして争われる遺産)』の中で、「パリ・マッチ」誌の編集長カトリーヌ・シュワブは、「彼にとって、それは挫折であり、そのトラウマは彼の中に刻み込まれた」と語っている。アラン・ドロンの里親はフレンヌ刑務所の看守で、刑務所に隣接する宿舎に住んでいた。養父はアラン・ドロンをよく仕事場に連れて行き、他の看守の子どもたちと遊ばせた。ドキュメンタリーが語るように、彼はそこで殴り合いの喧嘩や罵り合いを学んだのだ。

里親のもとで6年間過ごしたのち、アラン・ドロンは再婚した母親に引き取られる。再婚相手のポール・ブローニュとの間には娘が生まれていた。「アラン・ドロンは余計な子どもであり、結果的に他の子どもに嫉妬するようになった」とジャーナリストのジャン=リュック・ジュネストはドキュメンタリーの中で語っている。そして「母親はアランをミッション系の寄宿学校に入れた。そこでは体罰がおこなわれていた。それもひどい体験だった。こうしてこの子は恐怖と暴力の中で育つことになる」と続けた。同父異母弟のジャン=フランソワは11歳年上の兄、アラン・ドロンについて2021年に「シュノック」誌に思い出を語っている。「殴り合いの喧嘩」が好きで「陽気さのかけらもなく、狂犬のようだった」と振り返り、兄は「(歓楽街の)ピガールで娼婦や、やくざな連中とつきあいがあった。ほとんどチンピラに近かった」と語っている。

アラン・ドロンの子どもたちも同じように暴力的な環境で育った。俳優の長男、アントニー・ドロンは現在59歳。2022年、自伝『Entre chien et loups(原題訳:犬と狼の間)』(Cherche Midi刊)を発表し、子どもの頃の体験を語っている。10歳のとき、いとこたちがドーシーに遊びにきた。アントニーは食卓でふざけてしまった。「フォークを口に運ぶんだ、その逆じゃない」と父アランは怒り、「自分の部屋に行け」と怒鳴りつけると革の鞭を持ちだした。「私は犬でも鞭で叩いたりしない」とアントニーはその話を締めくくった。

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「息子よ、お前は男になるのだ」

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アラン・ドロン、ミレイユ・ダルクとアントニー・ドロン。 photography: Getty Images

アントニー・ドロンは、父親を手本として育ったため、時に自分も不適切な行動をとってしまったかもしれないと告白している。父親はヒーローであると同時に恐ろしい存在だった。2022年、アントニーは日曜日夜のテレビ番組『20h30 le dimanche』のゲストに招かれ、司会のローラン・ドラウッスに、ミレイユ・ダルクとの思い出を語った。1968年から1983年まで父親と交際していた女優に少年のアントニーを預け、アラン・ドロンが撮影に出かけた時のことだ。アントニーはミレイユ・ダルクに、「お前は出て行け」と言い放ってしまったことがあったそうだ。「自分はこの家の"男"だ。だから彼女を追い出す権利がある」と思い込んでいたことをアントニーは告白した。

ミレイユ・ダルクとアラン・ドロンの関係については、彼が彼女のためにドーシーに家を建てたこと、しかしながら最終的にそこに一緒に住んだのはロザリー・ファン・ブレーメンだったということ以外、あまり知られていない。いずれにせよ、ミレイユ・ダルクは父親の怒りから「何度も小さなアントニーを守ってくれた」ようだ。金髪のボブヘアの女優は、アラン・ドロンが目覚めた時に息子を目にするのを「嫌がった」ため、よく午前中、"タンティーノ"の愛称で呼んでいたアントニーを散歩に誘った。

厳しいしつけは後年、アントニーよりも30歳若い異母弟、次男のアラン=ファビアンに対してもおこなわれた。2013年、アラン=ファビアンは「ヴァニティ・フェア・イタリア」誌に対してアラン・ドロンが母ロザリーに肋骨8本を折る怪我を負わせた話と共に父がいかに残忍だったかを語っている。「アラン・ドロンは母に暴力を振るっただけではない。兄のアントニーと私は彼がいかに残酷になれるかをよくわかっていた。ある日、私はこっそり父のバイクを拝借した。ところが不運にも事故ってしまった。膝と右足指を全部骨折し、足を引きずりながら痛みにパニックになっている私を見て、父は棒で私を殴った。別な機会には、私が何もしていなくても、虫のいどころが悪いだけで怒りを爆発させられたこともあった」

だから、アラン・ドロンとつきあった女性や息子たちは誰もがアラン・ドロンの怒りを体験し、トラウマを抱えていた。娘のアヌーシュカだけは違うかもしれない。実際、アラン・ドロンはなぜか娘だけはとても可愛がった。他の人はもしかしたらそのために恨みをさらに募らせたかもしれないが。

text: Léa Mabilon (madame.lefigaro.fr)

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