ハリー王子と重なる「王室の反逆児」。マッタ・ルイーセ王女が称号を返上し、シャーマンとの愛を選ぶまで。
マッタ・ルイーセ王女は、ノルウェー国王ハーラル5世とソニア王妃の長女だが、王位に就くことはない。王位は、弟のホーコン王太子に継承されることになっているからだ。王室のなかで二番手の立場に置かれた王女は、イギリスのハリー王子と同様、王室という枠には決して自分を合わせようとはしなかった。
「私は家族のほかの誰とも、まったく違うんです」。ノルウェーのマッタ・ルイーセ王女は、2025年10月にNetflixで配信されたドキュメンタリー番組「Rebel Royals: An Unlikely Love Story」の中で、そう語っていた。何気ないひと言に聞こえるが、そこには深い意味がある。マッタ・ルイーセ王女は早くから、父親であるノルウェー国王ハーラル5世が亡くなった後も、自分が王室の中核を担うことはないと理解していたのだ。そのハーラル5世は、8月27日(金)、89歳でこの世を去った。オスロで10日間にわたって入院していた国王は、血液中の赤血球が破壊される病気である溶血性貧血を患っていた。さらに、治療に用いていたコルチゾンの副作用に苦しんでいたほか、最近では細菌感染症にもかかっていた。ハーラル5世の後を継ぐことになるのは、マッタ・ルイーセ王女ではなく、息子のホーコン王太子である。マッタ・ルイーセ王女は、ソニア王妃とハーラル5世のふたりの子どものうち、年長の子どもであるにもかかわらずだ。
1990年に採用された絶対長子相続制
では、なぜこのような不公平が生じたのだろうか。マッタ・ルイーセ王女が生まれた1971年当時、ノルウェーの王位継承規則では、男性が女性より優先されていた。それが変更されたのは、20年後の1990年5月29日のことだった。ノルウェー議会(ストーティング)は憲法第6条を改正し、絶対長子相続制を採用した。これにより、現在では性別にかかわらず、君主の長子が王位を継承することになっている。しかし、この改正は過去にさかのぼって適用されなかったため、マッタ・ルイーセ王女には適用されなかった。彼女の2年後、1973年に生まれた弟のホーコン王太子は、王位継承順位で引き続き優先される立場にあった。
このように王位継承から外されたことは、王女にとって不満の種になったのだろうか。イギリスのハリー王子のように、王室の中で二番手の立場に置かれたことを、彼女はつらく感じていたのだろうか。2023年1月に出版された、意味深なタイトルの回顧録『SPARE』の中で、ウィリアム皇太子の弟であるハリー王子は、王室において単なる「プランB」、つまり万一に備えた予備の存在であることが、どれほど自分に重くのしかかっていたかを明かしている。一方、マッタ・ルイーセ王女は、自らのこの立場をまったく異なる形で受け止めていたようだ。1986年、王女にはその運命を覆す可能性があった。生まれた時から当然与えられるはずだった地位、つまり王位継承順位第1位、ひいては将来のノルウェー女王となる立場を取り戻すことで、自らの運命を変えることもできたのだ。実際、祖父のオーラヴ5世国王と、当時の首相グロ・ハーレム・ブルントラントは、マッタ・ルイーセ王女に対し、いつの日か王位に就けるよう、法律を改正することを望むかどうかを尋ねていた。
「弟のことをうらやましいとは思いませんでした」
若き王女の答えはこうだった。
「私は15歳で、何も分かりませんでした」
王室としての義務やプロトコルには、ほとんど関心がなかった。マッタ・ルイーセ王女は、自ら語っているように、王室の中でもとりわけ感受性が強く、怖いもの知らずな存在だった。自由な精神と反骨心を持つ王女であり、君主制という狭い枠に自分を合わせようとしたことは一度もない。彼女が望んでいたのは、何にも縛られず、責任を背負わずに生きることだった。
「私にとっては……うーん。ものすごく大きなプレッシャーでした」と、2020年12月、雑誌「Insider」のインタビューで振り返っている。
「私は成長していくことを心から幸せに感じていました。弟のことをうらやましいとは思いませんでした。」そして、率直にこう付け加えている。「本当に、自分で選んで、100%の覚悟で臨まなければならない人生なのです」
マッタ・ルイーセ王女は、王室との関係を断ち切ることなく、自分らしく、自由で自立した別の道を選んだ。
オスロで一般的な教育を受けた後、ノルウェーのソニア王妃とハーラル5世の長女は、文学を学ぶためにイギリスへ渡り、オックスフォードで学ぶ一方、乗馬の技術にもさらに磨きをかけた。1990年代にはノルウェー代表チームのメンバーとなり、障害馬術の競技会にも定期的に出場している。また、海外で過ごしたこの時期に、詩や芸術、スピリチュアリティへの関心も深めていった。その後、ノルウェーに戻った彼女は、文学の課程を中断し、理学療法を学ぶ道へ進んだ。これは、トップレベルの騎手としての経験と、人間の身体がどのように機能するのかをより深く理解したいという思いがきっかけとなった選択だった。1997年には、オランダのマーストリヒトで実習を行い、理学療法の課程を修了した。
「殿下」の称号を返上
資格を取得すると、彼女はすぐに代替的なボディセラピーに関心を持つようになり、2000年からは、理学療法士のマリオン・ローゼンが考案した、身体を読み取ることをベースとする「穏やかな手技療法」であるローゼン・メソッドの研修を受けた。
その2年後には独立し、触れることとコミュニケーションを通じて筋肉の緊張を和らげることを目的としたボディケアのセッションを提供するようになった。この時期に彼女は、一般のノルウェー国民と同じように仕事ができるよう、また王族としての公務からも解放されるため、「殿下」の称号を辞退することを決めた。
こうした活動と並行して、マッタ・ルイーセ王女はノルウェーの民話に着想を得た児童書も執筆した。2004年には初の著書『Why Kings and Queens Don’t Wear Crowns(なぜ王様と女王様は王冠をかぶらないの?)』を発表。そこでは、彼女の曽祖父母にあたる、後のホーコン7世とモード王妃の物語を綴っている。

プライベートでは、この頃、マッタ・ルイーセ王女は、1990年代末に出会ったノルウェー人作家のアリ・ベーンと婚約したばかりだった。ふたりは2002年5月24日、オスロから500キロ離れたトロンハイムで結婚式を挙げた。この日、マッタ・ルイーセ王女は、ふたつの豪華なアイテムで構成されたウエディングスタイルで輝きを放った。アンナ・ブラットランドが手がけた白いシルククレープのドレスに、ウェンチェ・リュッケがデザインした、スワロフスキーのクリスタルをあしらったアイボリー色のロングシルクコートを重ねた装いで、コートには3メートルにも及ぶトレーンが付いていた。アップにまとめたブラウンの髪には、モード王妃のパールティアラを再現したティアラがきらめいていた。
結婚式から1年後の2003年、マッタ・ルイーセ王女とアリ・ベーンは、長女モード・アンジェリカを迎えた。その後、王女は2005年にリア・イサドラを、そして2008年には末娘のエマ・タルーラを出産した。
しかし、年月を重ねるにつれて、ふたりの結婚生活には次第に陰りが見えるようになった。結婚生活を立て直そうと努力したものの、2016年8月に別居を発表し、2017年に離婚した。その2年後、慢性的なうつ病を患っていたアリ・ベーンは、クリスマスの日に自ら命を絶った。この悲劇的な知らせをマッタ・ルイーセ王女に伝えたのは、父親のハーラル5世だった。
「私がこれまで直面した中で、最もつらい出来事でした。特に、あまりにも突然の悲しみでした」と、彼女は2025年5月1日、ポッドキャスト番組「Who’s your Daddy?」で明かしている。「こんなにも身体的にこたえるものだとは知りませんでした。毎日マラソンを走ったような感覚でした。それなのに、眠ることも、食べることも、何もできませんでした。疲れ果てて、頭に霧がかかったような状態になっていました。」
カリフォルニアのシャーマンとの破天荒なラブストーリー
子どもたちの父親であるアリ・ベーンが亡くなった時、マッタ・ルイーセ王女はすでに、まもなく再婚相手となる男性と交際していた。それが、派手な個性と、きらびやかなものを好むことを隠さない趣味を持つ、カリフォルニア出身のシャーマン、デュレク・ヴェレットだった。慎み深く、目立つことを好まないことで知られるノルウェー王室のメンバーとは、まさに正反対の人物ともいえる男性だ。ふたりを引き合わせたのは共通の友人のひとりで、出会ったのはその1年前、ロサンゼルスだった。
その日、王女は自分とデュレクのエネルギーが「完璧に通じ合っている」と感じたという。意外な組み合わせに見えるが、実はそうでもない。デュレクと同じように、マッタ・ルイーセもスピリチュアルな世界を深く信じており、2007年には、天使と会話することができると明かしていた。さらに彼女は、その能力をすぐにビジネスへと結びつけ、「エンジェル・スクール」を設立。年間約3000ユーロで、天使とコンタクトを取る方法を学ぶ講座を提供していた。そんな王女にデュレクが惹かれたのも、無理はない。物議を醸す活動を続ける、この風変わりな王女の魅力に、彼もまた心を奪われていったのだ。実際、彼女がこのスクールを立ち上げた際には、ノルウェー国内で大きな反発を招いている。
それもそのはずだ。デュレク自身も、これまで数々の、それも決して小さくない騒動を起こしている。2019年5月、マッタ・ルイーセ王女との交際を正式に公表した後、ノルウェーのジャーナリストたちは、彼が1991年にカリフォルニア州で放火の罪により有罪判決を受けていたことを突き止めた。当時、彼は誰も住んでいない家で違法にパーティーを開き、その家はその後、全焼した。5年の禁錮刑を言い渡されたものの、最終的には2年で釈放された。また、ハリウッドではグウィネス・パルトロウやジェームズ・ヴァン・ダー・ビークといったスターたちとも仕事をしてきたデュレク・ヴェレットだが、米国ではとりわけ、シャーマニズムに関する自身の「能力」について、矛盾した、さらには虚偽ともいえる発言を繰り返してきた人物として知られている。
マッタ・ルイーセ王女は、そんなデュレクを決して擁護することをやめなかった。愛するあまり、彼をかばい続けたのかもしれない。彼女は2024年8月31日、ユネスコの世界遺産に登録されているガイランゲル・フィヨルドという壮麗な舞台で、デュレクと結婚した。ふたりは屋外に設置されたテントの中で、厳選された380人の招待客を前に誓いの言葉を交わした。そこには、国王ハーラル5世とソニア王妃、そしてホーコン王太子と妻のメッテ=マリット王太子妃も出席していた。

しかし、結婚からわずか数週間後、それまでの騒動をはるかに上回る、さらに深刻なスキャンダルが持ち上がった。49歳のスウェーデン人、ヨアキム・ボストロムが、ノルウェーのタブロイド紙『セ・オ・ホル』で、デュレク・ヴェレットから性的暴行を受けたと告発したのだ。その出来事は、2015年、デュレクのシャーマニズムのセッション中に起きたとされている。現在に至るまで、デュレクはこれらの告発を全面的に否定し、自らを被害者として訴えている。2025年1月、マッタ・ルイーセ王女とともにノルウェーの日刊紙『ヴェルデンス・ガング』のロングインタビューに応じた際には、こう声を上げた。「私はアンドルー王子やジェフリー・エプスタイン、P・ディディと比較されました。ひどい話です。」そんなデュレクに対し、マッタ・ルイーセ王女は、何があっても変わらず支え続けている。彼女はこう反論した。「彼らは、ネガティブな内容でさえあれば、何でも記事にします。それが正しいのかどうかを確認することも、私たち家族のことを考慮することもありません。」そして、こう続けている。「もしデュレクが性的加害者だったのなら、私は決して彼と一緒にはなっていません。」
2025年9月、マッタ・ルイーセ王女とデュレク・ヴェレットは、Netflixのドキュメンタリー番組「Rebel Royals」の中で、ノルウェー王室に対する衝撃的な発言を次々と繰り出し、王室を揺るがした。人種差別やメディアによる執拗な追及……。ふたりは、イギリスのハリー王子とメーガン夫人さながらに、王室という制度やメディアをためらうことなく批判し、宮殿側の怒りを買った。それ以来、ふたりは極めて目立たないようにしている。王室事情に詳しいステファヌ・ベルンによれば、ホーコン王太子の即位によって、ふたりはさらに王室の中で孤立する可能性があるという。「ホーコン王太子は、父親のハーラル5世ほどマッタ・ルイーセ王女に寛容ではないでしょう。おそらく、国に尽くすことを使命とする王室の中核と、それ以外の王族をより明確に区別することになるでしょう。そして後者は、王室の中心から距離を置くことを求められるはずです。」王室に詳しい専門家は、ノルウェー国王の死が発表された8月28日(金)、「マダム・フィガロ」の取材に対してこう語った。
From madameFIGARO.fr
※この記事は、フランスの新聞社「Le Figaro」グループが発行する「madame.lefigaro.fr」で掲載されたものの翻訳版です。データや研究結果はすべてオリジナル記事によるものです。
- text: Solene Delinger (madame.lefigaro.fr)
- translation: Hanae Yamaguchi