シャネルが築いた南仏の隠れ家「ラ パウザ」、その美しき姿を初公開。
Culture 2025.06.12
1920年代、芸術家たちの理想郷として栄えた南仏のコートダジュール。第一次世界大戦を超えて価値観や生き方が大きく変わっていた時代、新たな創作活動の場を求めてヨーロッパやアメリカから多くの芸術家が移り住んだ。地中海の温暖な気候と美しい青い海、断崖や自然の美しさは彼らの創作意欲を駆り立てて、ピカソやマティス、コクトー、ダリなど、名だたる芸術家たちがその才能を大きく開花させていった。そんな芸術家たちの文化的交流地となっていた南仏に、ガブリエル・シャネルが拠点を構えたのは1928年のことだった。
ロクブリュヌ=カップ=マルタンにあるヴィラ「ラ パウザ」。フランス語で「休憩」という意味を持つ。photography: M. Bérard. Streitz Archives © All rights
当時45歳だったガブリエル・シャネルは、モナコの東隣の町ロクブリュヌ=カップ=マルタンの崖の上にある広大な土地とヴィラ「ラ パウザ」を購入。クチュリエとして大成功を収め、名声の絶頂期にあった中、心から安らぎを感じられる場所を探していたという。生い茂るオリーブの木々やラベンダー畑の奥に広がる青い海など、南仏の豊かな自然が彼女を魅了し、この場所にセカンドハウスを構えようと思い立った。
多忙な日々の中、パリを離れて休息する場所を求めていたシャネル。photography: Roger Schall © Schall Collection
敷地内のオリーブ畑やラベンダー畑はそのままに、イギリス人小説家夫婦から買い取ったピンクのヴィラを取り壊し、自らが理想とする邸宅を築くことを決意。ロベール・ストレイツという若きベルギー人建築家に設計を依頼し、1929年末、控えめなエレガンスが宿る新生「ラ パウザ」を誕生させた。同年、近隣に建築家アイリーン・グレイがヴィラ「E-1027」を完成させているが、これはモダニズム建築の傑作と言われており、当時ル・コルビュジエが率いるモダニズム建築に勢いがあったことがうかがえる。しかし、シャネルは自身が少女時代を過ごしたオバジーヌ修道院の簡素な美をイメージし、装飾を控えてシンプルかつモダンな地中海風ヴィラを築き上げた。
このシャネルの美学が詰まった「ラ パウザ」には、ダリをはじめとするたくさんの芸術家たちが滞在しながら作品を制作し、シャネルは彼らを温かくもてなしていたという。そんな友人たちとともに穏やかで温もりあふれる時間を過ごしたヴィラではあったが、1953年にはアメリカ人夫婦へと売却することとなる。
そして2015年、メゾンはこのヴィラを買い戻し、建築家ピーター・マリノによる監修のもと修復を始めた。シャネルが暮らした時代からおよそ100年経った今年、当時の様子を復元した「ラ パウザ」が初公開された。
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美意識が詰まった洗練のヴィラを解剖。
小高い丘の上、オリーブの木々に囲まれて佇んでいるのが「ラ パウザ」だ。エントランス前には、巨大なオリーブの木が生えている。シャネルは敷地内の木々を一本たりとも伐採することなく、手を加えようとしなかった。この木々が自分を見守ってくれていると感じ、自然のままであることを大切にしていたのだという。
扉を開けると、白を基調にした静謐かつエレガントな空間が目前に広がる。素朴な白壁や床など、全体的に色や装飾を抑えたミニマルな内装。それによって、十字アーチ型の窓や扉、伸びやかなスロープ階段など、建築自体の持つ優美なラインが際立っている。また、窓から差し込む光の美しさにも目を奪われる。そんなモダンな空間に、18世紀の燭台や金箔が施された鉄製シャンデリアなど、バロック様式の調度品がほど良い温もりを添えている。
洗練されたモダンなエントランス。金箔が施された鉄製シャンデリアはシャネルが当時飾っていたオリジナル。©CHANEL
夜は月明かりが木々を照らし、その木々から溢れ出た美しい光が入ってくる。©CHANEL
「ラ パウザ」は、シャネル自ら細部にわたって設計を手がけた唯一の邸宅だ。ロビーに入って左側に伸びる石造りの階段は、特にシャネルが強く意識して取り入れたもの。彼女はよく「階段で暮らしてきた」と述べていたというが、そんな記憶の深いところにあるオバジーヌ修道院の階段様式を踏襲したいと考えていたのだ。建築家をわざわざ現地に赴かせて、制作が行われたのだという。また、天井に整然と並ぶ5つの窓は、代表作である香水シャネル Nº5と同じナンバーであり、これも彼女がこだわり抜いた部分である。階段を上ると、シャネルの寝室がある西棟と6つのゲストルームが並ぶ東棟へと続く。西棟と東棟は長い廊下で繋がっているが、この距離には、ゲストに心地良く過ごしてほしいというシャネルのホスピタリティ精神が現れている。夜になるとそれぞれの棟の扉を閉め切って、さらにプライバシーを保っていたという。
元々の家には左右にふたつの階段があったが、シャネルの強い希望でオバジーヌ修道院の階段を踏襲し、階段はひとつとした。©CHANEL
お気に入りだった階段の手摺に肘をもたれて佇むシャネル。photography: Roger Schall © Schall Collection
ロビーを抜けた先に現れるのは、石板が敷かれた回廊と整然とした芝生のパティオ。格子状に手入れされた芝生は、メゾンのキルティングバッグのステッチを思わせる。テラコッタの鉢に植えられた多肉植物が随所に配され、端正なパティオにおおらかなムードを添えている。さらにテラスへ向かうとラベンダー畑が広がり、その奥に青く輝く地中海を望むことができる。野趣あふれる景色を大事にしたいと考えていたシャネルは、ラベンダーの高さが揃わない自然な在り方を大切にし、庭師に3回に分けて剪定するよう細やかな指示を出していたという。また、ラベンダーの良い香りや穏やかな潮風を感じられるように、ロビーの扉を開放しておくことを好んだのだとか。
丹精に整えられた芝生のパティオ。中央にあるオリーブの木はそのまま手を加えず配置。©CHANEL
野趣溢れる自然な庭を愛し、ラベンダーの剪定にも強くこだわったというシャネル。photography: Roger Schall © Schall Collection
書斎の壁は落ち着いたブラウンのオーク材パネルで覆われているが、これはスコットランドの城にインスパイアされたもの。ダークな色調の木製家具やベルベットのソファ、ペルシャ絨毯など、16世紀から17世紀のスペインのバロック様式インテリアによって、さらに重厚な雰囲気を纏っている。バルトロメオ・ベッテラによって描かれた静物画をはじめ、アート作品も空間に華を添えている。書斎横の大広間は、かつてシャネルが友人たちとパーティや仮装舞踏会を行なっていた場所。今回の修復で、このスペースにあったピアノも再現した。
書斎には、生前シャネルが親交のあった芸術家たちの本が並ぶ。テーブルの上には、シャネルが楽しんでいた伝統的なボードゲーム「バガテル」が置かれている。©CHANEL
大広間はシャネルが好んでいた花柄のラグやルイ13世時代の木製パネル、絵画で彩られた華やかな空間。©CHANEL
西棟2階のベッドルームは、ゲストが立ち入ることのできないシャネルの聖域。唯一、立ち入ることができたのは恋人のウェストミンスター公爵だけだったという。天蓋付きのヴェネツィア様式のベッドに星が飾られている部分まで、当時のままだ。両サイドにバロック調の鏡が取り付けられ、三面鏡付きのドレッサーも作り付けで配されている。ベッドルームから続くバスルームも圧巻だ。全面鏡張りの広々とした空間に、大きなバスタブと洗面室が並んでいる。あらゆる角度から自分の姿を映せるよう設計されたこのバスルームは、シャネルの美に対する揺るぎない姿勢を物語っている。
シャネルのジュエリー「コメット コレクション」を思わせるようなベッドに飾られた星。©CHANEL
当時のオリジナル家具が残された寝室。リクライニングソファをはじめ、椅子が多く配されている。©CHANEL
壁一面に全身鏡が配されたバスルーム。当時の邸宅では極めて珍しいものだったという。©CHANEL
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シャネルと友人たちの豊かな時間が息づく
今回、建築家ピーター・マリノはシャネルのアーカイブを隈なく確認し、1935年当時の「ラ パウザ」の写真を参考に家具の配置を1mm単位で再現。一部の家具はシャネルが手放した後も保管されていたが、すでになくなってしまっていたものはオークションなどで買い戻したという。そうして、書斎の棚に並ぶ本やボードゲームから応接間に置かれたピアノまで、当時の様子を細やかに再現。シャネルと友人たちが過ごしていた1930年代にタイムスリップしたような気分になる。
食卓を囲んでおしゃべりに興じるシャネルと友人たち。敷地内のテニスコートでテニスをしたり、ビーチで泳いだり、スポーツを楽しむことも。photography: Roger Schall © Schall Collection
自然の風を感じていたいと、シャネルは窓を開放しておくことを好んでいた。Obligatory terms: © CHANEL Photographer: Jason Schmidt
ダイニングは中庭の横に位置。暖炉やラグで温もり溢れる空間。Obligatory terms: © CHANEL Photographer: Jason Schmidt
膨大なアーカイブから、なかでもピーターが注目したのがランチやディナーの写真だ。食卓を囲む人たちの服装や笑顔、その雰囲気から、カジュアルでシンプルな食事だったことが見て取れたという。シャネルと友人たちは昼過ぎまで思い思いにベッドで寛ぎ、それぞれのタイミングで食堂に集まった。そして長い食卓を囲みながら談笑し、英国式のセルフサービスやブッフェ形式で供された食事をカジュアルに楽しんだ。そんなリラックスした心地良い時間が「ラ パウザ」には流れていたようだ。
ブッフェ形式で供された食事を立食スタイルで楽しんでいたという。photography: Roger Schall © Schall Collection
当時のカジュアルな食事風景を再現。Obligatory terms: © CHANEL Photographer: Jason Schmidt
「ラ パウザ」は、シャネルの感性とホスピタリティを体現する場所。そして、ダリをはじめとする芸術家たちが集った、アートレジデンスとしての先駆け的な存在でもある。後編では、この美しき邸宅とアートの関係性をお届けする。
text: Momoko Suzuki