「幻のシャンパーニュ」はどう生まれた? サロン、そしてドゥラモットの歴史から紐解く、シャンパーニュメゾンの意外すぎる系譜。【前編】

FIGARO Wine Club

今日のワイン選びがちょっと楽しくなる連載「ワインテイスティングダイアリー」。フィガロワインクラブ副部長・カナイが日々、ワインを求めて畑へ、ワイナリーへ、地下倉庫へ、レストランへ、セミナーへ……。美しいワインがどのように育まれるかの物語を、読者の皆さまにお届けします。

今回は「幻のシャンパーニュ」とも呼ばれるサロン、そしてその「姉妹」たるドゥラモットが生まれる畑、そして開栓の時を夢見てボトルが眠るセラーを訪問。

前編では、現地を訪れて取材した、美しいシャンパーニュが辿ってきた歴史をひも解いていきます。


車を降りた瞬間、まるで港町に来てしまったのかと錯覚するくらい、潮風の香りがした。不思議だ、いちばん近いイギリス海峡に面した海岸線から考えても、ゆうに200kmはある内陸部なのだ。それに、港町ならばもっと湿った風が吹いている。ここでは汗をかいたことも忘れるほど乾燥していた。

いま立っているこの地面が、約2000万年前には海底にあったのだ、とは知っていたし、これまで何度も原稿に書いてきた。しかし、そのことをここまで直感的に理解させられるとは思いもしなかった。この後、ランスの丘に立つことになるが、そこにはこんな潮の香りはなかった。

サロン、そしてドゥラモットというシャンパーニュ愛好家を魅了してやまないふたつのメゾンがあるル・メニル・シュル・オジェという村は、着いて早々こちらの想像を遥かに超える”空気”で歓迎してくれた。

サロンのメゾン。1905年に第1本目のサロンが造られて以来、ここから世界最高峰のシャンパーニュを世に送り出している。

サロン・ドゥラモットとの縁を繋いでくれたのは、私をワインの世界に連れてきてくれたひとり、ワインジャーナリストの安齋喜美子さんだった。

「ディディエ・ドゥポン社長が来日するメディアランチがあるんです。カナイさんもぜひご一緒しませんか?」。2023年の6月、そうして初めて私はサロン 2012、ドゥラモット、そしてドゥポン社長に出会った

翌24年、ドゥポンの還暦の誕生日会がアンダーズ東京で華々しく開催され、招かれた180人のワイン関係者たちの末席に加わって、サロン 2013を味わう。翌25年には新ヴィンテージのリリースの記者会見に訪れたドゥポン社長の解説のもと、サロン 2015を試飲、「幻のシャンパーニュを味わうとは」というテーマでコラムを執筆した

この3年間、サロンとドゥラモットの味わいをコンスタントに記録するという幸運に恵まれた私は、ドゥポン社長から「お近くにお寄りの際はぜひいらしてください」と言われていたのをあえて額面通りに受け取って、厚かましくもその生誕の地へと出かけることにしたのだった。


パリから車で約50分、シャンパーニュ地方の水源とも言えるマルヌ川に沿って走り、中心地であるエペルネの街を通り過ぎると、南下してクラマン、アヴィズといったシャルドネの銘醸地として知られる特級畑を超えていく。道は細くうねり、丘を越え、坂を下り、またどんどんと道は細くなる。

白亜の壁に巨大な緑の門扉がかかり、シャンパーニュが好きなら間違いなく見覚えのある金色の「S」のレタリングを見て、それだけで震えるほどの感動を覚えた。日本で記事を書いている時に何度も見た写真の本物が、目の前にあるのだ。

この日、ドゥポン社長は海外での仕事中。迎えてくれたのは、ドゥポンの右腕としてともにサロン・ドゥラモットを切り盛りするオードレイ・カンポス。まずはサロンのお隣にあるドゥラモットのレセプションで、ふたつのメゾンの来歴を聞くことになった。

260年続くドゥラモット、「ランソン」との意外な関係は? 

「ドゥラモットは現存するシャンパーニュの中でも5番目に古い、かなり古参に当たるメゾンなのです」

そう語り始めたカンポス。ドゥラモットは1760年、シャンパーニュのランスで創業した。現在本拠地としているル・メニル・シュル・オジェから北へ約30km、現存最古のシャンパーニュであるルイナール(1729年創業)やクリュッグ、ヴーヴ・クリコ、ヴランケン・ポメリーといった歴史の深いメゾンが立ち並ぶ、シャンパーニュを代表する街だ。

ドゥポン社長の右腕として長年サロン・ドゥラモットを運営してきたオードレイ・カンポス。ピアスには折り鶴が! 「2019年に日本に伺った際に手に入れて、とても気に入っているの」

フランスのワインブドウ栽培の北限地と言われるシャンパーニュ地方。現在よりもより冷涼だった18世紀、ブドウの栽培は容易ではなかったはずだが、それでもこの地のワインの品質の高さは有名だった。

「瓶内二次発酵の技術が確立される前から、この地方のスティルワインは『ヴァン・ドゥ・リヴィエール(川のワイン)』と呼ばれ、パリで人気だったという記録が残っています。当時はブルゴーニュのような軽やかな赤ワインが造られていたと思いますが、1668年にはドン・ペリニヨンがオーヴィレール修道院のセラーマスターに就任。アッサンブラージュ(ブレンド)の製法を生み出したことで、土地あたりの収量が少なかったこの地域でも、区画ごとの味わいを見定め、それらをブレンドすることで醸造に必要な量を確保し、メゾンの個性を持ったシャンパーニュを生み出すことができるようになったのです」

そうした歴史により、ブルゴーニュのようなブドウ栽培者が自身でワイン醸造、瓶詰めを行う「ドメーヌ」型と異なり、シャンパーニュでは栽培者とワイン醸造者が分かれ、醸造家が栽培者からブドウを買い付けて醸造、ボトリングを行う「ネゴシアン(=ネゴス、仲買)」方式でのワイン造りが主流となってきた。


さて、創業者フランソワ・ドゥラモットもネゴシアンとしてメゾンを創始した。次世代となる長男ニコラ=ルイ・ドゥラモットは、聖地巡礼を保護するマルタ騎士団のシュヴァリエ(騎士)に叙任され、商事裁判官の所長としても活躍。1825年、シャルル10世(フランス革命で処刑されたルイ16世、”復古王”ルイ18世の弟)の即位に際しては自社のシャンパーニュを献上、レジオン・ドヌール賞を受勲する栄誉に浴し、ドゥラモットの名は否応なく高まっていった。

メゾン・ドゥラモットの応接室にて。ドゥラモット家の紋章には「生きよ、そして我を愛せよ」という家訓が刻まれている。なんともシャンパーニュらしい。

ところがニコラ=ルイには後を継ぐ子孫がおらず、1823年、ジャン=バティスト・ランソンとパートナーシップを締結。1837年には社名を「ランソン」に変更する。現在も続くランソンのラベルに赤い十字架があるのは、ニコラ=ルイがマルタ十字軍のシュヴァリエだった名残なのだ。

そうしてランソン家の手による運営に切り替わったドゥラモットだったが、新たに造るボトルには「ランソン」の商標を付けることとなり、ドゥラモットは在庫が売り切れ次第、その名前は後世、歴史書に記されるだけの「幻のシャンパーニュ」になる……はずだった。

ここからが運命の不思議だ。ドゥラモットの在庫の管理を担当することになったのが、ランソン家の娘、マリー=ルイーズ・ランソン。彼女は独立心が強く、自身でシャンパーニュメゾンを率いたいという想いを抱いていた。彼女は兄弟が継ぐことになっていたランソンを離れ、ドゥラモットの商標とともにモンターニュ・ド・ランスから南下、コート・デ・ブランのル・メニル・シュル・オジェ村に拠点を構えることになる。

粘土質の表土に石灰質が混ざり合うモンターニュ・ド・ランスから、ほぼ白亜質の土壌が広がるコート・デ・ブラン。かなり顕著に性質の違う土地への移動を決めた理由は、現在までは伝わっていないとカンポスはいう。

「あくまで想像ですが、マリー=ルイーズはランソン家の影響が強いランスではなく、自分のやりたいことがやれる新天地を探したのではないか、と思うんです」

第一次世界大戦の終戦から間もない1920年、マリー=ルイーズは10ヘクタールの畑を購入し、ル・メニル・シュル・オジェへと移り住んだ。その近隣にたまたま住んでいたのが、パリで毛皮商として大成功していたウジェーヌ=エメ・サロンだった。

ドゥラモット、ローラン・ペリエ、サロンの不思議な関係。

さて、マリー=ルイーズはドゥ・ノナンクール家に嫁ぎ、マリー=ルイーズ・ランソン・ドゥ・ノナンクールとなる。4人の子どもが生まれるも夫に先立たれ、彼女はますます仕事に精力的になっていった。1939年、彼女は世界恐慌の煽りを受けて不調になっていたシャンパーニュメゾンに出資し、経営者として再建に乗り出す。そのメゾンこそ、モンターニュ・ド・ランスとコート・デ・ブランの間に位置するトゥール・シュル・マルヌで現在も燦然とその名を轟かせる「ローラン・ペリエ」だ。

ドゥラモットのメゾンから外を覗く。同じ景色をマリー=ルイーズも見ていたのだろうか。

時に第二次世界大戦、長男モーリス、次男ベルナールがパルチザン(ナチスドイツに抵抗する非正規軍)に志願し戦争に行くと、帰りを待つ母となったマリー=ルイーズは子どもたちとドゥラモット、そしてローラン・ペリエを守るため奔走、45年の終戦まで両メゾンを存続させることに成功した。戦争でモーリスは帰らぬ人となってしまったが、次男ベルナールは軍務を経て帰還。醸造、そして経営にも携わるようになり、48年にはベルナール・ドゥ・ノナンクールがローラン・ペリエの指揮を取ることになる。そして末弟シャルル・ドゥ・ノナンクールがドゥラモットを継承することとなった。

兄ベルナールは世界的名声のあったローラン・ペリエの品質向上、従業員の労働条件の改善に取り組み、販路を飛躍的に拡大。「フレッシュ」「エレガント」「ピュア」というメゾンのイメージを確立させ、3つの偉大なヴィンテージのワインをアッサンブラージュするプレステージキュヴェ「グラン・シエクル」という、まったく新しい概念を生み出した天才だ。

一方、ドゥラモットを継いだシャルルも独自の路線を突き進む。49年、ドゥラモットは「ブラン・ド・ブラン」のシャンパーニュを生み出したのだった。

白ブドウ、ことにシャルドネだけを使ったシャンパーニュを造る……。「白亜質土壌のコート・デ・ブランに移った」と聞くと、シャンパーニュファンは「ああ、シャルドネに向いた土地に移動したのね」と感じるかもしれない。確かに石灰岩に由来するミネラル感が、シャルドネに引き締まった骨格を与えるのは現在では一般的な見解だ。しかし、当時はそうでもなかったのだとカンポスは語る。

「そもそもドゥラモットがモンターニュ・ド・ランスで造られていた頃は、ピノ・ノワールとムニエがメインの品種でした。現在よりもドザージュ(糖分調整)が多く、甘口に仕上げられていた戦前のシャンパーニュには、骨格のしっかりした黒ブドウ品種の方が相性が良かったのかもしれませんね」

現行ボトルのブラン・ド・ブラン、左からマグナム、750ml、ハーフボトル。

ところが白亜質土壌との相性を見極め、シャルドネ100%のブラン・ド・ブランを1905年に造り上げていた男がル・メニル・シュル・オジェにいた。その人こそ、お待たせしました、ウジェーヌ=エメ・サロンである。カンポスは続ける。

「サロンはコート・デ・ブラン出身で、この地域のシャルドネにポテンシャルがあることを感じていました。彼は家の地下に『クレイエール(古代人が石灰岩を切り出したトンネル)』を持っていて、ワインセラーとして使っていた。彼がそこに長期にわたって寝かせていたシャルドネのボトルを開けたら、熟成感があふれているのにフレッシュさや凛とした酸味、ミネラルの骨格に支えられた液体になっていることに気付いたのです」

ウジェーヌ=エメがワインセラーとして使用していたクレイエール。現在はサロンのセラーとして、出荷前のボトルたちが眠っている。

当初サロンが造り始めたシャンパーニュは、彼の館にある1ヘクタールだけの畑から取れる、単一ヴィンテージ、シャルドネ100%の”完全自家用”設計。顧客や友人がサロンの館を訪れた時に振る舞われるプライベートボトルだったが、1920年、”狂騒の時代”にサロンのシャンパーニュの名声はパリまで届き、ウジェーヌ=エメ・サロンがパリで通いつめていた「マキシム」で最上級の顧客にだけ提供されるようになり、そのプレミア感はこの上なく増していく。

「戦後の復興の中で食文化も変わっていく中、辛口のシャンパーニュが見直された時、シャルル・ドゥ・ノナンクールは近隣にあったサロンのことを考えていたのでしょう。”50年近く前からサロンはやってるんだ、この地域のシャルドネには可能性がある”と」

現在”シャルドネハウス”の麗名も高いルイナールですら、ブラン・ド・ブランの誕生は1947年、プレステージキュヴェ「ドン・ルイナール」は1959年収穫、66年のファーストリリース。いまでこそシャルドネの聖地として知られるコート・デ・ブランだが、ブラン・ド・ブランの一般化はかなり近年のことなのだ。

「サロン、そしてドゥラモットは”単一区画”という概念も確立します。戦後需要の拡大で”造れば売れる時代”がやってきますが、両メゾンは使う畑を限定していった。さらにサロンは、納得しない年はシャンパーニュそのものを造らないというポリシーを貫いた。あえて”幻のシャンパーニュ”であり続ける選択をとったのです」

サロン、そしてドゥラモットを「幻」たらしめているものとは?

そうしてサロン、ドゥラモットは変わらずル・メニル・シュル・オジェに行けば飲める、パリで見かけたらうれしい高品質なシャンパーニュとしてその名声を保ってきた。

1988年、シャルル・ドゥ・ノナンクールが引退を決めた時、ドゥラモットを継承することに決めたのは兄ベルナール、つまりローラン・ペリエだった。そして不思議なことにその年、ウジェーヌ=エメの甥に引き継がれていたサロンもメゾンを手放すこととなり、ベルナールは一も二もなくサロンの取得を心に決めた。以降、両メゾンはローラン・ペリエが管理することとなる。

……これって買収なんだろうか、とおずおず尋ねると、カンポスは笑いながらこう話してくれた。

「当時、顧客はもちろんいましたが、それでもサロンは”知られざる小さなメゾン”だったんです。さらに、一本のボトルの熟成に10年をかけるという、とても時間とお金のかかる存在で、売りに出された時、他に誰も購入しようとする人はいなかった。ところが、ベルナールはまさに”サロンの隣”で育った人です。サロンというシャンパーニュがどれだけの可能性を秘めているか、彼だけが知っていたんです」

カンポスは、「ベルナールはいつでも“チュトワイエ(Tutoyer)”」だったと語る。近親者のように気さくに話しかけてくれる、タメ口な人、というくらいの意味だろうか。

「私もベルナールをよく知っていますが、世界的なシャンパーニュメゾンのトップだというのに、とても親しみやすい人でした。それだけにサロンを購入する、と周囲が聞いた時は『ああ、親戚のメゾンを買ったんだね』くらいの受け取り方だった、と聞いています」

ふたつのメゾンを取得したベルナール・ドゥ・ノナンクールは、ローラン・ペリエの傘下で「サロン・ドゥラモット」を分社化。現在、両メゾンの搾汁、発酵はローラン・ペリエで行われているが、意思決定や味わいの方向性に関してはサロン・ドゥラモットのチームに任されているという。

サロンのメゾンの裏にあるプライベートな畑にて、ここから生まれた「サロン 2015」と「ドゥラモット ブラン・ド・ブラン 1993」を味わう。詳細は後編にて。

「ベルナールは両方のメゾンの販路を拡大しましたが、それによって生産本数を増やす、ということは考えなかったんです。サロン、ドゥラモット、それぞれの味わいは、この地でしか生まれないことを知っていた。どこにでも売る、というのではなく、このシャンパーニュの価値をわかってくれる取引先にしか卸さないことを徹底しています」

2010年、ベルナールは90歳でその天寿を全うしたが、その思想はいまにも引き継がれている。サロンは変わらず最高のヴィンテージと認められた年にしか造られず、そこで使われなかったシャルドネはドゥラモットのシャンパーニュに使用され、それぞれのクオリティを引き上げていく。

「幻のシャンパーニュ」が生まれた背景には、メゾンが辿った数奇な運命と、品質にこだわる生産者たちの想い、そしてル・メニル・シュル・オジェという、他にはありえない唯一のテロワールがあったのだ。

>>後半:「幻のシャンパーニュ」のが生まれる畑へ……。サロン、そしてドゥラモットのメゾン、潜入リポート。【後編】

フィガロJPカルチャー/グルメ担当、フィガロワインクラブ担当編集者。大学時代、元週刊プレイボーイ編集長で現在はエッセイスト&バーマンの島地勝彦氏の「書生」としてカバン持ちを経験、文化とグルメの洗礼を浴びる。ホテルの配膳のバイト→和牛を扱う飲食店に就職した後、いろいろあって編集部バイトから編集者に。2023年、J.S.A.認定ワインエキスパートを取得。

  • photography: Takumi Kawashita