Culture 連載
きょうもシネマ日和
84歳の女性翻訳家が紡ぐ、美しい言葉と日常生活。『ドストエフスキーと愛に生きる』
きょうもシネマ日和

山形国際ドキュメンタリー映画祭(2011年)では市民賞、優秀賞受賞の他、海外でも多数の賞を受賞している。
ソチオリンピックが始まっている。"ソチ"という地名、今回のオリンピック開催が決まって初めて耳にしたという方も多かったのでは?......と言う私がそうなのだけれど。ソチはロシアの中でも保養地として知られ、歴代の政治家たちの別荘も多くある場所なのだとか。考えてみれば、私はロシアを全然知らない。イメージとしては、チェブラーシカ、マトリョーシカ、ボルシチ、ロシアンバレエ。あぁ、あまりに偏りすぎ。ロシアの皆さん、本当にごめんなさい。
ただ、ロシア文学の巨匠、ドストエフスキーの『罪と罰』は学生の頃、まるで貪るように読んでいた記憶が。もしかしたらあの時が、私が生まれて初めてロシア文化と触れ合った瞬間かもしれない。そして本作は、80歳を過ぎてなお、そのドストエフスキー作品をドイツ語へ翻訳することに情熱をかける、美しいおばあちゃんのドキュメンタリーだ。

公式サイトでは、監督や、海外文学界の第一線で活躍する日本人翻訳家たちのインタビュー掲載も。本作を通して翻訳に興味がわく方も多いはず。
◆ ストーリー
一見どこにでもいそうな、知的で品のあるおばあちゃん。彼女の名は、スヴェトラーナ・ガイヤー。ロシア文学をドイツ語に翻訳する名翻訳者で、ドストエフスキーの5大傑作小説の新訳は"ドストエフスキー文学に新しい声を与えた"と言われ、ドイツ文学界の偉業と称賛されている。そんな彼女の愛に満ちた日常生活と、その姿からは想像もできない激動の少女時代から今に至るまでを丁寧に解き明かしてゆく。

本作公開に向けて様々なイベントが開催される。ドキュメンタリー映画監督・作家の森達也さん、映画字幕翻訳者の太田直子さんと劇団「地点」の演出家・三浦基さんによるトークイベント等、詳しくは公式サイトを!
◆ 80歳を超えても衰えぬ情熱と愛
ドストエフスキーの翻訳と知り、冒頭から私の頭はギュッと固くなっていた。いつものゆる~いモードだとついていけないと自覚していたのだろう。しかし、最初に映ったのは、生成りのざっくりセーターを着た華奢なおばあちゃんがニッコリ微笑んでいる姿。この方が主人公!? その彼女は言う。「ドストエフスキーの文章は宝探しのよう。二度、三度と読んで、初めて見つかるような宝石が、目立たない場所に隠されているから」。なんて素敵なセリフ! 私の心と頭は一気にトロリと溶けて、小難しい作品では? といった不安からも解放され、彼女が翻訳に打ち込む姿勢に引きこまれていった。
彼女は小説の言葉のひとつひとつを丹念に確認し、そのリズム感、言い回し、どれひとつをとっても妥協がない。そこに厳しさはあるが、それ以上に愛がある。作品への愛、紡がれる言葉への敬意。それにしても、80歳を過ぎても衰えることのないその情熱はどこから来るのか。

監督曰く「彼女は料理の天才でどれも本当に美味しかった!」とのこと。特にりんごとルバーブで作るケーキが絶品だったとか。
◆ 彼女の、美意識に彩られた日常生活
カメラは彼女のライフワークである翻訳だけでなく、日常生活をも追っていく。優しいぬくもりと清潔感のある家には、美しい花が飾られ、可愛らしいキッチンでは彼女が料理を作っている。これがとっても美味しそうで、実際、どれも絶品なのだとか。時には、孫たちを招いて食事をふるまい、楽しいひとときを過ごす。そんなキッチンで、時には洗濯物にアイロンをかけながら、目の前にある対象を例えに、ドストエフスキー文学や翻訳の仕事がどんなものであるかを語りだす。その語りが......。小説を読んでいて、大好きなフレーズに出会えた時のような、まさに宝物のような言葉ばかりで、スクリーンで確かめてほしいのであえて紹介しないけれど、小さな感動の連続なのである。
しかも、彼女の使うリネンやキッチンの様子、料理の仕方等々、彼女の美意識が至るところで垣間見れて、彼女にとって翻訳することと生きることは同等なのだと知ると、同じ女性としてものすごく大切な事を教えてもらっているような気がする。

ファッションやインテリア、使っている小物など、どれもがセンス良く、温かみがあって、本人と調和しているのが素晴らしい。ぜひスクリーンの隅々まで楽しんで。
◆ 最後に
そして、カメラは彼女の過去も明かしていく。そこにはロシアの歴史に翻弄されたスヴェトラーナ・ガイヤーという名の少女が激動の時代を生き抜いてきた、悲しくも切ない物語があった。
ドイツ在住の彼女が、65年ぶりに故郷のキエフに孫娘と戻る様子は、ドキュメンタリーの枠を超え、物語のような壮大なドラマさえ感じる。彼女は冒頭に「私には負い目がある」と語る。その事が何を示すのかが終盤にわかって、彼女とドストエフスキーとの関係が新たな色を帯びて見えてくる。
と色々書いてきたが、最後に、印象的な監督の言葉を。
「仕事で成功している人はたくさん知っていますが、(スヴェトラーナ・ガイヤーは)仕事だけでなく、主婦の仕事も芸術的な作品として高めている女性を初めて見たと思いました。それまで、女性はキャリアウーマンか専業主婦タイプの2通りだと思っていましたが、彼女はどちらでもあることがパワフルだと思いました」
そう、彼女を見ていると私自身の仕事への姿勢はもちろん、お掃除もお料理も、ああもっと! と思うのである(反省)。
監督・脚本:ヴァディム・イェンドレイコ
出演: スヴェトラ-ナ・ガイヤー、アンナ・ゲッテ、ハンナ・ハーゲン、ユルゲン・クロット 2月22日(土)より、渋谷アップリンク、シネマート六本木ほかにて全国順次公開
http://www.uplink.co.jp/dostoevskii/