ダイアナ妃、すべてを変えたヘアスタイルとその人生。

Beauty 2020.10.03

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ダイアナ妃。1991年6月。photo :Getty Images

ダイアナ妃のヘアスタイリストだったサム・マックナイトが、イギリス版「ヴォーグ」誌でドラマ「ザ・クラウン」でダイアナ妃を演じる女優のヘアを担当。ダイアナ妃にヘアカットを勧めた日のことを振り返った。

ネットフリックスで、「ザ・クラウン」シーズン4の配信が11月にスタートする。ダイアナ妃が登場する新シーズンの開始を多くのファンが心待ちにしている。ダイアナ妃役にはエマ・コリンが抜擢された。

イギリス版「ヴォーグ」は10月号の表紙に女優エマ・コリンを起用。ヘアを担当したサム・マックナイトが英国民の心の王妃、ダイアナ妃のヘアを再現した。マックナイトはシャネル、マックスマーラ、フェンディなど一流ブランドのショーに携わったヘアアーティスト界のスターで、かつてダイアナ妃にヘアを一任されたスタイリストだけに、興味深いキャスティングだ。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Remembering the laughter.

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今回の撮影を機に、自らが手がけたダイアナ妃のヘアアレンジについて語ったマックナイトは、1990年に彼自身が提案し、ダイアナ妃にとってはまさに転機となった、かの有名なダイアナヘアにも触れた。ダイアナ妃に最初に出会ったのは、やはり「ヴォーグ」誌の撮影現場だった。マックナイトはフォトグラファーのパトリック・ドゥマルシュリエの撮影チームにヘアアーティストとして参加していた。「スタジオに脚の長いブロンドの女性がやって来た瞬間、私たちはみな彼女の魅力の虜になってしまった」と、当時を回想する。白いビュスチエドレスにティアラを被ったダイアナ妃の微笑みは、いまもなお人々の記憶に残っている。

 

 

”ばっさり切って”

この写真では、ダイアナ妃はショートヘアに見える。しかしこれは実はトリック。マックナイトは2016年に出版された著書『Hair by Sam McKnight』のなかで、この時の撮影について触れている。それによると、ティアラの内側に髪を収めてショートに見えるようにセットしたのだという。ダイアナ妃もこのトリッキーなアレンジがとても気に入ったようだった。「撮影が終わると、ダイアナ妃は私のところへやって来て、あなたなら私の髪をどうするか、と尋ねたのです。そこで、“私なら、ばっさり切って、やり直す”と答えました。(…)それから、“ばっさり切って、いかにも80年代風の重いヘアはもうやめて、ミニマルなショートヘアで再スタートを切るのがいいと思う”と伝えました。そして、そのとおりにしたのです」

イメージチェンジに協力しただけでなく、マックナイトはダイアナ妃に自分に自信を持つための手段も提供したようだ。彼はダイアナ妃のかつてのインタビューについて語っている。「1990年代初めに自信を取り戻したのは何がきっかけだったのかと問われ、ダイアナ妃は“サムのおかげよ。サムが私の髪を切ってくれたから”と答えているのです」。1997年に悲劇的な最期を遂げるまで、ダイアナ妃のヘアを任されたマックナイトにとって、この上なくうれしい言葉だ。そして、ヘアカットひとつですべてが変わるということの証でもある。

ダイアナ妃、転落の王妃

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1961年7月1日にサンドリンガムに生まれる。旧姓ダイアナ・フランセス・スペンサーは、デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ・スペンサーの子孫に当たる。父はオールトラップ子爵エドワード・スペンサー、母はフランセス・バーク=ロッシュ。母は、フランス王アンリ4世の孫のイングランド王チャールズ2世の庶出子孫。(サンドリンガム、1963年7月)photo :Abaca

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イギリス貴族の令嬢として過ごした少女時代は平穏ではなかった。母フランセスとピーター・シャンド=キッドとの不倫関係が原因で、1969年に両親が離婚。スペンサー家は崩壊したものの、ダイアナと姉のセーラ、ジェーン、弟のチャールズ、4人の姉弟の結束は強まった。(カドガン・ガーデンズ、1968年)photo :Abaca

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ノーフォーク州のリドルワース・ホール校、ケント州のウェスト・ヒース校で学ぶ。16歳の時には、スイスのアルパン・ヴィデマネット校でも短期間学んでいる。内向的、よい生徒、スポーツが得意、この3つが当時のダイアナを形容する言葉だ。(イングランド、1970年)photo :Abaca

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花咲く乙女時代のダイアナ。バーバラ・カートランドのロマンス小説を読んで、素敵な王子様と巡り会う日を夢見ていた。(スコットランド、1974年)photo :Abaca

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その夢が実現するのは1970年代の終わり。ダイアナはこの頃、次期イギリス国王、ウェールズ公チャールズに出会う。ダイアナの家族は、数年前から女王の地所の近くに居を構えていた。姉のセーラは短い期間チャールズと交際していたこともある。しかし最終的にイギリス王室内では、ダイアナを妃候補とすることで合意が形成されていく。未来のイギリス国王チャールズも身を固める時期を迎えていた。事情を嗅ぎつけたマスコミが、無名の若い保育士であるダイアナを追跡し始める。(ロンドン、1980年)photo :Abaca

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良家の令嬢、独身、プロテスタント…ダイアナはチャールズの婚約者として申し分ない女性だった。出会って間もないながら、結婚はすぐに決まった。1981年2月24日、2人の婚約が発表される。その時の婚約指輪が、かの有名なサファイアのリングだ。(バッキンガム宮殿、1981年2月24日)photo :Abaca

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婚約発表後すぐ、表舞台に姿を現すようになったダイアナ妃。将来の王妃という身分だけに、社交界のイベントにもひっぱりだこ。社交にまだ慣れていない、恥ずかしがり屋の若き日のダイアナ。この写真でも、モナコ公妃グレースと並んで、ぎこちない様子だ。しかしこうしたフレッシュさが、一般大衆からは共感を持って受け止められた。(ロンドン、1981年3月)photo :Abaca

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1981年7月29日。20歳のダイアナ・スペンサーと32歳のチャールズ皇太子は、3万5000人の招待客が見守るなか、ロンドンのセント・ポール大聖堂で結婚式を挙げた。テレビでふたりの結婚式を鑑賞した視聴者は10億人以上。(ロンドン、1981年7月29日)photo :Abaca

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素敵な王子様、馬車、金モール、プリンセスドレス…まるでおとぎ話の世界。(ロンドン、1981年7月29日)photo :Abaca

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バッキンガム宮殿のバルコニーでのキス。正式にウェールズ公妃となったダイアナ。同時に、チェスター伯爵夫人、コーンウォール公爵夫人、ロスシー公爵夫人、キャリック伯爵夫人、レンフルー男爵夫人、デイム・オブ・ジ・アイルズ、スコットランド公妃の称号も得た。(ロンドン、1981年7月29日)photo :Abaca

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ダイアナとチャールズはハネムーンのひとときをバルモラル城敷地内の王室の私邸で過ごした。しかし、この時のロイヤルファミリーとの同居生活はダイアナにとって、決して楽しいものではなかった。夫婦の間にさっそく気まずい空気が漂い始め、チャールズはダイアナと距離を取るようになる。(バルモラル、1981年8月)photo :Abaca

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やがてダイアナ妃は妊娠。夫婦の仲も平穏を取り戻したように見える。(1982年)photo :Abaca

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1982年6月21日、英国王室後継者プリンス・ウィリアム・オブ・ウェールズを出産。仲睦まじい様子の新米パパママ。(ロンドン、1982年6月22日)photo :Abaca

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間もなく第2子懐妊。妊娠7ヶ月目のダイアナ妃。(シリー諸島、1984年4月)photo :Abaca

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1984年9月15日、夫婦の第2子で末っ子のプリンス・ヘンリー・オブ・ウェールズが誕生。(ロンドン、1984年9月16日)photo :Abaca

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カミラ・パーカー・ボウルズ問題が浮上。かつて心を寄せたカミラと、チャールズ皇太子は結婚後も親しい間柄にあったばかりか、ふたりは交際を続けていた。チャールズはかつて愛した人を忘れることができず、ダイアナとの諍いが続いたことで、一線を越えてしまう。ダイアナ妃はすぐにふたりの関係を知るが、家を空けがちな夫に対し、どうすることもできない日が続く。(ラドロー、1980年代)photo :Abaca

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結婚生活は危機的状況にありながら、傍目には幸せな妻のように振る舞っていたダイアナ妃。(オーストラリア、1985年)photo :Abaca

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人生を満喫する女性という顔も演じなければならなかった。“ダンシング・クイーン”の異名にふさわしく、ジョン・トラボルタをパートナーに優雅なダンスを披露するダイアナ妃。(ワシントン、1985年11月)photo :Abaca

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子どもたちを守ることに力を注いだダイアナ妃。子どもたちにとっては最高のママだ。(スペイン王室のメンバーとともに。スペイン、1988年8月)photo :Abaca

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いっぽうで、強い個性を発揮し始める。自立へ向けて、少しずつ羽ばたき始める。(ロンドン、1989年)photo :Abaca

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ウィリアム王子とハリー王子にとっては、とにかくおもしろいママ……。(1990年)photo :Abaca

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ダイアナ妃は子どもたちに人々に心を開くことの大切さを伝えた。(ランダフ、1991年3月)photo :Abaca

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1992年2月11日は、ダイアナ妃による宣戦布告の日。皇太子夫妻がインドを公式訪問中に、チャールズ皇太子の不倫の噂をマスコミが取り上げ始める。ダイアナ妃は夫と別行動を取り、すべての訪問先を単独で訪れた。近い将来の破綻の前兆か、永遠の愛の象徴であるタージ・マハル廟の前で、ひとりでポーズ。(インド、1992年2月)photo :Abaca

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タージ・マハル廟のエピソードの後、チャールズ皇太子は世間体を取り繕うために、人前では仲のいい夫婦として振る舞おうとする。ポロの試合で勝利した後、キスしようと夫人の元に駆け寄る皇太子。しかしダイアナ妃は、最後の瞬間に顔を背けてしまう。(インド、1992年2月13日)photo :Abaca

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今度の訪問先はエジプト。またもや歴史的建造物の前でひとり。メッセージは明快だ。ダイアナ妃は夫からも王室からも解放されたのだ。1992年、話し合いを重ね、12月にふたりは正式に別居を発表した。(エジプト、1992年5月)photo :Abaca

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両親の別れの知らせを受け止められるくらい大人になったウィリアム王子とハリー王子。(イングランド、1993年4月)photo :Abaca

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別居後、とりわけ王室の保護下を離れたことで、マスコミの攻勢に苦しめられるダイアナ妃。(ロンドン、1994年7月)photo :Abaca

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恵まれない子どもたちの教育など、それまで取り組んできた人道問題に光を当てるために、マスコミから関心を向けられる立場を利用するダイアナ妃。(ジンバブエ、1993年7月)photo :Abaca

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人道活動で各地を飛び回り、水面下では離婚調停が進められるなか、息子たちのイベントには欠かさず顔を出す。写真はウィリアム王子の名門イートン校入学日。(隣はチャールズ皇太子。イートン、1995年9月)photo :Abaca

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ダイアナ妃のもうひとつの闘いは、赤十字と協力して取り組んだ、非人道的な地雷撲滅運動。特にアンゴラは2002年末まで続いた内戦で荒廃し、大量の地雷が残されている。(アンゴラ、1997年1月)photo :Abaca

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同日、地雷被害者を見舞う。(アンゴラ、1997年1月)photo :Abaca

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利他の心と人間的な力を磨き、輝きを増したダイアナ。1990年代には抑制されたエレガンスで、人々を魅了するファッションアイコンとなった。(ニューヨーク・ファッション・アワード、1997年2月)photo :Abaca

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恥ずかしがり屋の保育士だった若い頃から一転、完璧なスポークスマンとして人道問題に取り組み、ヒラリー・クリントンをはじめ第一線の政治家たちと会見を重ねる。当時、アメリカのファーストレディだったヒラリー・クリントンも、夫の不貞というスキャンダルで、苦しい立場に追い込まれることになる。(ワシントン、1997年6月)photo :Abaca

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ボスニアに派遣されたフランス部隊を訪問。紛争に苦しむボスニアでも地雷被害者のもとを訪れ、非人道的兵器の撲滅を訴えた。(サラエボ、1997年8月)photo :Abaca

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自分を縛るものからようやく解放され、自由になったダイアナは、ハスナット・カーン医師としばし幸せな時を過ごす。しかし1995年に始まったこのロマンスは1997年に終わりを迎える。同じ頃、エジプトの富豪モハメド・アル=ファイドのクルーザーでヴァカンスを楽しんだ彼女は、富豪の息子のドディと出会う。チャールズとカミラへの当てつけにひと夏の恋を利用、かの有名なダイアナとドディとの“キス”写真がマスコミで取り上げられることに。(サントロペ、1997年8月22日)photo :Abaca

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足を延ばしたパリで、恋人たちは必死にマスコミをかわす。0時20分、ホテルの裏に駐車したメルセデス・ベンツに乗り込むふたり。これがカメラがとらえたダイアナの最後の姿となる。(パリ、1997年8月31日)photo :Abaca

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0時23分、ふたりが乗った車がアルマ橋のトンネルへ向かう。だが車は車線を外れ、時速100キロ以上のスピードでトンネルの壁に激突する。ドディ・アル=ファイドと運転手のアンリ・ポールは即死。ボディガードのトレヴァー・リース・ジョーンズは重傷を負った。大破した車から引き出された時はまだ息があったものの、ダイアナは事故で負った傷が原因で4時25分に亡くなった。(パリ、1997年8月31日)photo :Abaca

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訃報はただちにバッキンガム宮殿に伝えられた。世界中がショックを受け、心のプリンセスの死を悼んだ。国中から寄せられた何千もの花束や哀悼のメッセージが宮殿前を埋め尽くした。(ロンドン、1997年9月5日)photo :Abaca

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葬儀は9月6日にウェストミンスター寺院で執り行われた。友人で歌手のエルトン・ジョンが自らの楽曲「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」をダイアナのためにリメイクしたものを演奏した。(ロンドン、1997年9月6日)photo :Abaca

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息子のウィリアム王子とハリー王子は現在、母の遺志を継いで、数々の人道活動に尽力している。(ロンドン、1997年9月6日)photo :Abaca

texte : Justine Feutry (madame.lefigaro.fr)

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