England's Dreaming

胸に沁み入る、ロンドンのトレーシー・エミンの展覧会。

トレーシー・エミンの4年ぶりのソロエキシビション「ア・フォートナイト・オブ・ティアーズ」がバーモンジー・ストリートにあるホワイトキューブで開催されている。ペインティングやドローイングはもちろん、映像、ネオンによるインスタレーション、さらには彫刻までが並ぶ大掛かりなものだ。

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トレーシーは言うまでもなく今のイギリスを代表するアーティストの一人。でも私にとっては好きとか嫌いとかでは簡単に言い表せない存在でもある。

美術館などでアート作品を鑑賞する時の私はたいがい、「これは好み」とか「ちょっと違うかな」とか、もしくは「よくわからん」だとか、なにかが頭のなかに浮かぶのだけれども、彼女の場合はいつも何も即座に出てこない。でもだからといってその前を足早に通り過ぎることは出来ず、むしろそこに立ち尽くしてしまうのだ。

私が彼女の作品を初めて目にしたのはイギリスに来て間もない頃だった。当時若いアーティストたちの新しい表現が注目を集め、彼らは「ヤング・ブリティッシュ・アーティスツ」(YBAs)と呼ばれていた。ダミアン・ハーストやサラ・ルーカスらとともにトレーシーももちろんその一人で、彼らの作品を集めたロイヤル・アカデミー・オブ・アーツでの「センセーション」展で彼女の出世作となった、かつてベッドを共にした男性の名前(それも100人以上!)のアップリケで埋め尽くされたテントを観た。

でも最初に深く心に突き刺さったのはリヴァプールの大聖堂内に展示されていた作品だった。私はそこにトレーシーのアートがあるのを知らずに、単に観光の一環として行ったのだけれども。なかに入ってしばらくしてから何気なくエントランスの扉の上を見上げると、細長い文字をかたどったピンクのネオンサインが輝いていた。その筆跡から彼女の作品だと一目でわかった。歴史ある大聖堂にモダンアートがあることに少し驚きながらも、そこに書いてある言葉を目で追った。

「I Felt You And I Knew You Loved Me(あなたを感じ、そしてあなたが私を愛していたことを知った)」

扉の上にあるのだから礼拝を終えて聖堂を後にする時、人々は常にこの言葉を見上げることになる。もしくは礼拝に臨む時は背後から見守ってくれている。この「あなた」というのは誰なのか。ここが祈りの場であることから神なのか、司祭なのか、もしくはここでの時間を共有した隣人なのか。それともそのすべての人たちなのか。またはここに来る前に一緒だった最愛の人のことなのか。その答えは私にはわからなかったけれども、かたちがなく見ることも触ることもその瞬間は出来ないものを思い、それによって揺れる気持ちを作品に閉じ込めて伝えることは可能なのだと理解できた瞬間だった。

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今回の展示にもあったネオンサインによるインスタレーション。メッセージが光で浮かび上がることでより切なく感じる。

トレーシーは消えてしまったものを記憶のなかで常に思い起こし、かつ求めてそれらを描き出そうとする作家なんだと思う。今回のエキシビションでもそう感じた。かつての恋人、近年他界した母、生まれてくることが出来なかった赤ん坊。そして女だからこそ受けた数々の身を裂かれ砂を噛むような体験。それらの悲壮な出来事を忘れることなく、いや忘れることが出来ないから、彷徨い続ける彼女の魂はそのままそこに居た。狂おしく、生々しいくらいに。でも同時に、思い続け、考え抜いた膨大な時間が蓄積されて創られたクリスタルのようなピュアで透明な結晶もそこに散りばめられているように感じた。

ひどい体験や悲しい思い出は誰だって記憶から消し去ってしまいたい。それらをすべて忘れて刹那的にやり過ごして生きていくのもひとつの手段だとは思うけれども、そうではなく何度も繰り返して掘り起こしながら、自分の内側を直視して問い続ける彼女の姿に胸打たれる。

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鑑賞を終えて外に出ると、お昼時のバーモンジー・ストリートはカップルや家族づれで賑わっていた。春近しと感じさせる黄色やピンクの水仙やチューリップが花屋の店先を飾る。眩しいくらいの明るさと幸福感に満ちあふれたその光景と、今観てきたエキシビションの激しい落差にめまいがしそうだった。でもきっと、トレーシーが身を削るようにして示してくれたものは、彼女だけのものではないのだ。会場には二度足を運んだのだけれども、どちらの日もとてもとても混んでいた。

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坂本みゆき

在イギリスライター。憂鬱な雨も、寒くて暗い冬も、短い夏も。パンクな音楽も、エッジィなファッションも、ダークなアートも。脂っこいフィッシュ&チップスも、エレガントなアフタヌーンティーも。ただただ、いろんなイギリスが好き。

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