England's Dreaming

グラスゴーにかつて暮らした、1人の女性の家を訪ねて。

12月の始めにグラスゴーへ行った。仕事だったのだけれども、最終日はロンドンに戻る飛行機の時間まで少しだけ自由を頂けた。

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グラスゴーは急な坂が多い街。でもそれを登った先にはこんな素敵な風景が。

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行ってみたい場所が一つあった。それは市内の北西部にある、National Trust for Scotlandが所有するThe Tenement House

この場所を通してテネメント(tenement)という単語を私は初めて知った。辞書を引くと「賃貸住宅」とある。主に19世紀に建てられたスコットランドのアパートメントもしくはそれらの入ったブロックの名称で(イングランドのフラットと同義語のようだ)、さらには普通の住居ばかりではなく貧民街に建つ集合住宅を指すことも多いという。

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産業革命を経て19世紀から20世紀初頭に人口が爆発的に増えたグラスゴーではテネメントが一般的な住居だったそうだ。貧しいエリアではトイレは共同で(お風呂はもちろんない)、住居内に寝室は一つか二つ。そこに8人や10人の家族が暮らしている、なんてことも当たり前にあったという。

一方で経済的にゆとりのある人たちが暮らすテネメントもあり、それらの入り口は美しいタイルで飾ってあったり、人を雇ってエントランスや階段の掃除を任せていたという。

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The Tenement House内部の階段にもタイルの装飾があった。左側の壁にかかる看板はミス・トワードの母親の洋裁店の店頭にあったものだという。

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今回訪れたThe Tenement Houseは、アグネス・トワードという女性が1911年から半世紀以上に渡って住み続けたテネメントだ。彼女はショートハンドのタイピストとして働き、当初は同居していた母親が亡くなったのちも一人暮らしを続け、介護が必要となるまでここに居を構えていた。

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ミス・トワードが3歳のときに父親が亡くなり、2人の姉妹も幼い時に死亡している。母親は洋裁店を営みながら家に下宿人を置くなどしながらミス・トワードを育てたという。

彼女は家具や生活用品を新しくすることは稀で、内部に手を入れることはほとんどせず(1960年になってようやく電気による照明を入れたくらいだという)さらには手紙や演劇や映画のチケット、新聞の切り抜きや公共料金の領収書なども処分することなく保存していたそうだ。結婚せず、子供を持つこともなく、そのために生活環境に大きな変化なく暮らしていたのもその理由だったのかもしれない。

彼女の死後、この家を買い取った人が20世紀初頭のスコットランドの庶民の暮らしを物語る貴重な存在として価値を見出し、National Trust for Scotlandがその意思を引き継ぎ一般公開している。

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ドアを抜けた先の小さなロビーは、左側に寝室とラウンジ、右側にバスルームとキッチンの4つのスペースへとそれぞれつながっている。これは典型的なテネメントのレイアウトだという。重厚なマホガニーの家具などから、ミス・トワードは貧しさとは無縁の暮らしをしていたのがわかる。

パーラーと呼ばれるラウンジは季節に合わせてクリスマスの飾り付けがされていた。美しいマントルピース、細かな装飾が施されたピアノ、ロマンチックなレースのカーテンなど、とても素敵。でもミス・トワードの時代のパーラーは実は普段は使われることはなく、結婚のお披露目など特別な日だけ人々が足を踏み入れる部屋だったそうだ。

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受け取ったクリスマスカードを赤と緑のガーランドとともに部屋中に飾る。これは現代のイギリスでも変わらずに続く風習だ。

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ベッドルームはフェミニンでキュート。真鍮のベッドフレームや、ガラス瓶が並ぶドレッサーが印象的。ワードローブの上にはスーツケースが置かれていて、ミス・トワードは時にはヴァカンスを楽しんだことがわかる。小さな暖炉もあったけれども、病気の時以外は灯すことはなかったそう。

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素敵な部屋だけれども、冬はどんなに寒かっただろう。

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バスルームにはトイレとともに大きなバスタブも設置されていた。当時の一般的な暮らしと比較して、これはとても豪華な設えなのだそうだ。

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バスルームの窓辺には薬瓶や化粧品が並べられていた。

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家にいる時間の大半を過ごしていたであろうキッチンは生活感で溢れていた。大きな釜戸が鎮座し、たぶん厳しい冬の間でも石炭による火が灯られて、唯一暖かく過ごせる空間だったのだろう。棚に並ぶたくさんの調理器具から、ミス・トワードはお料理好きだったのかなと考える。

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クリスマスシーズンのお菓子、ジンジャーブレッドのレシピもミス・トワードが所有していたもの。きちんとタイピングされていて、彼女の性格が垣間みられるよう。

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ミス・トワードがこの家を去ってから周辺は大きく変わったという。他の多くのテネメントハウスはすでに取り壊されて、跡地には新たにモダンな集合住宅が建てられていた。すぐ横には高速道路が建設されて無数の車が走り去っていく。でもこの室内だけは、一人のグラスゴーの女性がかつて積み重ねた日々をそのままに静かにそこにあった。ご本人は不在だったけれども、タイムマシンに乗ってミス・トワードをつかの間訪ねたようだった。

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レンガ色が美しいThe Tenement Houseが入るテネメントのブロック。かつては向かい側にも同様の建物があったそうだが、今では現代的なアパートメントになっていた。

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空港に向かうエアポートバスに乗り込む前に、中心地にあるシーフードバーに立ち寄った。グラスゴーは魚介類が美味しい街でもある。また再訪できますように。

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ハバネロのアクセントがぴりりと効いたパイナップルピューレを載せた生牡蠣。美味しかった!スコットランドの東西の海は、魚介類の宝庫として名高い。

坂本みゆき

在イギリスライター。憂鬱な雨も、寒くて暗い冬も、短い夏も。パンクな音楽も、エッジィなファッションも、ダークなアートも。脂っこいフィッシュ&チップスも、エレガントなアフタヌーンティーも。ただただ、いろんなイギリスが好き。

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