LGBTQの親を持つ、子どもたち。

Culture 2017.11.23

From Newsweek

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<Savanna>私はアリゾナ州フェニックスの美術高校に親友と一緒に車で通っていた。ある日、学校に行く車でラジオを聞いていたら同性婚の話題が流れ、女性視聴者からのメールが読み上げられた。「私たちが心配しなければならないのは、同性愛者の子供たちだ」「そういう人たちに育てられるのはよくない」。私は激怒して、ラジオ局に電話をした。「私はゲイの両親を持つ子供です。あのメールには愕然とした。誰の同情も要らない。私の両親は素晴らしい」って怒りを爆発させた。

アメリカで同性愛の親を持つ子供は少なくとも600万人――「私は困難を経験したが、次の世代は違うはず」

私の母は同性愛者。そう言えるようになるまで、長い時間がかかった。

20年以上前、私が高校生だった頃に母はカミングアウトした。間もなく父と別れ、最終的には長年のパートナーだった女性とマサチューセッツ州で結婚した。

私にすれば衝撃的で、海外留学中の1年間はほとんど母と口を利かなかった。特に同級生には隠さなくてはと思ったし、絆の強い家族の中でもその話題はタブーだった。

私は29歳だった7年前、肖像写真プロジェクト「キッズ」を始めた。同じような境遇の人の話を聞き、写真を撮るためだ。私は世界中のいろいろな都市に住んだが、同性愛の親に育てられた人に会ったことはなかった。

LGBTQ(性的少数者)の親や保護者を持つ人々を支援する団体COLAGEを教えてくれたのは妹だ。ニューヨークのイーストビレッジのアパートで、若者たちが家族のカミングアウトの話をするのを聞いた夜から、撮影した子供は100人近く。彼らに会うことは私自身のセラピーにもなった。

シンクタンクのウィリアムズ研究所の推計では、アメリカで同性愛の親を持つ子供は少なくとも600万人。私は困難を経験したが、次の世代は違うはず。LGBTQへの差別なんて、歴史の中の話になるだろう。

ガブリエラ・ハーマン(写真家)

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私にとって決定的なのは、
無条件に愛してくれる人が2人いるということだ
「私は世界で一番幸せな子供だ」って思う

<Jaz>
父が亡くなったのは私が2歳の頃。両親が離婚しようとしていた時期でもあった。母は精神的な問題を抱えるようになり、同性愛者と自覚していないことが問題の原因だと気付いたんだと思う。やがてレズビアンのチャットルームで今の妻タミーに出会った。結婚すると聞かされて、私は「はぁ?」ってなったけど。私たちが引っ越したニューヨーク州ロチェスター郊外の町はリベラルじゃなくて、親が同性愛者なんて誰にも言えなかった。大きな転機はたしか14歳のとき。3人でテーマパークに行き、タミーに「たまにはママって呼んでもいい?」と聞いた。彼女が泣きだして、それがすごく愛しかった。

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<Malina>
私の父は弁護士で、生殖補助医療関連の法律が専門。彼は、自分と同じゲイの父親やレズビアンのカップルが代理出産で子供を持つのを支援する団体を立ち上げた。私は、生殖補助医療を使ってゲイの父親たちの間に生まれた子供の最初の世代。当時は体外受精の技術もまだまだで、12個の卵子を受精させるのに父たちは大金を使ったようだ。最後の1個はかなり状態が悪くて、これでうまくいかなければ子供は諦めようと思ったと父は話していた。それが私になった。ゲイの父親がいるのは、私が望める中で最も素晴らしいことの1つ。大変なこともあるけど、世界に関する得難い視点を与えてくれる。

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<Adrian>
感謝祭の日、大学から自宅に帰ると、母親以外のもう1人の女性が暮らしていた。父親は2、3カ月前に家を出ていた。「友達?」って僕が言うと、母は「そう。そういうことなの」って感じで、はっきり言わなかった。たぶん彼女は心の準備ができていなかったのかもしれないし、僕のほうができていなかったのかもしれない。嫌な気持ちはしなかったし、裏切られたとも感じなかった。でも大喜びしたわけでもない。一歩下がって、自分の中で処理する必要があったんだと思う。母は、僕が大学に入るまで待ったんだろう。「息子は家を出て、自分のすべきことをしている。私が自分の人生を生きる時が来た」って感じだったのかな。

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アメリカ人はすぐに人を判断しようとする
母親が2人いるとか、人種や民族のこととか
自分の場合は母のことより、
人種が問題になることが多い

<Zach>
僕はニューオーリンズで生まれた。ベトナム人の母パトリシアは16歳で、スペイン人で黒人の父チャールズは17歳だった。僕はバーバラとキムの養子になった。つまり僕には2人の母親がいる。母親のことで最初に問題が起きたのは小学3年生のとき。みんなに「ママが2人なんて、超羨ましいね」と言われた。子供にとっては、レズビアンやゲイなんて「どうでもいいこと」って感じだった。正直言って、そのことを心配し過ぎる親がいると思う。当時、「なぜあなたは黒人で、彼らは白人なの?」「なぜあなたはアジア系なの?」と周囲からよく聞かれたのを覚えている。僕は「養子だから」と答えていた。多くの子供にとっては、それで十分だった。

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<Molly>
15歳になる前の春、父親がトランスジェンダー(心と体の性が一致しない人)だと私たちに打ち明けた。母はたぶん結婚早々か、1、2年たった頃から分かっていたと思う。父が私と姉妹、いとこを台所に連れていって、そのことを話した。私たちはとても進歩的な家族だったけど、それでも父のことは奇異に思えた。たしか1年後に両親は別れた。その頃には父は変わり始めていて、私たちに会いに来るときは男性の服装にピアスやネイル。名前もオースティンからビビアンに変わった。私が最もつらかったことの1つは、父が家族の中で自然に振る舞えず、家族の一員と思えずにいたようだと、しばらくしてから分かったこと。

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幼稚園の先生とけんかしたことがある
父の日のカードを作ったとき、父はいないと
言い張る私を先生は信じてくれなかった

<Jamie>
母は私が子供の頃から、大人扱いしてくれた。私たちは友達みたいで、それでうまくいっていた。私が10歳の頃に大切な話をしたと、母は言う。全てを細かく話して、私は「ちょっと待って、あなたはレズビアンということ?」って言ったらしい。「あなたは怒った。ショックを受けていた」と母は言うけど、私は全然覚えていない。記憶力はいいのに、そのときのことは頭から遮断したのだろう。幼稚園のときには友達に、父がいないと話したのを覚えている。「どうして?」と聞かれるから、「ママが私を生むのをお医者さんが手伝ってくれた」と答えた。

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撮影:ガブリエラ・ハーマン
米ニューヨークを拠点として、旅、食、ライフスタイルをテーマの広告写真や、ニューヨーク・タイムズ、ワイアードなどの新聞・雑誌を中心に活躍している。本作は、新刊写真集『The Kids ― The Children of LGBTQ Parents in the USA 』からの抜粋

[本誌2017年10月24日号掲載]

Newsweek.jp
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ニューズウィーク日本版より転載

 

Photographs : Gabriela Herman

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