「私は特別だ、と彼は言った」JFKの元愛人が当時を語る。

Culture 2021.09.09

ダイアナ・ドゥ・ヴェグがジョン・フィッツジェラルド・ケネディに出会ったのは1958年。20歳のときだった。63年の時を経た2021年8月28日。Webマガジン『エア・メイル・ニュース』で、心理療法士となった彼女が、4年間にわたるふたりの関係を振り返った。

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大統領執務室で撮影されたジョン・フィッツジェラルド・ケネディのポートレート。(1960年)photo: Getty Images

「これは昔からよくあるお話。ひとりの若い女とひとりの偉大な男の物語です」と彼女は書いている。といっても、これはおとぎ話ではない。20歳でジョン・フィッツジェラルド・ケネディと出会ったダイアナ・ドゥ・ヴェグが、63年の時を経て、アメリカ元大統領との関係について語るためにペンを取ったのだ。彼女の回想は、8月28日土曜、Webマガジン『エア・メイル・ニュース』に掲載された。結末は誰でも予想できるもの、と彼女はあらかじめ断っている。「女は失恋の悲しみを抱え、男は何事もなかったかのように去った」。心理療法士となった83歳の彼女は、JFKとの恋愛初期のときめき、幻想、同意をめぐる自問、そして元大統領の暗殺について綴っている。

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「あなたは私が誰かご存知ですが、私はあなたを知りません」

すべての始まりは1958年。上院議員のジョン・フィッツジェラルド・ケネディは再選を目指し、マサチューセッツで選挙キャンペーンを行っていた。一方、ダイアナ・ドゥ・ヴェグは、レッドクリフ大学でアラビア語を専攻する学生。ボストンで初めて開催される民主党主催の政治集会に誘われた彼女は、退屈を紛らすには願ってもない機会だと、一も二もなく招待を受け入れた。その席で、JFKは20歳の彼女に目を留める。「ところでお嬢さん。あなたにはアドバンテージがあります」と政治家はさりげなく言う。「あなたは私がジャック・ケネディ(ジャックはジョンの愛称)であることをご存知です。でも私はあなたがどんな人か知りません…」。丁寧な扱いを受け舞い上がったダイアナは「興奮に震えた」。そして、上院議員に次回の政治ミーティングにも参加してほしいと提案される。

ミーティング後、JFKは彼女を車で送った。「(…)毎回、集会が終わると、上院議員は”いいですか、私はいまたった一票を得るために、必死で働いているんですよ”と言ってよく私をからかった」と彼女は振り返る。ジャック・ケネディはきっぱりとした口調で、きみには何か”特別な”ものがあると言った。60年経ったいま、ダイアナはもうその手には乗らない。「当時は、自分が孤立していて、他の学生たちと隔てられていたことに気づかなかった。こんな立場に陥っている私を感情的に支えてくれる人はいなかった」と彼女は分析する。「私に関心を向けていたのは彼だけではなかった。私はいつも彼の政治サークルのメンバーたちに囲まれていた(…)。実際には、集会が行なわれている間、私がなるべく人目につかないように、注目を浴びないように監視していたのだ」

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JFKの愛人たちに対する”オブセッション”

当時はJFKが既婚者であることをあえて無視していたとダイアナは自ら認めている。ジャッキー・ケネディについて”考える”ことをただ単に避けていたのだと。彼も妻のことには一切触れなかった。「私は自分だけの小さな世界で生きていた」とダイアナは説明する。「その方が簡単だったし、感情の上でも好都合だった。ケネディ夫人が郊外の政治キャンペーンに参加することもなかったから」。そのかわり彼女はJFKの愛人と噂される女性たちの記事に異常な関心を寄せた。

「その女性たちに私は会ったこともなかった。しかし私は取り憑かれたように彼女たちについて書かれたものを読み漁った」と彼女は綴る。一方、政治家は、彼女がいかに特別な存在であるかを渾々と説き続ける。そして新たな習慣ができる。ダイアナはJFKが演説を行う場にできるだけ足を運ぶようにした。集会の後は、自宅まで送ってもらう間に演説の感想をJFKに報告し、そしてひとりでアパートに帰宅する。しかしある晩、JFKはルールを破る。「お腹が空いた」と彼は車中で言った。「アパートに行こう。何か食べるものがあるだろう」。彼女は皮肉めかして言う。「そうね、アパート。彼がボストンに所有していたアパート。私はそこでこれから“特別な”女性になることを学ぼうとしていたのだ」

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“私が最初に思いついたのは逃げることだった”

上院議員と初めて性的関係を結んだときのことを語り、同意について自問する一節がある。「彼は手を私の手に重ねた」と彼女は書く。「私の手は冷え切っていた。奇妙なことに、最初の反応は逃げることだった。でも逃げなかった。何が問題だったのだろう?それは愛だったはず(…)。なのになぜ私は狼狽したのだろう?」そしてこう続ける。「同意、選択、濫用、こうした意義深い言葉について考えてみたい。男が年の離れた若い女を誘惑するとき、それはつねに濫用に当たるのだろうか?(…)自分が私より倍も年上で、権力的にも差があることに、彼は気づいていただろうか?気づくべきだったろうか?」

ダイアナは『ニューヨーク・ポスト』紙でもこの優越的地位の濫用について言及したことがあった。「男性を媒介として”特別な女性”になるというこの発想ー”俺とベッドを共にすれば、俺はおまえを特別な存在にしてやる”ー、それは、ハーヴェイ・ワインスタインやロジャー・エイルズの事件で、そしてショービジネスの世界で起ききていること」と彼女は糾弾する。『エアー・メイル』に掲載された文章でも、彼女はこう断じている。「JFKは偉大な男のひとりとして、若い女と付き合い、所有するという、当時の恐るべき男性神話に屈したのだ」。しかし当時のダイアナは上院議員との関係に手を染めてしまう。しかも彼はなかなか連絡の取れない男だった。

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ワシントンへの移住

彼女は虚しい幻想で気を紛らそうとした。「そう。私は”ロマンティック”なんていう言葉を使っていた」と彼女は嘆く。「あの状況を美化しようとしていた。彼の不在に苦しむ自分を慰めるために」。会っているときも彼のもとには絶えず電話がかかってくる。ジョン・F・ケネディは自分が居を構えるワシントンに移住してはどうかと彼女に提案する。そうすればもっと頻繁に会えるようになると。ダイアナは大学を卒業するとすぐにワシントンに転居した。彼女は上院議員の口添えで国家安全保障会議の研究アシスタントのポストに就く。しかしふたりの関係は彼女が望んだようには進展しなかった。

「ふたりで何を話していたか?」と彼女は続ける。「そう。私たちはお互いの考えや感情について深い会話を交わしたことはなかった。雨や天気の話をし、一緒に寝て、それでそれぞれ自分の家に帰る。(…)実際には、私たちの関係は単に表面的で、その場限りのものだった」とダイアナは振り返る。そしてこうつけ加える。「ジョン・ケネディが私に対する関心を失ったとき、私は私自身に対する関心を失ってしまった」。ダイアナは傷心を抱いてパリへ行く。そこで彼女はジョン・F・ケネディの悲惨な最期を知ることになる。

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“私が育った世界では、重要な人物には絶対に悪いことは起こらないはずだった”

「私が何を感じたのか訊きたいですか?私はずっと自分に問い続けています。私は何も感じなかった。私が薄情な人間だからではなく、何が起きたのかわからなかったから。私が育った世界では、重要な人物には絶対に悪いことは起こらないはずだった」。ダイアナはその後、心理療法士になる決心をし、ニューヨークに移住する。この職業を通して彼女は「他者の栄光にあやかりたいという願い」からではなく、「他者を助けるために」他者に耳を傾けることを学ぶ。ダイアナは自分とJFKとの関係の本質をいまははっきりと認識しているという。「私が20歳のとき、ジョン・ケネディはロマンティックな英雄としての特性をすべて備えていた。でもこの話はロマンティックな物語ではない」

text: Chloé Friedmann(madame.lefigaro.fr)

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