長女ケイト・バリーの死......ジェーン・バーキンを襲った人生の悲劇とは?
Culture 2023.08.08
7月16日にジェーン・バーキンが76歳で逝去した。2013年12月にパリのアパルトマンから転落し46歳で亡くなった長女のケイト・バリーの元に旅立った。
SOS人種差別の集会に参加するジェーン・バーキンと娘のケイト・バリー。(パリ、1985年12月7日)photography: Getty Images
ケイトはジェーンの最初の子どもだ。姉妹の中で一番控えめな性格だと本人は語っていた。そして、おそらく一番ミステリアスな娘だった。7月16日にジェーン・バーキンが76歳で亡くなり、失われた楽園で待つケイト・バリーの元へ旅立った。長女のケイトは2013年にパリのアパルトマンの5階から転落し46歳で亡くなった。母はその後何年もうつ病に苦しみ、子どもを失った悲しみは死ぬまで癒えることはなかった。「私にはもう生きる権利がない、私はもう終わったと思っていました」。昨年に放映されたドキュメンタリー番組『ジェーン・バーキン……、そして私たち』のなかで、ディディエ・ヴァロのインタビューに応えて彼女はそう振り返っていた。「自分が見ているもの、自分が感じていること、自分自身のこと、そんなことなどどうでもよくなってしまった」。ケイトは「自分にとってのチャンス」だったから、とも彼女は語っている。ケイトは母親と一緒にロンドンからパリへ渡ってきた。かの有名な籐の籠に揺られて。
シャルロットを抱くジェーン・バーキン。ケイトに花束を贈るセルジュ・ゲンズブール。photography: Getty Images
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「父親代わり」
ジェーン・バーキンがケイトの父親であるジョン・バリーと出会ったとき、彼女は17歳になったばかりだった。ジョンは『ジェームズ・ボンド』や『ダンディ2華麗な冒険』、『愛と哀しみの果て』などのサウンドトラックを手がけたことで知られる映画音楽作曲家だ。ふたりの出会いから1年足らずの1967年4月8日にブロンドヘアの可愛らしい長女が誕生する。その頃のジェーンには母親という役割を手際よく成し遂げる力量はまだなかった。「最初の子どにとってはとんだ災難。かわいそうなケイト!なんてひどいヒステリーを起こしたことか」と、ジェーンはつい最近もヤン・バルテスに語っていた。成人するとすぐ、13歳年上のジャズピアニストでトランペット奏者のジョンと結婚した彼女は、主婦の日常にどっぷりつかり、1日中、赤ちゃんとふたりきりで過ごす日々を送る。彼女が思い描いていた生活とはかけ離れていた。「毎晩、彼のために夕飯を作っていました。退屈な結婚生活でした」と彼女はよく語っていた。1968年、こうした生活にようやくけりがつく。ピエール・グランブラ監督作映画『スローガン』の撮影に参加したベビー・ドールは、共演者のピアニストで作曲家のセルジュ・ゲンズブールと出会う。大恋愛の常として、出会った当初はどちらも相手のことが苦手だった。しかし結局、互いに惹かれ合うようになる。
1969年、もう一度自分の夢に賭ける決意をしたとき、ジェーンはまだ22歳だった。ジョンと離婚した彼女は青春時代を送ったスウィンギング・ロンドンを後にし、新しい恋人の元へ行くため、籐籠で寝息を立てる幼いケイトとともにフランスの首都へ渡った。ケイトはまだ2歳にもなっていなかった。大きな丸い瞳の女の子はたちまち『地下鉄の切符売り』の歌手の心を掴む。ゲンズブールは「父親代わり」という新しい役目を精一杯務めた。2年後にふたりの間に娘シャルロット(ゲンズブール)が生まれても、彼は父親としてケイトに変わらぬ愛情を注いだ。パリのヴェルヌイユ通りのアパルトマンやサントロペの高台の別荘を背景にステップファミリーの幸せな瞬間を収めた写真が数多く残されている。
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まずファッションを志す
後に才能ある写真家として頭角を現すケイトが初めてカメラを手にしたのは、ある意味でゲンズブールのおかげだ。「カメラを始めたのは子どもの頃です。最初はセルジュのポラロイドでした。彼はとても神経質でしたが、カメラに触れるのは許されていました。私にとっては奇跡のようなものでした。ほぼ瞬時にイメージが現れるなんて」と、ケイトは2009年に雑誌『パリ・マッチ』で語っていた。当時、写真への情熱は趣味以上のものではなかった。ミニドレス、ブルージーンズ、白のタンクトップがトレードマークのファッションアイコンの母親の元で育ったバーキン家の長女は「ごく自然に」服飾デザインに興味を抱くようになる。「デザインの道に進んだのは、専門の学校があったからです。真っ当な職業のように思えました」と、ケイトは後にテレビ局Cap 24の番組で語っている。こうして彼女は1984年にパリのオートクチュール組合学校を卒業する。
16歳のケイトは4年前から母親の新しいパートナーである映画監督ジャック・ドワイヨンの家で暮らしていた。ジェーンとジャックが出会ったのは、1980年に撮影が行われた映画『放蕩娘』がきっかけだった。「ゲンズバール」と自称した夫のアルコール癖と奔放な女性関係に嫌気がさして、ジェーンは彼の元を去っていた。このときもシャルロットを腕に抱き、やはりケイトを道連れにして。やがて3人姉妹の末っ子、ルー・ドワイヤンが誕生する。親たちが赤ちゃんに哺乳瓶を与えている間に、ケイトはコカインを初めて経験する。2度目、3度目と続き、彼女はコカインを常習するようになる。彼女が感じていた生き辛さの原因は何だったのだろう?母親と父親たちの離別かもしれない。あるいは、不安定な生活環境にあった彼女に親たちの名声が重くのしかかっていたのかもしれない。
アルコールや薬物、薬に依存するようになった彼女だが、1987年にパスカル・ドゥ・ケルマデクとの間に息子ロマンが誕生したことを契機に、人生を取り戻そうと一念発起する。当時、彼女はまだ19歳だった。雑誌『レクスプレス』によると、彼女は義理の母親のおかげでイギリスにある依存症治療センターに入所したという。そして1991年に彼女は人生の転機を迎える。その年の3月2日にゲンズブールが亡くなると、24歳のケイトは運命のカードを切り直す。彼女はデザインの仕事を辞め、薬物依存症相互支援予防団体Apteを立ち上げる。そして、幼い頃からの情熱の対象である写真に全力で取り組む決意をする。控えめで大きな心の持ち主であるケイトは、カメラのレンズの後ろに自分の居場所を見つけたのだ。そして彼女は写真に自分のすべてを注ぎ込んだ。「ファッションの世界で学んだことすべてが写真に役立ちました。私が撮影しているポートレートの大半が女性や女優たちのポートレートです」と『パリ・マッチ』のインタビューで彼女は語っている。
ジェーン・バーキンと娘のケイト・バリー。2012年10月5日。ケイトが亡くなる1年前。photography: Abaca
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才能を開花させた彼女は、『ヴォーグ』、『エル』、『パリ・マッチ』、『マダム・フィガロ』、さらには『サンデー・タイムズ・マガジン』まで、多くの有名雑誌と仕事をするようになる。しかし、彼女が飛躍するきっかけを与えたのは、フランス・ギャルだ。1996年にミシェル・ベルジェ亡き後、初めて発表されたアルバム『フランス』は永遠の傑作として高く評価され、ケイトが撮影を手がけたジャケットはいまや神話となっている。他にも、カトリーヌ・ドヌーヴ、カーラ・ブルーニ=サルコジ、モニカ・ベルッチ、ヴァネッサ・パラディといったスターたちが彼女の被写体となっている。「”コレクション”を何回か経験した後、ファッションの仕事とは手を切りました。それから社会活動に方向転換して、非営利団体の運営に専念しました。写真は普段から撮っていましたが、仕事として撮っていたわけではありません。私にカメラを与えてくれ、励ましてくれたのは、一緒に暮らしたふたりの人たちでした。自分が就くべき職業が何なのかを人に教えられてようやく知るという姿勢は、シャルロットと母と私の共通点でしょうか?多分そうでしょう」
熱心な活動家でもあるポートレート写真家は、ゆっくりとではあるが、写真と政治活動を結びつける道を見出していく。2012年には乳がん患者のための情報誌『ローズ・マガジン』創刊号の表紙を手がけている。その1年後の2013年12月11日に、彼女は入居して間もないパリの16区にあるアパルトマンの5階から転落する。事故か、それとも自殺か?真相は誰にもわからない。この悲劇的な出来事に打ちのめされたシャルロットはフランスを離れ、家族とともにニューヨークに移住する。「胸が痛みました。6ヶ月前に姉が亡くなったパリを離れるのは、逃げるような気がしたから。母はもちろんその頃、とても苦しんでいました。妹のルーも同じです。でも私はとにかく自分の命を守りたかった」と、彼女はいま当時の心境を振り返る。2018年に日記『マンキー・ダイヤリーズ』を上梓したジェーン・バーキンは、ラジオ局フランス・アンテールの番組に出演した折りに、この出来事について触れている。彼女は3人の娘を育てたという自負があったと語っている。呑気でもあったと。それらは長女の死によって失われた。「娘が死んだとき、私はこうした自信を持てなくなりました。何も手につかなかった。私にとって人生は終わっていて、パラレルライフを生きているような感覚でした」。2020年、7年の沈黙を経て、彼女は娘の死について、朧げながら、自分の思いを断片的に明かしている。『煙草』というタイトルの楽曲のなかで、彼女はこんな意味慎重な歌詞を書いていた。「私の娘は宙にダイブした/地面に倒れているのが見つかった/窓を開けたのは/実は、煙を外に出すため?/目撃者は/猫2匹、犬1匹/鸚鵡1羽」
text: Léa Mabilon (madame.lefigaro.fr)