ウディ・アレンの謎めいた妻、スン=イーの横顔。
Culture 2021.08.07
30年を経て、いまだ謎に包まれているウディ・アレン事件。特にスキャンダルの発端となったウディの妻、スン=イー・プレヴィンはミステリアスな人物だ。ミア・ファローとアンドレ・プレヴィンの娘の横顔を探る。
1997年に結婚したウディ・アレンとスン=イー・プレヴィン。(ニューヨーク、1999年11月30日)Photo : Getty Images
彼女が養母のミア・ファローと連絡を取ることはこの先もうないだろう。2019年に他界した養父のアンドレ・プレヴィンからは「彼女は存在しない」と最後通告を突きつけられている。少なくとも、ウディ・アレンとの関係が明るみに出た1992年夏以降、親子の関係はなくなったということだ。しかしスン=イーの50年の人生は紛れもなく存在している。
2月末に配信がスタートしたHBOドキュメンタリーシリーズ『ウディ・アレン VS ミア・ファロー』。第2話は、その彼女の生涯に焦点が置かれている。カービー・ディックとエイミー・ジーリングのふたりの監督は、シリーズを通して、錯綜するウディ・アレン事件の真相に迫ってゆく。
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事の発端は1992年8月。ウディ・アレンの養女で当時7歳のディラン・ファローが、家族の所有する屋敷の屋根裏で父親から身体を触られたと医者に打ち明けたのだ。すぐに警察に通報されたが、結局この件でウディが起訴されることはなかった。
ディランの告白から1週間後、当時57歳のウディは、前妻のミア・ファローの養女で当時22歳のスン=イー・プレヴィンとの関係を公にする。2001年に雑誌「タイム」のインタビューを受けた映画監督は「心には理性のあずかり知れない心の理由がある」という言い方で言葉を濁している。スン=イー自身は雑誌「ニューズウィーク」の取材を受けた際に「私は、悪魔のような義理の父親にレイプされ、虐待され、甘やかされた、発達の遅れた世間知らずのお嬢さんなどではない」と反論している。
その後、彼女は沈黙に徹していた。それを破ったのが、2018年9月に雑誌「Vulture」に掲載された衝撃的なインタビューだ。そのなかで彼女は養母であるミア・ファローに対して辛らつな発言をしている。
『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)の主演女優として知られるミアは、雑誌US版「エル」のインタビューで、ウディのことは「もう気にしていない」と答えている。
しかしスン=イーによると、2017年12月に「ロサンゼルス・タイムス」紙に掲載された「なぜMeToo運動はウディ・アレンを免除したのか」という意見文をディランに書くよう勧めたのはミアだと言う。「ウディに起きたことは、あまりに衝撃的で、不当です」とスン=イーは怒りを露わにする。「ミアはMeToo運動を利用して、ディランを被害者として前面に押し出したのです」
ひとつ明らかなのは、スン=イーはもはや、1980年代初頭にウディ・アレンが彼女に出会った頃の、内向的な少女ではないということだ。
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ソウルの路上で
メディア攻勢に晒される前、オー・スン=ヒ(彼女の本名)は路上生活という地獄を経験している。1970年にソウルで孤児として生まれた彼女は、最初の養母とともに粗末な住まいで暮らしていた。「家具ひとつなかった。何もなかった」と、彼女は雑誌「Vulture」に語っている。「がらんとした部屋がひとつだけ(...)、それからコンクリートの中庭があった」
少女はもっといい人生を見つけようと、逃亡を図り、食料を求めてしばらく韓国の首都ソウルの街を放浪した。「どこにも行くところがなかったから、街を走り回ってゴミ箱を漁った」と彼女は当時を振り返る。
「ちょっと反抗的な」少女は5歳のときに孤児院に送り返される。ミア・ファローと当時の夫であるアンドレ・プレヴィンが彼女を養子に迎えたのは1977年のことだ。
スン=イーにとって、ミアとの出会いは苦い思い出だ。「彼女の周りは騒がしくて落ち着かなかった」と彼女は回想する。「私に会いに来たとき、彼女は私を腕に抱いて熱烈な抱擁をした。私はその場に立ち尽くして、『この女の人は誰、もう離してくれないかしら?』と思っていた。誠実な感じがしなかった」
少女は養父母とともにイギリスのサリーでしばらく暮らす。2年後、ミアとアンドレの離婚が成立すると、女優は子どもたちを連れて、ニューヨークに移住。しかしスン=イーとミアにとって、この転居は新しい門出とは程遠いものだった。
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“最も有名な神経症患者”
「最初からミアは私に対して母親らしい態度では接してくれなかった」と50歳になる彼女は言う。
「スン=イーはほかの子どもたち以上にミアに怒りを抱いていた」と妹のデイジーは回想する。数十年経ったいま、スン=イーは養母に対する思いを率直に述べ、身体的、精神的に虐待を受けたと非難している。
彼女が子どもの頃、ミアは不満があると彼女に積み木や陶器のうさぎの置物などを投げつけたという。ひっぱたいたり、ヘアブラシで殴ったり、娘に向かって「頭が悪い」と言ったこともある。スン=イーがエシカル・カルチャー・フィールドストン・スクール小学部に入学したとき、ミアから学習障害があることは隠したほうがいいと言われた。「私に恥ずかしい思いをさせるためにわざわざそういうことを言った」とスン=イーは語る。
そこへ登場したのが、ミア・ファローの新しい伴侶であるウディ・アレンだ。スン=イーは当時10歳。養母に対する苛立ちから、理解できない義理の父親に対して最初は拒絶反応を起こす。「母のパートナーというだけで、彼のことが大嫌いだった。それに誰であれ、母みたいに意地悪な女性と一緒にいられる人の気が知れなかった」と、彼女は「Vulture」で明かしている。
あるとき彼女は2人の会話を耳にした。義父はスン=イーについて、「異常なほど引っ込み思案」だから「カウンセラーに見てもらったほうがいい」と発言したという。「世界一有名な神経症患者がよく言うわ!それでお金を稼いでいるのは誰よ、引っ込み思案って自分のことじゃない!と心の中で思ったわ」とスン=イーは笑う。「彼のことは前から嫌いだったけど、ますます嫌いになった」
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ニックスの試合
このあからさまな敵意は、最終的に薄れることになる。それもミアのアドバイスのおかげで...。
養母はウディに高校生になった娘をニューヨーク・ニックスのバスケットボールの試合に連れて行くよう説得した。ウディとスン=イーの間の距離は確かに縮まったが、事態は思わぬ方向に展開する。「あの最初のバスケットボールの試合の後、ウディは私の機嫌を取るようになった。彼が考えていたよりも私が興味深くて面白い人間だと気付いたのね」と、ウディの妻となった彼女は微笑む。「彼女はとても美しかった」とウディは語っている。「聡明で、女性として最も輝いている時期だった(...)。どうして愛さずにいられますか?」
ふたりの関係が始まったのは1991年12月だとウディ・アレンは主張する。スン=イーが21歳のときだ。しかしドキュメンタリー『ウディ・アレン VS ミア・ファロー』で明かされたウディのアパルトマンの管理人やコマーシャル・ディレクターの証言によると、スン=イーが高校生の時にはすでにウディのアパルトマンにひとりで通っていたという。
21歳になり、彼女はヴァージニア州のメリーマウント大学を卒業する。ミアは「母親にとってこれ以上ないほどの素晴らしい娘」という一文を娘の大学のイヤーブックに寄せている。「あなたは奇跡。私の誇りであり、私の喜び。あなたと一緒に過ごす一瞬一瞬を、心の底からありがたく思う」
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怒りの理由
1992年1月のある日、ミアはウディのアパルトマンを訪れる。「子どもがコートを忘れてしまったから、彼のアパルトマンに連れて行った」とドキュメンタリー『ウディ・アレン VS ミア・ファロー』のなかでミアは語っている。「それで電話の右側に、女性というよりまだ若い女の子のポラロイドのポルノ写真が積み重なっていた。手に取ってみて、気づいた。そこに写っているのはスン=イーだった。私の子どもだった」
ミアはすぐに養女に電話をする。スン=イーは血の気が失せたという。彼女は「Vulture」にこう語っている。「電話に出ると、ミアの声が『スン=イー』と言った。もうそれ以上何も言う必要はなかった。彼女の冷淡な声のトーンで、私の人生は終わった、彼女はすべて知ってしまったとわかった。私の名前を発音したその声だけでわかりました」。
ミアは続けて、発覚したことを知らせるため「身近な人に片端から電話した」という。「ウディ・アレンは私のふたりの子どもを武器にして私に突きつけた」と、ミアはドキュメンタリーのなかで声を荒げる。ふたりの子どもとは、ウディを擁護しているスン=イーと息子のモーゼスのことだ。
スン=イーは第2のスキャンダルが家族を待ち受けていることをまだ知らない。
1992年の夏、当時7歳のディラン・ファローがウディから性的虐待を受けたと告発する。ウディは彼女の主張をきっぱりと否定する。その1週間後にはスン=イーとの関係を公にし、世界中の人々の前で、自分が愛しているのはスン=イーだと訴える。
「彼が私のことを愛しているとわかったのは、彼が記者会見を開いて人々の前で宣言したとき」とスン=イーは話す。「そのときでさえ、彼が本当にそう思っているのか確信はなかった。私たちはお互いにそれまで一度もその言葉を口にしたことがなかったから」
一方、連邦検察官のフランク・マコは、ウディ・アレン事件に関して捜査を打ち切ることを決定する。その理由については、「捜査を続行するべき証拠は十分そろっているが、裁判で証言台に立つことでディラン・ファローにトラウマを与えるのを避けるため」としている。
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結婚とふたりの養子
5年後の1997年12月23日、スン=イーとウディはヴェネツィアで結婚。彼女はドリュー大学で芸術学学士号を、コロンビア大学で特殊教育の修士号を取得しているが、主婦となる道を選んだ。
夫婦はベシェとマンジー、ふたりの女の子を養女に迎えている。ベシェは現在22歳、マンジーはこの2月に21歳の誕生日を迎えた。
姉のベシェはニューヨークのバード大学で美術史を学んでいる。妹のマンジーはカリフォルニアのウィッティア大学に在籍中だ。ふたりともアッパー・イースト・サイドにある2600万ドルの豪邸で育った。
ふたりの子どもたちは両親を熱心に擁護している。ベシェは2021年3月5日にSNSに次のようなテキストを投稿している。「何年も前に行われた捜査に関してどこかで何か読んだことがあっても、私のインスタグラムにそれについてコメントを書きこむのは見当違いです」。
彼女は母の日には「女王」と呼ぶ母親に賛辞を送っている。「テニス、ピアノ、ギター、クラシックダンス...。スン=イーは子どもたちが最良の教育を受けられるよう気を配っていました」と夫妻の友人「Vulture」に明かしている。「彼女はいつも周囲にアドバイスを求めていました。習い事の練習をするようにとか、宿題をするようにと、よく娘たちに言っていました。娘たちはとても規則正しい生活を送っていた」
スン=イーとウディは、過去から逃れたつもりでいたかもしれない。だがそれもつかの間、過去はふたりをとらえる。
今年2月、ドキュメンタリーシリーズ『ウディ・アレン VS ミア・ファロー』第1話の配信がスタートした。メインテーマは、ウディの性的虐待疑惑。ディラン・ファローは現在に至るまで主張を変えていない。
text : Chloé Friedmann (madame.lefigaro.fr)