再婚したM・マンソン、元妻やガールフレンドから性的虐待の告発が続く。

Culture 2021.11.17

元ガールフレンドの女優エヴァン・レイチェル・ウッドをはじめとする複数の女性が、マンソンによる性的・心理的虐待を告発した。ローリングストーン誌によると、マンソンは女性たちを「バッドガールの部屋」というニックネームのついた部屋に閉じ込めたそうだ。マリリン・マンソンこと、ブライアン・ワーナーの恋愛遍歴を振り返る。

【画像】薬物濫用、レイプ疑惑......マリリン・マンソンのお騒がせ恋愛生活。

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第8回MTVムービー・アワードに出席したマリリン・マンソンとローズ・マッゴーワン。(サンタモニカ、1999年6月10日)photo: Getty Images

「ヴァンパイアとは、夜に生き、若い女性を捕食し、血を飲む存在だ。誰かを食べるという考えは(中略)なかなかロマンティックだ」。これは2007年にマリリン・マンソンがイギリスの「ガーディアン」紙のインタビューで語った言葉だ。14年後の2021年2月1日、エヴァン・レイチェル・ウッドはインスタグラムに投稿したメッセージで、ロマンティックには程遠い怪物を描写した。

「私を虐待した人物の名前は、ブライアン・ワーナー。世間的にはマリリン・マンソンとして知られている」とメッセージは始まる。「彼は私が10代の頃から私を思いのままにし、何年にもわたってひどい虐待をし続けた」

2007年にふたりが出会った時、彼女は18歳で彼は36歳だった。

 

 

ふたりは3年間の交際を経て、2010年1月に婚約し、同年8月に破局した。「私は、この危険な男の正体を暴き、この男がさらに多くの人生を破滅させる前に、彼を放置している数々の企業に呼びかけるためにここにいる。もはや黙っていないであろう被害者の方々を支持する」とエヴァン・レイチェル・ウッドは投稿した。

すでに2018年、エヴァン・レイチェル・ウッドはアメリカ議会で次のように証言していた。元カレ(当時は名前を伏せていた)に「手足を縛られた」後、「自分への愛が証明されたと本人が感じるまで、肉体的・心理的に拷問された。目を覚ますと、愛をささやいていた男が、眠っている私の体をレイプしているところだった」

マリリン・マンソンのひどい子ども時代の話や倒錯的な習慣、そして彼がこれまでつきあった相手の証言内容並みにゾッとするような話である。

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「彼女の頭蓋骨をつぶすことが夢」

2009年に米国の音楽雑誌、「スピン」誌に掲載されたマンソンのインタビューが、エヴァン・レイチェル・ウッドのインスタグラム投稿をきっかけに再浮上した。「棍棒で彼女の頭蓋骨をつぶすことを毎日妄想している」とインタビューでマンソンは語っている。さらに喧嘩の最中、彼女が電話にでなかった回数の「158回」、「自分の顔や手を斬った」とも。神秘主義の信奉者であるマンソンは「彼女が私にどんな害を与えたかを見せつけたかった」そうだ。マンソンの広報担当は悪い噂が広がらないよう手を回した。

マンソンの広報担当はエヴァン・レイチェル・ウッドがNetaPorters.comの取材で以前語っていたことを持ち出してきた。当時エヴァン・レイチェル・ウッドは「何物にも変えられない関係よ。彼(マリリン・マンソン)が教えてくれたすべてのことに感謝している。ただ、私たちは一緒にいるべきではないと思う」と語っていた。広報担当によれば「スピン」誌のインタビューは、最新アルバムのプロモーションを目的とした「演出された」もので、なにかと話題になるダークな人物を演じただけであるとのことだった。女優のマリリン・モンローと連続殺人犯のチャールズ・マンソンを合体させて芸名にしたところからして人を食った話ではないか。

ディタ・フォン・ティースの応援

エヴァン・レイチェル・ウッドの告発に対し、マンソンはインスタグラム投稿で否定した。「明らかに、私の芸術と人生は長い間、論争の的になってきたが、最近の私に関する疑惑は、現実をひどく歪めたものだ。私の親密な関係は、いつもパートナーの完全な合意のもとに成り立ってきた」

そして2005年から2007年まで妻だったディタ・フォン・ティースがマンソンの応援の応援に駆けつけた。

バーレスクダンサーのディタ・フォン・ティースは2021年2月4日に声明を発表し、そのような虐待を自分はマンソンから受けたことがないと主張した。「公表されている詳細は、7年間一緒に過ごした私の個人的な経験とは一致しないことを知ってほしい。そんなことがあったなら、2005年12月に彼と結婚することはなかったでしょう。12ヶ月後に彼の元を去ったのは、彼の浮気と薬物使用のせいです」

 

 

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法を犯す

マリリン・マンソンは1990年代初頭のデビュー以来、業界内で「悪魔崇拝者」と言われてきた。「ガーディアン」紙によると、動物を殺したとしてアメリカのいくつかの州で公演を禁止されている。その挑発的な態度から、あらゆる噂が飛び交い、なかには荒唐無稽な噂さえ流れた。マンソン本人はステージ上でひよこを殺した噂や、自分で自分にフェラチオするため肋骨を切除した噂を否定している。デヴィッド・リンチ監督の映画『ロスト・ハイウェイ』にも登場したグラムメタルのロックスターはステージでためらいもなく性行為の真似をする。時にはやりすぎで法を犯すときもある。2002年にはデトロイトでのコンサート中にボディガードに性器を擦りつけ、4000ドルの罰金を科せられた。

「彼は人の人生を台無しにすることに喜びを感じているのだと思います」
           サラ・マクニーリー

「彼の所有物になった気分」

2018年になり、業界誌の「ハリウッド・リポーター」はマリリン・マンソンに対して、2011年の性犯罪の疑いで訴状が提出されたと報じた。しかしながらこれは「証拠不十分」で不起訴となった。2021年9月15日、ニュースサイト「TMZ」は、20歳の女性が5月に提出した別の訴状が裁判官によって却下されたことを伝えた。告訴人は、2011年に交際が始まった後、マンソンからレイプされたと訴えていた。記憶が抑圧されたためにもっと早く訴えることができなかったと主張するも、裁判官は女性がこれらの抑圧された記憶についてもっと詳しく説明し、どのように抑圧されたかを説明する必要があると判断した。そして、時期や記憶喪失についての説明と共に新たに苦情を申し立てられるよう20日間の猶予を与えたのだった。

マリリン・マンソンの元アシスタント、アシュリー・ウォルターズも5月18日にロサンゼルスで訴状を提出した。ハラスメント、暴行による怪我の他、2010年に自分がアシスタントを務めていた頃、マンソンから性的暴行を加えられ、友人にもやるようそそのかしたと告発した。マンソンと知り合ったのはSNSで、マンソンの方から連絡してきた。その後マンソンは自宅に誘い強引にキスをした。マンソンがそれ以上の行為に及ばなかったのは自分の頼みを聞いてくれたからだと思ってアシュリーはこの件を忘れることにした。するとアシスタントになってくれたら給料を2倍にするとマンソンは言ってきた。

アシュリー・ウォルターズは、「エンターテインメント業界で働く素晴らしいチャンス」と考えて、この仕事を引き受けた。しかしマンソンは暴力的な側面を見せ、「個人的にも仕事上でも彼女を性的に搾取した」とのことだった。ある俳優の膝の上に座ることを強要し、マンソンの友人に身体を触らせるよう言った。「彼の所有物になった気分」だった、とアシュリー・ウォルターズは米国の「THE CUT」誌に語っている。Me Too運動が始まってから1年後、女優のシャーリン・イーは一連のツイートで、マリリン・マンソンがドラマ「ドクター・ハウス」の撮影現場を訪れた際に、「女性全員にハラスメントをした」とつぶやいた。ツイートはその後削除された。

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バッドガールの部屋

2021年11月14日のローリングストーン誌の記事によれば、マリリン・マンソンの被害者たちは「バッドガールの部屋」とマンソンが名付けた部屋に閉じ込められた。マンソンの元ガールフレンドの何人もがこの部屋の存在を口にしている。「女性を心理的に拷問するための隔離部屋」だそうだ。マンソン本人も元ガールフレンドや友人に何度も自慢しており、2011年にはVマガジンの記事でも紹介された。2021年5月、マンソンの被害者のひとりとされるアシュリー・モーガン・スミスラインは、マリリン・マンソンを「怒らせた」ときにこの部屋に閉じ込められていたと主張した。

「わたしはサバイバー」

とどのつまり、声を上げたのはエヴァン・レイチェル・ウッドだけではない。一ダースほどのマリリン・マンソンの元ガールフレンドらが、同様の証言をしている。写真家のアシュリー・ウォルターズは、PTSDのストレスとうつ病に苦しみながら、「彼が力を行使していた何人かの女性と連絡を取り合って」いるそうだ。モデルのサラ・マクニーリーは、マンソンとの関係を疑われたことで、「個人的にも仕事上でも」多大な影響を受けた。「彼は人の人生を台無しにすることに喜びを感じているのだと思います」 とサラ・マクニーリーは言う。

アメリカ人学生のアシュリー・モーガン・スミスラインは、不安神経症、PTSDストレス障害、夜驚症、強迫性障害を患っている。「もう彼がこんなことをしないために声を上げることを選びました」と言う。4人目の女性は、ガブリエラというペンネームで次のように証言した。「私はすべての記憶を遮断しましたが、感情は残り、さまざまな形で悩まされています。このトラウマ的な経験を共有する理由は、自分が癒されたいからであり、これ以上沈黙することを拒否します。私はサバイバーです」

 

 

2021年2月4日、歌手のフィービー・ブリジャーズがツイッターで自分の体験をつぶやいた。「10代の頃、マリリン・マンソンの家に友達と行ったことがあります。大ファンでした。彼は部屋のひとつを「レイプ部屋」と呼んでいました(...)ファンであることをやめました」さらに最近、もうひとり、女性が登場した。イギリス出身の女優エスメ・ビアンコで、『ゲーム・オブ・スローンズ』のロス役として知られている。2009年から2011年にかけてマンソンとつきあっていた。「THE CUT」誌の2021年2月11日の記事でマリリン・マンソンにナイフで胸などを切られ、傷跡が残っていることを語った。

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増え続ける訴え

「覚えているのは、だだ横になり、抵抗もしなかったこと。希望も安心感も失っていた」とエスメ・ビアンコは語る。当時、虐待を受けていたにもかかわらず、ワーキングビザの発給がマンソンとの共同プロジェクト次第だったため、我慢するしかなかった。しかし屈辱と暴力がエスカレートし、「限界点」に達した日、マンソンが斧を持って彼女を追いかけてきたとエスメは言う。彼女は4月30日、マンソンに対してレイプ、サディスティックな性的虐待、繰り返される暴力を告発する訴状を提出した。

2021年5月29日にはさらに別の女性が匿名で訴え出た。この女性の主張によれば、2011年の交際期間中にマンソンに何度もレイプされた。マンソンが他の若い女性を暴行しているビデオも無理やり見せられた。椅子に縛り付けられて、銃を突きつけられ、尿とおぼしき液体を飲ませられた。ビデオは1996年にハリウッド・ボウルに出演した後に撮影し、鍵のかかった金庫に保管していたものとマンソンが説明していた、とのことだった。マンソンと近しい関係者が米国の雑誌、ピープル誌に語ったところによると、問題のビデオはシナリオのあるショートフィルムで、お蔵入りになったものだそうだ。

周囲からも否定される

マリリン・マンソン側ではますます旗色が悪くなっている。マンソンと契約しているレーベルのロマ・ヴィスタ・レコーディングスは現在、マンソンと仕事をすることを拒否している。2008年から2009年までマンソンのギタリストだったウェス・ボーランドも、Twitchのチャンネル「Space Zebra Live」でマンソンを批判した。「みんなが彼について言っていることはすべて本当だよ。彼を訴えている女性たちを批判する奴らはうせろ。彼女たちは真実を語っている」

 

 

1999年から2001年にかけてマンソンと婚約していたローズ・マッゴーワンも同様の見解を示している。マンソンによる暴行の話はしていないが、発言している女性たちを「勇気ある」と讃え、「彼女たちの回復する道のりに力を念じます」とツイートした。

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伝説的(神秘主義的)カップル

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ディタ・フォン・ティースとマリリン・マンソンは2005年から2007年まで結婚していた。(ロンドン、2006年2月17日)photo: Getty Images

ディタ・フォン・ティースも、マンソンと別れた後の後遺症を引きずっている。2007年に「ハーパーズ バザー」誌の取材に応じ、こんなふうに語っている。「6年間一緒にいたのにクリスマスイブに荷物をまとめて家を出なくてはならなかったのはよほど辛いことが起こったから、と言っておきましょう。彼を愛していたので、この離婚はこれまで一番苦しい出来事になりました」

ふたりは2001年にヴィンテージ服のオークションで出会い、2004年3月22日に婚約し、2005年12月の真夜中に、ティペラリーのゴシック調のマナーハウスで結婚した。ふたりはその後、カンヌ映画祭やメットガラなど様々なレッドカーペットを仲良く歩き、ルイ・ヴィトンやジョン・ガリアーノのショーでは最前列で注目を浴びていた。

「この離婚はこれまで一番苦しい出来事になりました」
                   ディタ・フォン・ティース

しかし、その裏ではふたりの仲が悪化していた。2006年12月にふたりは離婚を申請する。マンソンはガーディアン紙にこんなふうに語っている。「ふたりの関係のせいではない。結婚に伴うしきたりのせいだ……急に責任感というか大人になって、こんな自分であることを謝らなければならない気がし……心の準備ができていなかった。別れたのはそのためだ。さらに不幸な偶然だが、ディタのキャリアが軌道に乗りはじめていた。最初に彼女がしてくれたように、自分のやっていることを諦めて彼女についていくことはできなかった」

ディタ・フォン・ティース側では、歌手の「悪癖」と  彼の母親の「問題行動」のせいで別れたとしている。確かに、マリリン・マンソンが決して隠してこなかったこと、それは2014年に亡くなった母バーバラ・ワーナーとの関係がうまくいっていなかったということだ。

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影から光へ

1969年1月5日、オハイオ州カントンに生まれたブライアン・ワーナー(マリリン・マンソンの本名)は、「病弱で孤独な」子供だった。母親のバーバラは深刻な「精神的問題」を抱えており、マンソンが背負っている「重荷」とは「遺伝」のことだ。ベトナム戦争の退役軍人である父親のヒューは不在がちだった。マリリン・マンソンの自伝『地獄からの帰還』では同居する祖父を「子ども時代における最も醜く、暗く、邪悪で堕落した人物」と表現している。私立学校で受けた宗教教育に嫌気がさし、音楽に救いを求める1987年にはブラワード大学に入学し、ジャーナリズムを学ぶかたわら他の学生とバンドを結成した。

当初は私生活をあまり語らず

その10年後、アルバム『アンチクライスト・スーパースター』で成功を掴む。マリリン・マンソンは、もう孤独な少年ではない。その後もミリオンセラーを飛ばす。この頃の私生活について本人はあまり語っていない。もっとも自伝の中で、1992年から1997年にかけて、ビースティ・ボーイズのコンサートで知り合ったミッシー・ロメロという女性と関係を持ったことを認めている。この女性は1996年に彼の子どもを妊娠し、中絶した。

その後の交際関係はポルノ女優のジェナ・ジェイムソン(1997年)とストヤ(2009年)、ダンサーのイサニ・グリフィス(2008年~2009年)、女優のエスミー・ビアンコ(2009年~2011年)、歌手のラナ・デル・レイ(2012年)と続く。また、ロックバンド「オフェリア・ライジング」のボーカルであるレグザ・ヴォン や、元モデルのキャリディー・イングリッシュとつきあったこともあるとされる。また、ピーチズ・ゲルドフと一時期恋愛をしていたとも言われている。彼女が2014年にヘロインの過剰摂取で25歳の若さで亡くなるずっと前のことだ。ラナ・デル・レイとの関係でトラブルに巻き込まれたこともある。

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秘密の結婚

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マリリン・マンソンとリンゼイ・ウーシックは、2020年10月に結婚したらしい。(ビバリーヒルズ、2020年2月9日) photo: Getty Images

2020年10月、マリリン・マンソンは、アルバム『ボーン・ヴィラン』のジャケット写真を撮影した写真家のリンゼイ・ウーシックと結婚したことを電撃発表した。2012年から交際していたカップルは新婚早々こんな騒動に巻き込まれるとは思っていなかっただろう。リンゼイ・ウーシックはいまのところ沈黙を守っている。。

* この記事は2021年2月5日に掲載されたものを更新しました。

text: Chloé Friedmann, Solène Bonnet (madame.lefigaro.fr)

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