ポップ界の女王、ジャネット・ジャクソンの数奇で凄まじい人生。

Culture 2021.12.10

新アルバムとドキュメンタリーのリリースを控え、ジャネット・ジャクソンは表舞台への復帰を着々と準備している。そんななか、彼女のキャリアに大きなダメージを与えたスキャンダル「ニップルゲート」事件の真相に迫る最新レポートが発表された。ポップ界の女王ことジャクソンファミリーの末娘、その起伏に富んだ軌跡を振り返る。

【関連画像】ジャネット・ジャクソン:1972ー2015の軌跡を写真で振り返る。

来年1月に放送されるドキュメンタリー番組「Janet」のトレーラー

 

兄マイケルの陰に隠れたデビューから一躍スターダムにのし上がり、「ニップルゲート」事件でスキャンダルに巻き込まれるも、見事復活。ジャネット・ジャクソンのキャリアは幾度となく崩壊の危機に直面してきた。不死鳥のごとく、危機のたびによみがえったR&B界のスターが、2022年のカムバックを目指してアルバム「Black Diamond」を準備中だ。

アルバムの発売に合わせ、1月には、アメリカのテレビ局ライフタイムとA&Eで4時間のドキュメンタリー番組「Janet」が放送される。

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「ニップルゲート」事件

何とも待ち遠しい限りだが、その前に目下話題になっているのが、雑誌「ニューヨーク・タイムズ」とFXが共同制作した「ニップルゲート」(乳首スキャンダルの意味)の真相を追ったレポートだ。

去る11月19日にFXとHuluで配信された「Malfunction : The Dressing Down of Janet Jackson(不具合:裏目に出たジャネット・ジャクソンの衣装)」と題されたミニシリーズは、2004年スーパーボウルのハーフタイムショーで、共演者のジャスティン・ティンバーレイクが不慮の事故から1億人以上もの視聴者の目にジャネットの乳首をさらしてしまったハプニングを振り返っている。

アーティストふたりが謝罪と釈明をしたものの、わずか16分の9秒のこの出来事はマスコミに大きく取り上げられ、全米を揺るがす一大スキャンダルとなった。「もし文化戦争に9.11に相当する出来事があるとすれば、それは2004年2月1日だ」。ミニシリーズの予告編はそう告げている。

 

 

「なにしろアメリカのテレビで最も視聴率の高いイベントですから、世間から大ひんしゅくを買ってしまった」と語るのは、アフロ・アメリカン音楽とラップに詳しいジャーナリストのオリヴィエ・カシャン。映像が放送された後、連邦通信委員会には50万件もの抗議が寄せられ、CBS放送局は55万ドルの制裁金が、全米アメリカンフットボール協会にはハーフタイムショーで得た事業収益1000万ドルの返金が命じられた。

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試練の年月

スキャンダルを受けて、CBS放送局はふたりのアーティストを2004年のグラミー賞授賞式出演者リストから除外。しかし涙を浮かべて謝罪会見を行なったジャスティン・ティンバーレイクは最終的に授賞式でパフォーマンスを披露する権利を得る。

ハフィントン・ポストが記事で取り上げているように、ジャネットはCBSの大物ディレクターであるレス・ムーンヴスの怒りを買い、ムーンブスは全米のラジオ局にジャネットを追放するよう圧力をかけたという。

清教徒的なアメリカ社会で、ニップルゲートは「ジャネットにとって試練の時となった。ジャネットひとりが非難を浴び、一方でジャスティンは波を乗り切った」とカシャンはコメントする。ジャネットの歌手としてのキャリアを危うくしたこの出来事によって、音楽産業における女性の待遇の現状も明るみに出ることになった。

「この出来事にそれぞれに半々の責任があるとすると、僕が受けた批判は10%程度にすぎないだろう」と、2006年にMTVのインタビューでジャスティンは認めている。「アメリカは女性に対してとても厳しい。アメリカは民族的マイノリティに対して不当に辛らつだ」とも発言している。

こうしたマスコミの妨害にもかかわらず、ジャネットは8枚目のアルバム「ダミタ・ジョー」をリリースした。「私の胸をめぐるこの滑稽な騒ぎを通して、自分がどれほど強いか、そして自分の国がどれほど狂っているかを知った」と、ジャネットは2004年8月に「Journal du dimanche」紙に語っている。

「彼女は本物のファイター。忘れてはなりませんが、彼女のキャリアは最初から順調だったわけではありません」と、伝記『Michael Jackson, Pop Life』の著者であるカシャンは話す。

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仕事に追われる子ども時代

1966年5月16日にシカゴ郊外の町ゲーリーに誕生したジャネットは、キャサリンとジョセフ・ジャクソン夫婦の間に生まれた10人兄弟の末っ子だ。

威圧的な父親の元で厳しく育てられた彼女が、初めて舞台に立ったのは7歳の時。1976年には兄弟たちのグループ 「ジャクソンズ」にコーラスとして加わった。

その後はテレビドラマに活動の場を移し、「Good Times」、「Fame」、「A New Kind of Family」、「Arnold et Willy」といったテレビドラマに出演を重ねる。「父は私が高校に行くのを望まなかった。ドラマで演じるのが私の仕事だった」と、彼女は2001年に「フィガロ」紙に語っている。

普通の子ども時代を送れなかったジャネットは体操をやってみたいと思った時期もあった。「でもそれは無理でした。いつも仕事で忙しかったので」と、2019年に「サンデー・タイムズ」紙に語っている。一時は法律の勉強をするために音楽をやめようと考えたこともあった。「父は許してくれませんでした。父には神は私のために別の道をお選びになったという予感があったのです」と彼女は回想する。

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マイケルの陰で

1982年、マイケル・ジャクソンが史上最高の売上げを記録したアルバム「スリラー」を発表した年、ジャネットは自らの名前を冠したアルバムでソロとしてのキャリアをスタートする。最悪のタイミングだった。「デビューアルバムが不発に終わった後、彼女は当時のR&B界のスターだったデバージ兄弟のひとりと結婚します(編集注記:ジェイムズ・デバージと1984年に結婚)が、結婚生活は悲惨なもので1年しか持ちませんでした。ジャクソン・ファミリーの末っ子としてデビューした彼女は、スーパースターのマイケルの影をなかなか振り払えませんでした」とカシャンは話す。

1986年に発売されたアルバム「コントロール」と、1989年のアルバム「リズム・ネイション1814」の成功で、ジャネットはようやくその影を振り切るきっかけをつかむ。人種差別や貧困、非識字などの社会問題がテーマとなったアルバム「リズム・ネイション 1814」は、シングルカットされた4曲が全米1位を獲得した。

「80~90年代にはベルシー(編集部注:パリの大コンサートホール)を満員にしていました。1993年当時、ジャネットがヴァージン・メガストアで『ジャネット』の発売記念イベントを行った時、僕はラッキーなことにプレゼンターを務めました。会場は大興奮で、暴動寸前のような状態でした」とカシャンは回想する。

栄光の絶頂にあったジャネットは、2番目の夫ルネ・エリゾンドJr. の手で胸を隠し、上半身を露わにした大胆なポーズで雑誌「ローリング・ストーン」の表紙を飾った。この写真は世間に強烈な印象を与え、強くカッコいい女性のシンボルとなる。兄の影から解放されたジャクソン家の末娘はいまや正真正銘のスターだった。「ジャネットはまさにナンバー2となりました。全世界的なスターであるマイケル・ジャクソンに匹敵する名声を獲得したといえるのは彼女だけです」とカシャンは語る。

1995年にはマイケルとジャネットのデュエットでメガヒットを記録したシングル「スクリーム」が発表される。製作費に700万ドルを費やしたこの曲のミュージックビデオは史上最も高額なミュージックビデオと言われている。2000年代に入ってからも、「オール・フォー・ユー(2001年)、「ダミタ・ジョー」(2004年)、「20 Y.O.」(2006年)、「ディシプリン(2008年)と、ジャネットは順調にアルバムを発表する。

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ポップ界の王はもういない

2009年6月25日、マイケル・ジャクソンの突然の訃報に、世界中の人々が耳を疑い呆然とした。マイケルの死はジャクソン一家に大きな衝撃を与え、一家が築き上げた帝国は危機に陥った。

兄弟のなかで一番近い間柄だったジャネットにとって苦しみは大きかったが、彼女はどうにか持ち堪え、慎み深く気丈に兄の死を受け止めた。「おかしくなって」しまわないように、テレビもつけず、新聞を避けた。「サイのように強靭な人でも、ときには傷ついてしまうこともあります」と、彼女は雑誌「ハーパーズ・バザー」のインタビューで語っている。兄の死を乗り越えるために、ジャネットは仕事を再開し、スタジオでの録音の日々に戻る。

30年以上にわたって音楽界の第一線を走り続け、映画にも何作か出演したことのあるジャネットは、出版での成功とともに人生の新しい章をスタートする。2011年に刊行された『True You』で、ジャネットは過去のつらい時期について明かした。

まだ少女の頃にテレビのプロデューサーたちから痩せるようプレッシャーをかけられことや、その後数年に渡ってダイエットとリバウンドを繰り返し、摂食障害に苦しんだこと。子どもの頃は、圧倒的な権力を持った父親のもとで育ち、身近な人々から揶揄されたこともある。マイケルからもよくお前はだめだと言われた。家族の間では「donkey」(ろば、転じて、間抜けの意味)を略した「dunk」というあだ名で呼ばれていたとテレビ局BBC Oneのインタビューで彼女は恥ずかしそうに打ち明けている。

この告白本のなかで彼女はうつの経験や、ありのままの自分自身を愛することを学ぶまでの長い道のりにも触れている。「40代の頃、世界中の何百万という女性たちと同じように、私の頭の中には常に、自分自身を叱責する声や、自分は価値のない人間なのではないかと疑う声がありました」と2018年に雑誌「Essence」で彼女は語っている。「私を導いてくれるのは自分の人生の経験だけ。私は大きな喜びも大きな悲しみも知りました。でも、幸福について私は何を知っているのか? これこそが真の問いです」

50代を前にしてジャネットはその答えの一端を9歳年下のカタール人の大富豪ウィサム・アル・マナに見出したかに見えた。2012年にふたりは結婚し、3年後にジャネットは11枚目のアルバムとなる「アンブレイカブル」でミュージシャンとしてのキャリアの再スタートを切った。アルバムタイトルの「壊れない」という一語が彼女の人間性を端的に表している。

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ジョルジオ・アルマーニのショーに現れたジャネット・ジャクソンとウィサム・アル・マナ。(ミラノ、2013年2月25日)photo: Abaca

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50歳でシングルマザーに

2017年、51歳の誕生日の直前にジャネットは第1子を出産する。エイサと名付けられた男の子は体外受精で授かった待望の子どもだった。出産の喜びから3カ月後、ジャネットはウィサム・アル・マナとの離婚を発表し、人々は彼女が夫から精神的虐待や家庭内暴力を受けていたことを知る。

以後、ジャネットは息子とふたりで日常の小さな幸せを満喫している。「息子にキスするとき。息子にそっと子守唄を歌うとき。こういう神聖な瞬間、幸せでいっぱいになる」と語った後で、彼女は「息子に命とエネルギー、そして愛を養分にしてのびのびと育つ力」を授けてくれた神に感謝すると続けている。

「ジャネットはスターとして息を吹き返しました。彼女は決して諦めない」とカシャンは話す。40年のキャリアで、彼女は72個のトロフィーを獲得し、2018年にはビルボード・ミュージック・アワードでアイコン賞を受賞した初の黒人女性となった。かつて冷遇を受けたスターにとって、この受賞には意趣返しの意味合いもあった。

「ついに女性たちにとって、自分たちはもはやコントロールされたり、利用されたり、暴力を振るわれる対象ではないと主張する時が来ました」。全業績を称えて贈られるアイコン賞のトロフィーを手に、彼女はそう宣言した。

「彼女はたったひとりで、アメリカ人の人生に第2幕はないというスコット・フィッツジェラルドの言葉が嘘であることを証明して見せました。マライア・キャリーやアリシア・キーズを除いたら、こうしたタイプの女性アーティストはほとんどいない」とカシャンは言う。

「私がすることを見なさい/私の行き先を見なさい/偉大なる永遠を目指して」と、2015年にリリースされた「ザ・グレイト・フォーエヴァー」のなかで彼女は歌っていた。常により高いところを目指し、音楽の歴史にその名を刻む。それが彼女の運命なのだ。

text: Stéphanie O’Brien (madame.lefigaro.fr)

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