何に対しても、自分の意見を押し付けてくる人の正体は?
Culture 2022.07.24
自分が知っている話題でも、まったく知らない話題でも、必ず何か意見を言いたがる人たちがいる。どうして何にでも意見したがるのだろう? この振る舞いのもとは? イライラさせられるこんなタイプの人たちは、日本以外にもいるようだ。彼らの特徴を知るための手がかりを、フランスのマダム・フィガロが専門家に意見を聞いた。
魅力的だがイライラさせられる。いつでもどんな話題でも意見する人たちとは?
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始まりはいつも同じ。「私が思うに……」あるいは「私の意見では、あなたがすべきなのは……」。こんな言葉で、上段に意見を述べる。ほとんどの場合、誰も頼んでいないのに。
彼らはどんな話題についても意見を持っている。文字通り何に対しても。小学生の教育レベル向上のために取るべき対策から、不動産投資するメリット、はたまた人が購入を検討しているソファの色まで。
大抵の場合、彼らは事情をわきまえてはいない。にもかかわらず、断定口調で、自信満々。そんなところが魅力的で……ちょっとうるさい、このタイプの人たちのチャームポイントだと言えば言える。
では、彼らは一体どんな人たちなのか? なぜ彼らは知ったかぶりをするのか? 自信たっぷりで、いつもどんな話題にも何らかの考えを持っている、そんな彼らの正体とは?
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子どもの頃に知識をほめそやされた?
彼らがどんなタイプの人かを理解するために、定番通り、まずはその幼少期を振り返ってみよう。心理学者のサミュエル・ドック(1)は、何でも知っている彼らの基礎がどのように形成されたかを突き止めるために、ふたつの仮説を提示する。
まず彼は「子どもの知識や、子どもが何かちょっと言うたびに親がほめた場合、子どもは大人になって全能感を持つ」と説明する。「やがて自分を決して疑わない自信を身につけ、親がしてくれたように、自分の知識は敬意と賞賛をもって受け入れられると考えるようになります」
次に考えられるのは、逆に親が子どもを軽んじ、子どもの知識の形成を阻害した場合だ。その結果は? 一度入った亀裂はいつか塞がなければならない。成人し、自分の意見に耳を傾けてくれる人に対して、彼らは「自信を維持するためのナルシシックな試み」を行う、とドックは解説する。つまり、自分自身に疑いの目を向けないために、人に意見を押しつけるというわけだ。
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確信の背後にある傷つきやすさ
こうした振る舞いの裏には、大きな不安も隠れているようだ。ドックによると「何かにつけ意見するのは、他者のまなざしを通して、知識を提示する自分自身の能力を発見するためです。また、そうすることで、自分に理解能力があることを再確認しているのです」。今度、知識をひけらかされた時、イライラしないですむように、次のことを覚えておくといい。あなたのマイホーム購入計画をどう進めるべきかアドバイスするこの友人は、あなたを説得するより、むしろ自分自身を説得しようとしているのだ。
こうした振る舞いは、そもそも私たちがみな不完全な存在だから、と心理学者であるドックは言う。それを補うために、私たちは意味をもたらしてくれる言葉を必要としているのだ。「中には欠落があることを受け入れられない人もいます。なぜなら、それは自分の存在に足りないものがあることを意味しているからです」とドックは続ける。「そのため彼らは穴を塞ぐ。知識をひけらかすのは、自分の完全さを再確認するためです」
生活全般に関する博識を振りかざす彼らだが、その背後には劣等感が潜んでいることもある。これに関連して、『関係とコミュニケーション』(2)の著者で社会心理学者のドミニック・ピカールは、社会的地位をランクアップ中の人について、次のように述べている。「周囲の評価が気になる環境で、自分が周りの人のレベルより低いのではないかと恐れる場合、たとえば、人前で知らないことを隠したり、逆に過剰に知識を披露することがある」
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意見の社会
大目に見るわけではないけれど、彼らを黙らせる有効な手立てがないことは認めざるを得ないようだ。それどころか、絶え間なく意見が求められるいまの世の中で、どうして彼らが自分の意見を言わずにいられるだろう?
先述のドックは、17年の著書『文明の不快』(3)で、ハイパー個人主義について掘り下げていた。彼はいま、私たちは意見の社会、すなわち「ナルシシックな社会」に生きている、と主張する。この社会では、人は自らの知識を通して存在している。「誰もが主観的な体験から知識を築き上げていて、疑いを持たなくなっています」と彼は続ける。「知らないことは不快感を生む。全能の知識を持つ特異な人物を、社会は神聖視します。存在するとは、知る人であるということなのです」
当然のことながら、インターネットやSNSの登場は、以前から存在していたこの現象に拍車をかけた。情報や知識がクリックひとつで手に入るいま、すべての人が情報を得る能力を持っている。「ものごとに精通する人々の能力が問い直されているのは、自分も同じくらい知識を持てると人々が感じているからです」と社会心理学者のピカールはコメントする。「こうした態度は政治家、医師、研究者、さらにはジャーナリストへの信頼感の喪失と密接に関連しています」
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闘わないに限る
これまでの話を踏まえた上でも、いつくかの疑問が残る。我慢の限界を超えたとき、どう対処するべき? 爆発しそうになったら? 自信たっぷりな彼らの話を聞いて、どうしたら混乱したり、意見を変えずにいられるのか? こちらの気持ちなどおかまいなしの相手と、どうやって関係を維持したらいいのか?
意見を聞かされる方にしてみれば、対決すれば胸がスッとする、あるいは少なくとも、たまった緊張が少しはほぐれると思うかもしれない。しかし実際は、闘っても無駄のようだ。「抵抗は大きいでしょう。相手は攻撃されていると感じます」
ドックがすすめるのは、ソフトな方法だ。「相手に対して、あなたは本当にラッキーね、どうしたらいいか、わかっているなんて……でも私には疑いがある、と強調するのです。そうすることで、疑いを持ったところで、何かが傷ついたり損なわれたりはしない、と表現するわけです」
最終手段として、会う頻度を減らす、さらには二度と顔を合わさないようにする、という選択肢もある。それでも彼らは、ためになる話を広め続けることだろう。どこか別の場所で、誰か別の人たちを相手に。
(1)Samuel Dock著『Les chemins de la thérapie』Flammarion出版刊
(2)Dominque Picard, Edmond Marc共著『Relations et communications interpersonnelles』Dunod出版刊
(3)Samuel Dock著『Le Malaise d'une civilisation』
text : Ophélie Ostermann (madame.lefigaro.fr)