映画監督・石川 慶×小説家・平野啓一郎 『ある男』を巡る対話。

Culture 2022.11.18

平野啓一郎原作のベストセラー小説『ある男』が、石川慶監督によって映画化された。ひとりの「男」の存在を通して紐解かれていく人間のアイデンティティ、そして社会という器。「小説」と「映画」の表現の違いや、読まれる・観られるための作り方など、ふたりの創造者が語り合う。

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――映画『ある男』の監督と原作者であるおふたりの出会いや企画の発端からお話しください。

石川 平野さんの小説は以前から拝読していました。この企画をぜひ受けたいと思ったのは、何より小説が抜群におもしろかったからなんです。ミステリーで、ここまでグイグイ引き込まれて読んだのは久しぶりでした。原作ものの映画化が続いていたので、悩みましたが、『ある男』を読んですぐに映画化したい!って感じました。

平野 石川監督に映画化していただき、光栄です。『蜜蜂と遠雷』(2019年)を観て、とても美しい作品でしたし。『ある男』は、ミステリータッチを強調するとか、監督によってはいろいろな仕上がりの映画になると思いますが、作品の文学性を生かした表現にしてほしかったので、石川監督に決まったと聞いてとてもうれしかったんです。映画は監督のもので、原作者がああだこうだと口出しをするとよくない結果になると思っているので、脚本について意見を求められれば答えましたが、基本的にはどんな作品になるのか期待しながら、映画が出来上がるのをお待ちしていました。

石川 デリケートな部分はアドバイスいただきましたが、驚くほど自由にやらせていただきました。

平野 ほかの小説家はどうしているのかわからないですが、2時間くらいの尺の中で、ある一定の世界観を作っていく映画制作の作業は、小説家の発想とはまったく違う。お任せして、自由に作っていただいたほうがいいものになるでしょう。

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石川 映画が完成した後、いろんな監督から、「この小説を映画化したかった」と言われました。すごい競争率だったことを、後から知りました。

平野 本を出すと映画化の話は結構来るんですよね。でも、必ずしも実現するわけじゃない。ぬか喜びしても、結局まとまらない話もいっぱいあります。今回は、プロデューサーをはじめ、映画会社の熱意もあり、実現して本当によかったです。長編小説って映画化するには長い。特に僕の小説は込み入って情報量が多いので、何を削ってどこにフォーカスするかが重要になってくるんですが、脚本を読んだ時、無理矢理まとめた感じではなくて、映画の内的なロジックで構造的にしっかりとした物語になっていたので、さすがと思いました。

石川 脚本の向井(康介)さんと一緒に、映画の“閉じ方”をどうしようかと考えました。妻夫木(聡)さん演じる城戸章良が主人公ですが、普通に撮ると城戸はただの狂言回しになってしまう。なので、構成でどうにかしなければいけないよな、と。そういう理由で話の順番をちょっといじっていたので大丈夫かな……と、戦々恐々としながら、平野さんに会いに行ったのを覚えています。脚本家とも話しましたが、作家にとって原作って命みたいなものだから、預けていただく責任は本当に大きい。でも、今回はすごく幸せなマッチングというか、我々としても気持ちよくやらせてもらえたなと思っています。

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“自分が誰よりもこの原作を愛していると信じ込んで作る”―― 石川 慶

平野 たとえば……初号(完成版の初試写)を観た原作者が、「ここは絶対おかしい」とか言い出して、「どうにかしてくれ」って言ったら、どうにかなるもんなんですか?

石川 よく聞く話ですよね(笑)。“どうにか”はなりませんが、それでも編集をやり直すという話は耳にします。僕の場合は、いまのところはそういった経験はないですけど。

平野 原作者は初号に招待していただきますが、僕が意見を言ったら反映されるような状況なのかどうか、気になったので。今回は素晴らしい出来だったので、何も言うことはありませんでした。村田喜代子さんが『鍋の中』が原作の黒澤明監督の『八月の狂詩曲』に対して公に酷評したこともありますね。

石川 平野さんの小説のように多くの読者がいる原作は、アウェイ感があります(笑)

平野 原作者より読者のほうが厳しいかもしれません。僕も自分が好きな小説が映画化されている時は、一読者として観ると、いろいろ思うことがあります。

 石川 考えすぎると、何をやっていいかわからなくなるので、ひとりの読者の視点というか、自分が誰よりもこの原作を愛していると信じ込んで作るしかないです。

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――『ある男』の脚色で、苦労した点はどんな部分でしょう?

石川 全国公開が決まっていたので、あくまでもエンタメとしての土台を崩さずに、小説で表現されている戸籍問題、差別意識などデリケートな社会問題の部分をどうやって表現するかは気を遣いましたね。

――平野さんは、映画化された作品を観て、いちばん感動されたのはどの部分ですか?

平野 いろいろありますけど、まず窪田(正孝)さんが、状況による演じ分けを分人的に非常にうまくされてました。僕は、城戸がボクシングジムに行って、X(ある男)の昔のボクシング仲間に話を聞く、というところは、書いていてもとても好きな場面だった。回想シーンですけど、ロードワークしている時、だんだんゆっくりになったと思ったら、地面に這いつくばって泣いている、という。自分の中でも思い入れのあるこの場面をとても情感豊かに演じてくれていました。これはネタバレになっちゃいますけど、彼のお父さんが殺人を犯して、というシーンも。その狂気やもの悲しさが、幸福な時とコントラストをなしていて、とても見ごたえがありましたね。

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平野啓一郎 / Keiichiro Hirano
1975年、愛知県生まれ。99年、京都大学在学中に執筆した『日蝕』で芥川賞受賞。映画化作品に『マチネの終わりに』、ドラマ化作品に『空白を満たしなさい』など。その他代表作に『ドーン』『決壊』『本心』など。小説のほか、エッセイ、評論など幅広く執筆。フランス芸術文化勲章シュヴァリエを2014年受賞。

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――想定外のシーンはありましたか?

平野 僕はたいてい変なキャラクターやちょっと悪い人を書くのが好きなんです。柄本明さんが演じた小見浦憲男はモデルがいて、その人をイメージしながら書いたんです。書いている時も、相当アクの強いキャラクターだと思っていましたが、映画では遥かにその上を行っていた(笑)。柄本さんのシーンを見て、その迫力に打たれました。一方で、窪田さん演じる男“X”と安藤サクラさん演じる里枝の幸せな結婚生活は、小説ではあまりページを割いていないんです。が、映画でそこが強調されていたのはとても良かった。

石川 映画のストーリーの背骨は、この家族の幸せにあるのかなと思っていたんです。それが、役者さんたちに演じてもらうことによって肉付けされ、いい形で自然に膨らんでいったのだと思います。

――役者ということでいえば、里枝役には安藤サクラさんしかいないと白羽の矢を立てていたとか。

石川 Xと里枝の関係を描くパートは実は20分くらいしかない。その中でいかに彼らがちゃんと愛し合って幸せな家族であったのか、ということを観客が信じられないと、残りの1時間半に観客がついてこれなくなってしまう。そこに立っているだけで説得力がある人、ということで安藤さんが真っ先に浮かびました。

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平野 主役の妻夫木さんに次いで、安藤さんの出演を聞きました。『万引き家族』(18年)はすごく好きな映画だったので、うれしかったです。完成した作品を観て、非常に説得力のある演技で感動しました。田舎に生まれて都会に行って、また戻ってきた人のイメージで、小説を書いていた時の人物像とは、必ずしも一緒ではないんですけど、でも違和感がないというか。安藤さんは非常に華があって、人を引き付ける力があるけど、普通の人を演じられるところが、女優として素晴らしいですね。普通だけれど、地味じゃないというか。

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石川 小説を書く時、具体的に登場人物の顔をイメージなさっているんですか?

“僕は、「脳内映画」みたいにかなり具体的に場面を思い描いて書いている”―― 平野啓一郎

平野 結構、ひとりひとり具体的にイメージします。主役クラスはモデルに近い人がいるとか、そういうことのほうが多いです。たとえば、脇役の夫婦だったらインターネットから拾ってきたり。名も知らない男の人と、全然関係ない女性の顔の写真を並べて夫婦として書斎の壁に貼っておいたりするんです。何日かすると、だんだんそのふたりが本当に夫婦に見えてくるんです。

石川 イメージキャストみたいな。

平野 小説って没入感が必要で、記号だけで成り立っているものなので、作者のほうがぼやっとした感じで書いていると、読んでいるほうも文字の塊にしか見えない。どこまで具体的に描写するかは別として、作者がかなりクリアに、実際にその人と会ってしゃべっているような感じで書いていくと、読者にも伝わる。だから僕は、“脳内映画”みたいにかなり具体的に場面を思い描きながら書いています。

石川 今回、コロナ禍もあって結局、宮崎のシーンは宮崎で撮影できていないんですが、企画が進んだ段階でシナハン(脚本のためのリサーチ)で宮崎に行ったんです。そうしたら、立地や距離感もそのまま! 小説に書かれているとおりにバス停とかあって驚きました。

平野 そうですね。実際に取材して、見たり聞いたりしたものをメモにとり、それが描写の基になっていますから。あのあたりは観光地じゃないから、平日の日中に僕のように地元の人にまったく見えない人がカメラを持ってウロウロしていると、すごく怪しまれる。いつ通報されるかって、いつもドキドキしながら取材しています(笑)

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――里枝の働いている文房具店も実際にモデルがあるんですね?

平野 あの町には、文房具店が2軒くらいあったので、そのうちの1軒に行って、中でこっそり写真を撮ったりしていました。何も買わず出てくるのも怪しいので、ボールペンを買いましたけど。“X”が働く林業の会社も。案内してくれる林業の会社のガタイがいい社長とかは、実際に取材の時に案内してくれた人そのままです。すごく良い人でした。

石川 平野作品の登場人物や場所などにリアリティがある理由に納得がいきました。個人的に僕が40代のひとりの男性として思ったのは、妻夫木さん演じる弁護士の城戸が、バーで他人の人生を語ってしまう。あのふっとした感じに世代的にすごく共感できた。いろんなものを背負いながら肩の荷を下ろしたくなる感覚は、脚本家の向井さんともよく話しました。

平野 僕は取材旅行に行くと、地元の人としゃべりたいからたいていひとりでバーとか行くんです。そういう時、小説家とか言ってしまうと面倒くさいから、適当に嘘つくんですよね。大嘘はつけないから、「出版社で編集者やってます」とか微妙な嘘をつく。そうすると「作家の人とか原稿遅くて大変だったりするんじゃないですか」「そうなんですよ!」とか(笑)、話が弾んで、どこか気軽な楽しさがある。商店街を歩いていても、知っている人が誰もいないという妙な解放感もある。いまの人生からすごく逃れたいと思っているわけじゃないんですけど、でもそういう属性みたいなものから解放されてみたいという欲望のようなものはある。『ある男』では、深刻な理由で自分の過去から逃れたいと思っている男の話と、40歳くらいになってそういうことをふと思うような感覚の両方描ければいいなと思っていたので、映画でそのあたりが上手く描かれていたのがうれしかったですね。

石川 もちろん取材もされるとは思いますが、作家はすべてゼロから立ち上げる。映画は手伝ってくれるいろんな人がいて成り立ちますけど、全部筆一本で世界観を創るというのは尊敬しかない。

平野 僕はむしろ映画のエンドロールを見ると気が遠くなるんですよ。こんなにたくさんの人が関わってひとつの作品を作るというのはすごい、と。小説じゃあり得ないですから、僕は結構書き直すんですよね。映画はそれができないじゃないですか。

石川 どれくらい直すんですか? 

平野 締め切りまでには、ある程度納得がいくように書き上げ、編集者に渡します。ゲラになるまで時間があって、もう一度、頭の中で整理する余裕があるので、「ああすればよかったな」とか思い始めて、ゲラで直す。映画は一回で決めなきゃいけないでしょう?

石川 僕の場合は、むしろ編集をすごく粘って粘ってやるほうなので、一回で決める感じじゃないかもしれない。なので、編集段階でもう一回脚本を書いているような感覚がある。

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40代の男性として、登場人物へ共感するか?

――石川監督は城戸に“40代のひとりの男として共感した”とおっしゃいました。40代という中堅世代のクリエイターとして思うことはありますか?

石川 僕は、自分はまだ新人監督だと思ってやっているんです。一方で、下の世代がどんどん出てきているので、責任感みたいなものも感じ始めています。特に、僕は大手の映画会社で俗にいう商業映画というものをやることが多いのですが、興業収入だけを考えて作るわけにもいかないな、という思いはありますね。

平野 小説は、3千人の読者に向けて書くか、1万人か、あるいは5万人に向けて書くのかによって、全然書き方が違うんですよね。だから自分が5千人に向けて書くのでいいと思えばそれなりの書き方があるし、5万人に向けて書こうと思ったら、それなりの書き方は必ずある。もちろん、幸運にも1作でハネて何万部売れるという場合もあるとは思いますが、常に自分の本が、ある程度の人たちに読まれる書き方はやはりある。自分が書くことに対し、非常に重要なことを書いているんだという確信を持っている作家は、それがより多くの人に届いてほしい、届くべきだ、というふうに考えるものだと僕は思うんです。だから、自分の書いたものは、読んでくれる人だけに読んでもらえばいいという考えは、心情的にはそうなんだけど、本当はダメなんじゃないかと思います。

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石川 慶 / Kei Ishikawa
1977年、愛知県生まれ。ポーランド国立映画大学で学ぶ。『愚行録』(2017年)がヴェネツィア国際映画祭オリゾンティ・コンペティション部門への選出をはじめ、数々の映画祭で受賞。恩田陸原作『蜜蜂と遠雷』(19年)では日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞。本作『ある男』もヴェネツィア国際映画祭にエントリーした。

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石川 具体的に多くの方に読まれるポイントというのは?

平野 話を簡単にするとか漢字を少なくするとか、小手先のことをやってもダメですね。僕の場合は認知科学とか、人間の日常生活の中でどういうふうに世界を認知しているかという勉強から始めたんです。たとえばこれ(卓上のペットボトルを指して)を見て、ペットボトルだって思うじゃないですか。これって感覚器官が認識して、概念とか経験を通じてペットボトルだというふうに思うわけでしょ? 「これはペットボトルです」っていう文法構造って、やっぱりカントみたいに、これを認識してペットボトルだという概念と当てはめるということと、語順的にはピッタリ合致している。僕たちはこの世界をそういうふうに、認識と言語が連動しながら把握していっている。その世界を認知する語順に沿った形に文章がなっていると、小説を読んだ時、リアリティを感じやすいんです。僕たちが日常的にものを見ている眼差しや言語化する経験と、書いている文章がズレていると、簡単な文章を書いてもよくわからない。それって結局人間とは何か、みたいなところに繋がっている話ですね。たとえばこの部屋を描写する時も、あっち描写してこっち描写してそっち描写して、ってやると混乱するけれど、この部屋にいる人が、眼差しをこうやる時の流れに沿って文章がきちんと配置されているとスッと読めるとか。人間の認知というのがどういう仕組みになっているのかを突き詰めていくことが、より多くの人に小説を読まれることに繋がっていくと思います。

石川 なるほど。

平野 19世紀の小説って食事の時の周辺描写とか、結構多いんです。それは昔の人の多くが、待ち合わせ場所に行って、することがないから周りをよく見ていたからだと思う。壁紙の柄や色とか、レストランの向こうで食事する人がいるとか。当時の読者はそれを読むと臨場感が湧くだろうけど、いまの時代、レストランに早く着いても、みんなスマホいじってますよね? 空間の観察とかしないでしょ? 見ないというほうが日常なのに、小説の中で壁紙がどうっていう描写が続いたらむしろリアリティを持てない。だからいまは、あまりこってり状況描写を小説の中でしないほうに向かっている。ケータイ見ているくらいのほうが臨場感あるけど、チラッと聞こえてくる音楽や、待ち合わせ相手が着いた時に見た景色についてチラッと挿入すると、リアリティが湧く、とか。そういうことを細かくやっていくと、より多くの人が楽しめる小説になる可能性はあると思います。

石川 話を伺いながら、映画の制作と共通しているな、と。シーンの状況描写をどれくらいやるのかは映画でも重要ですから、とても参考になりました。

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『ある男』
弁護士の城戸は、かつての顧客の里枝から、彼女の亡夫・大祐の身元調査という奇妙な依頼を受ける。法要で訪れた実兄が、林業の事故で亡くなった弟・大祐の写真を見て、顔がまったく違う、別人だ、と告げたのだ。果たして里枝がともに生きた「大祐」は誰だったのか? 「ある男」を追う城戸にも複雑な思いが芽生える……。原作は第70回読売文学賞を受賞。
●監督・編集/石川 慶 ●原作/平野啓一郎 ●出演/妻夫木 聡、安藤サクラ、窪田正孝 ● 2022年、日本映画 ● 121分 ●配給/松竹 ●11月18日より全国にて公開 ●原作『ある男』¥902 文春文庫
https://movies.shochiku.co.jp/a-man/

*「フィガロジャポン」2023年1月号より抜粋

interview & text: Atsuko Tatsuta photography: Midori Yamashita

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