記憶でも愛でもない、家族はどこにある。
Culture 2023.01.09
『くるまの娘』
かんこの母は、脳梗塞の後遺症である麻痺や記憶障害と共に日々を過ごす。一緒に暮らす高校生のかんこは、それをつらく感じる。「家族は、記憶を共有する」という、世間の中に漂う思い込み。そこから離れ、別の記憶を抱きながら家族の形を保つことは、難しい。
ただ、読者である私自身、記憶が病気などによって消えてはいないはずなのに、記憶のずれのようなものが、自分の家族の間にもやはりあったと思い当たる。私が重要なシーンとして捉えていた思い出を家族が完全に忘れていたり、確かに聞いたセリフを、「そんなことは絶対に言ってはいない」と過去を否定されたりしたことがある。多くの人が、家族間でこのような齟齬を味わった経験を持っているだろう。
それから、かんこの父には、暴力性がある。もちろん、かんこは父からの暴力に苦しみを覚える。最初、父は変わったキャラクターに見えた。子どもにこんなことを言ったりやったりするなんて普通ではない、と。けれども、本当にそうだろうか? 「普通の家族に、暴力性はない」というのは、世間にある表向きの家族の形の話だ。
実際には、私自身、親や子どもに暴力性のある思いを抱いたことがある。自分自身にも暴力性がある。暴力性のない家族関係なんてきっとない。暴力性を内在しながらも、子どもに決して暴力を振るわず、健全に育つことを願う。それが親の務めだろう。
かんこは、母や父やきょうだいたちと、車に乗って祖母の葬儀に向かう。ロードムービーのように、移動に従って家族の形が浮き上がってくる。ただ、「いわゆるロードムービー」とちょっと違うのは、外へ向かってではなく、車の中に向かって、物語の矢が放たれていることだ。
家族はどこにある。車の中か、外か。愛のようなわかりやすい言葉では語れない、曖昧な家族の形を、宇佐見りんは見せてくれる。
1978年生まれ。2004年『人のセックスを笑うな』(河出書房新社刊)で第41回文藝賞を受賞し、デビュー。代表作に『美しい距離』(文藝春秋刊)、『リボンの男』(河出書房新社刊)など。
*「フィガロジャポン」2022年8月号より抜粋
text : Nao-cola Yamazaki