一時代を画す雑誌で、編集者が見た景色とは?
Culture 2023.06.03
『わたしと『花椿』』
林央子さんが私の数年後に「花椿」編集部に参加した1980年代末は「時代の変化の始まり」でした。当時はバブルの真っ只中でしたが、私自身にほぼその実感はなく、編集という仕事が楽しくて、夢中で何か新しいことに取り組んできたような気がします。というのも、林さんも本書で語っているように「新しさ」が「花椿」のキーワードで、当時の編集長の平山景子さん、アートディレクターの仲條正義さんのもと、資生堂の創業時からある「先進性」を重視した「際立って個性的」なビジュアルと視点を持つ雑誌作りが目標だったからです。
私が80年代から受けたいちばんの恩恵といえば、パリコレに新人編集者として出張できたことだと思います。90年代には林さんもパリコレ取材が増え、この本では彼女の視点から、パリが象徴する旧来のファッション界に対する違和感と、それに反比例するようにアメリカ発の新しい“サブカルチャー”の動きに傾倒していく様が語られています。当時の編集部で林さんは自身の提案をすぐに実現できなかった悔しさを述べていますが、同じ編集部にいながら見えていた風景はかなり違っていたとも気づきました。私はといえば、林さんと同じく「権威的なファッション界の排他性」を感じながらも、同時にそのモードが成り立つ文化や感覚をもっと知ってみたいという欲求が湧き始め、90年代末創刊の「ヴォーグ ジャパン」に飛び込んだのもその延長線上でした。林さんは90年代に出会ったクリエイターたちとの関係を長く築き、今も批評的な視点からファッションに関わる活動を貫いています。率直にあっぱれな信念だと思います。
では、林さんとは真逆に思える道を進んだ私が“フロントロウ”から見たものは何だったのか……。バブル崩壊後、グローバリズムとデジタル化によってメインもサブも曖昧化してしまったような現在、その問いは私自身のこれからのテーマでもあります。そんな私と林さんが共に貴重な経験を積んだ「花椿」という媒体の奥深さに、今あらためて感じ入ります。
資生堂「花椿」より編集者としてのキャリアをスタート。数誌のファッション誌編集部を経て、2001年に「ヴォーグ ジャパン」へ。08年、同誌編集長に就任。22年に独立。
*「フィガロジャポン」2023年6月号より抜粋