「大富豪のプレイボーイ」でダイアナ妃の最後の恋人、ドディ・アルファイドとは?

Culture 2023.12.09

ザ・クラウン」シーズン6では、大富豪モハメド・アルファイドの息子が"ハートのプリンセス"ことダイアナ妃と恋に落ちる。しかしながらその恋は悲劇的な結末を迎えた。

「彼は王子様じゃない、王子様の格好をした、ただのカエル」と弁護士のグロリア・オルレッドは言い放った。1997年8月14日、記者たちが見守り、カメラのフラッシュが光るなかで、女性の権利保護に熱心なことで有名なアメリカ人弁護士は、依頼人であるモデルのケリー・フィッシャーの代理人として記者会見をおこなった。ケリー・フィッシャー本人は黒いワンピースに身を包み、じっと押し黙っていた。時折、大きなサファイアとダイヤモンドがついた婚約指輪をはめた手で顔を隠す。「誰だって、私の娘がされたような仕打ちを受けるべきではありません」とケリーの母親、ジュディス・ダナウェイが言うとケリー・フィッシャーはわっと泣きだした。この瞬間、ケリー・フィッシャーの頭は、なんであんな男と出会ってしまったのだろうという思いでいっぱいだったに違いない。その男の名はドディ・アルファイド。

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キス写真

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母ジュディス・ダナウェイとおこなった記者会見で泣き崩れるケリー・フィッシャー。(1997年8月14日)photography: Getty Images

2人が初めて会ったのは1996年7月のパリだった。ドディ・アルファイドは、モハメド・アルファイド、すなわちエジプトの大富豪にして実業家、イギリスの代表的デパートのハロッズやパリのリッツ・ホテルのオーナーの息子で、ハリウッドの映画プロデューサーとして活躍していた。ドディはモデルのケリーとたちまち恋に落ち、それまでたくさんの女性と浮き名を流してきた態度を改め、身を固める決心をした。彼と噂された女性の中にはジュリア・ロバーツ、ティナ・シナトラ、ウィノナ・ライダーらがいる。ケリー・フィッシャーとの結婚式は1997年8月9日に決まった。式の1ヶ月前、婚約者とパリを訪れていたドディに運命を変える1本の電話がかかってきた。それは父親のモハメドからで、南仏に来て自分の新しい豪華ヨット、ジョニカル号に滞在しないかという誘いの電話だった。

船上で、42歳のドディ・アルファイドは36歳のダイアナ妃と再会した。決して偶然の巡り合わせではない。モハメドとドディは以前、モハメドが経営するハロッズデパートが1986年に主催したポロ競技試合でダイアナ妃と出会っていた。それから11年後、モハメドはダイアナ妃が義理の娘になることを願った。ドディとダイアナ妃の再会の様子は11月16日よりNetflixで配信される「ザ・クラウン」最終シーズンのパート1で描かれる。

「エピゾード1でモハメド・アルファイド(サリーム・ダウ)は息子のドディ(ハリド・アブダラ)に、お礼を言われるかと思ったと声をかける。「なぜ?」と息子が返すと、モハメドは「お盆に乗せて渡してやっただろう」と答える。そして父親の期待通り、ドディはハートのプリンセスに夢中になる。こうして2隻目のヨットに孤立させられた婚約者のケリー・フィッシャーは「サンデー・ミラー」紙面で2人のキス写真を目にすることになり、怒り狂う。ケリーはドディを婚前契約書違反で訴えた。モデルのキャリアを諦める代わりに1日あたり2,000ポンドを支払う約束が反故にされたという理由からだ。

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危険なオーラ

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映画『炎のランナー』公開記念パーティでのドディ・アルファイドと女優キャシー・リー・クロスビー。(ビバリーヒルズ、1982年4月8日)photography: Getty Images

ドディ・アルファイドは若い頃から危険なオーラの持ち主だった。1979年に父モハメドが設立した制作会社、アライドスターズのディレクターとして、アカデミー賞4部門を受賞した『炎のランナー』(1981年)や、アカデミー賞5部門にノミネートされた『フック』(1991年)などの長編作をプロデュースしてきた。20代にして早くもハリウッドのルールを完璧にマスターし、それは私生活にも及んだ。こうしてドディは多くのセレブ同様、ハメを外す人物という評判を築いた。

タブロイド紙から"大富豪のプレイボーイ"と呼ばれたドディ・アルファイドは、別荘を借りてジャック・ニコルソンやロバート・ダウニー・Jr.とパーティーを開くなど、その豪遊ぶりで知られていた。さらには多くのお相手との恋愛遍歴、コカインを含む薬物使用の噂、5台のフェラーリを所有するスポーツカーマニアとしても知られている。

彼のことを「愛すべき人物」、「ハンサム」、「頭がいい」と語る者がいる一方で、移り気な人物と評する者もいる。実際、空手形、弁護士費用や家賃の不払い、修理工や映写技師らへの報酬未払い、権利を持たない映画の権利売買など、悪評も多く、結果として10本の訴訟を抱えることになった。こうした行状は父親のモハメド・アルファイドの逆鱗に触れ、一月10万ドルのポケットマネーを一時期打ち切られそうになったこともあった。ドディはいつまでも父親の庇護下にあったからだ。

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困難な1年

モハメド・アルファイドの友人のひとり、ジョニー・ゴールドは2011年に「ヴァニティフェアUS版」の取材に応じ、ドディは矛盾した気持ちを抱えていたと語った。一方では「父親によく思われたい」気持ちがあり、その一方で依存して生きていることの「フラストレーション」を感じていたそうだ。1955年4月15日にアレクサンドリアで生まれたドディ・アルファイドは、幼い頃から父親から言われるがままに生きてきた。モハメド・アルファイドは大富豪になる前の家具輸入会社の営業部長時代、サウジアラビア国王の専属医の娘サミラ・カショギと結婚した。サミラの兄弟には有力な武器商人のアドナン・カショギがいる。夫妻は1959年に離婚した。

だからドディ・アルファイドは、甘やかされながらも孤独のうちに育った。父親は仕事で不在がちで、もっぱら使用人に育てられた。長い休みになると少年はコート・ダジュールやパリ、カイロに母方のカショギ一族が所有する邸宅と、アレクサンドリアにある父親の家を行き来して過ごした。13歳になると、モハメド・アルファイドは息子をスイスの寄宿学校ル・ロゼに送った。「心底ハード」な1年を過ごした後、ドディは退学した。2年後、父親からロンドンの高級地区メイフェアのアパートと、ロールスロイス、運転手、ボディーガードを与えられた。

その後4年間、ドディがどのように暮らしたのかはわかっていない。19歳の息子の怠惰な生活を見てモハメド・アルファイドは、ウィンストン・チャーチルも学んだサンドハースト王立陸軍士官学校に息子を入学させた。一時はドバイの空軍入隊も考えたドディだったが、最終的にはロンドンのUAE大使館員となる。同時に父の意向を汲んでハロッズのマーケティング部門で年に3ヶ月働いた。1979年に父親が映画制作会社を設立、ドディはすぐにそこで働くようになる。

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もっといい人

若いドディの私生活はかなり奔放だった。数々の恋愛に加え、結婚の試みはすべて失敗に終わった。1983年、裕福なイラン人女性リンダ・アッターザエドと極秘に婚約するもすぐに破棄している。ブルック・シールズと一時期付き合ったのち、ドディは1986年にモデルのスザンヌ・グレガードと結婚する。しかしながら8ヶ月後には別れた。ドディの女友だちのひとりが「ヴァニティ・フェア」誌に語ったところによると、「彼はしょっちゅう、もっといい人はいないかキョロキョロしていて、つきあう相手をぞんざいに扱った」ことが原因のようだ。ドディが憧れの存在として惜しみなく贈り物をしたダイアナ妃との恋愛は、そんな彼を変えることができただろうか。今となっては誰にもわからない。

1997年の夏、ドディとダイアナ妃は数週間にわたり、晴れやかな日々を楽しんだ。モナコではモーターボート遊び、サントロペの港では散歩するふたりの姿がキャッチされ、その後サルデーニャ島にも立ち寄った。このヨット旅行の際に撮られた最後の写真でダイアナ妃は飛び込み板の端に座り、物思いにふけっているようだ。ロンドンに戻る前、ドディ・アルファイドとダイアナ妃はパリに数日立ち寄った。そこで、アルベルト・レポシの指輪"Dis-moi oui (ディ・モワ・ウィ=イエスと言って)"を受け取ることになっていたのだ。

また、ふたりの住まいになるかもしれない家、パリ市に隣接する高級住宅地、ヌイイ=シュル=セーヌの邸宅ヴィラ・ウィンザーも見学する予定だった。しかしその時は永遠に訪れない。1997年8月31日、ふたりはパパラッチとの追跡劇の果てにアルマ橋の下で悲劇的な交通事故死を遂げた。この死からモハメド・アルファイドが立ち直ることはなく、ロマンスを恥じたイギリス王室が息子を暗殺したと確信した。彼はまた、ダイアナ妃が妊娠しており、ふたりが婚約の準備をしていることも確信していた。2008年の公式調査と検死によって否定されようとも。モハメドは2023年8月30日に亡くなった。生前、モハメドは年間300日、ドディの墓を訪れていた。亡くなるまで息子を見守り続けた証だ。

text: Chloé Friedmann (madame.lefigaro.fr)

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