文筆家・村上香住子が胸をときめかせた言葉を綴る連載「La boîte à bijoux pour les mots précieuxーことばの宝石箱」。今回はファッション界に革命をもたらした「モードの帝王」イヴ・サン=ローランのことばに迫る。
1963年春、ピエール・ベルジェやメゾン・サンローランのスタッフたちと初来日したイヴ・サン=ローランは、帝国ホテルでサンローランコレクションのデフィレを開催している。その際サン=ローランとピエール・ベルジェだけがホテル・オークラの旧館に投宿して、残りのスタッフ全員は他のホテルに行かせた、とメゾンの人からきいたことがある。孤高を好むサンローランは、仕事仲間からは離れて、ピエールと二人で過ごしたかったのだろうか。まるで王国のようなメゾンだったのだろう。
それほど誇り高いサン=ローランだったが、それでも本物の美や真実の信念の前では、謙虚にそれを認めていた。たとえばシャネルには、深い敬意を払っていたようだ。「ココ・シャネルと僕がこの世を去ったら、モード界にオートクチュールはもう存在しなくなるだろう」と語っている。繊細な印象で、大袈裟に自己主張をしないと思われているサン=ローランだが、オートクチュールに関しては、他の一切のデザイナーの存在は無視して、堂々と公に自分が認めるデザイナーは世界でただひとり、ココ・シャネルだけだ、といっている。それはシャネルだけが、並外れた勇気を持って女性解放への扉を開いた、と信じて疑わなかったからだと思う。
---fadeinpager---
19世紀半ばにフェミニズムの元祖といわれた女流作家ジョルジュ・サンドは、男装の麗人として知られていたが、一般的にはまだ男装をする女性はいなかった。それが1920年代に入ると、女性の社会進出という時代の流れもあって、活動しやすいカジュアルなスタイルが求められるようになり、その頃マニッシュなコレクションを披露したココ・シャネルは、メンズの生地だったツイードをレディースに使ったり、パンツ・スタイルのギャルソンヌ・スタイルなどで、女性から支持されていた。
サン=ローランは、登場して間もなくから、古い既成概念を覆すような、シャネルの常識破りでエキセントリックな女性像に心惹かれたのかもしれない。または当時からこれからの時代はフェミニズムに向かっていく、と予知していたのだろうか。永遠の傑作、といわれるサン=ローランの、女性のためのタキシードをみると、彼がどれほど心底から女性たちを賛美していたかが伝わってくる。あのタキシードは、未来の女性たちのために、すべての世界の女性たちへの彼からの神聖な贈り物にみえるし、フェミニズムに対する彼の思いが明確に表現されている。
高度の美意識を極め、女性を美化するあまり、自ら女性になってしまいたいという抑え難い願望に取り憑かれた彼にとって、ある意味女性はライバルだったのではないだろうか。だからこそ男性に惹かれていったのかもしれない。
Yves Saint-Laurent
1936年、フランス領アルジェリア生まれ。18歳で親元を離れパリ17区へ、デザインコンクールのドレス部門で最優秀賞を受賞しクリスチャン・ディオールのアシスタントに。57年、ディオールの死去により同社の主任デザイナーに就任、60年まで5つのコレクションを発表。61年からは自身のメゾン「イヴ・サンローラン」を設立。2002年にパリのオートクチュールコレクションを最後に引退し、その後はモロッコの自宅で過ごしていた。08年、癌のため71歳で逝去。
フランス文学翻訳の後、1985年に渡仏。20年間、本誌をはじめとする女性誌の特派員として取材、執筆。フランスで『Et puis après』(Actes Sud刊)が、日本では『パリ・スタイル 大人のパリガイド』(リトルモア刊)が好評発売中。食べ歩きがなによりも好き!
Instagram: @kasumiko.murakami 、Twitter:@kasumiko_muraka