フィガロが選ぶ、今月の5冊 ナイジェリア系作家が紡ぐ、珠玉の長編。
Culture 2017.11.12
ゆっくりと歩き続ける、散歩という名の哲学。
『オープン・シティ』
テジュ・コール著 小磯洋光訳 新潮社刊 ¥2,052
黄昏時のニューヨークを毎日ゆっくりと歩き続ける。精神科医でもある主人公にとって、散歩はセラピーとなっている。自分を癒やすための? いや、彼は散歩することを通じて、傷ついた世界まで癒やそうとしているのだ。
彼にはずっと居場所がなかった。ナイジェリア人の父とドイツ人の母を持ち肌の白い彼は、母国では外国人扱いだった。だがアメリカに来れば彼は黒人でしかない。しかもアフリカ系アメリカ人とも馴染めない。白と黒、アメリカとアフリカが彼の中でぶつかり軋む。その苦しみから彼の深い思索がやってくる。
旅行で訪れたベルギーで彼はファルークという青年と出逢う。モロッコ出身の彼は、アフリカと西洋の境界を越えようとして大学で拒絶され、心に深い傷を負っていた。彼との対話はこの作品の白眉だ。アメリカの黒人はラップ好き、ヨーロッパのイスラム教徒は宗教とテロにしか興味がない、なんて人々は思い込んでいる。けれども一人ひとりを見てみれば、他と変わらぬ人間でしかない。なぜそうした当り前のことがわからなくなっているのか。
それは我々がいつも急ぎすぎるからだ。じっくりと時間をかけて相手を見ること。その技法を主人公は散歩で掴んだ。医師としての彼の信条がいい。「結論を急がず、注意深く、できる限り親切に接する」。これはそのまま、 本書を貫く技法でもある。
バルトやベンヤミン、マーラーなど、哲学や芸術への言及が美しい文章で綴られる一方、黒人への人種差別やユダヤ人の大量虐殺などについての考察が続く。こうした筆者の達成は目が眩むほど新しい。
けれどもそれがきちんと人間の深いところに到達しているのは、彼が一歩ずつ着実に思考を重ねてきたからだろう。「人は共存しながらも自分らしさを保てるか」というファルークの問いが読者に突き刺さってくる。
早稲田大学文学学術院教授。訳書にジュノ・ディアス著『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(共訳、新潮社刊)など。新刊『今を生きる人のための世界文学案内』(立東舎刊)を10/13に上梓する。
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*「フィガロジャポン」2017年11月号より抜粋