フランス・ギャルとミッシェル・ベルジェ、伝説のカップル。

Culture 2018.01.10

フランス・ギャルが、"人生最大の愛"だったミッシェル・ベルジェと、早世してしまった娘ポーリーヌのもとに旅立った。

180110-france-gall-01.jpg

フランス・ギャルとミッシェル・ベルジェ、街でも、舞台でも、伝説のデュオだった。

1963年のデビュー以来、その才能とシャープな声、そしてミッシェル・ベルジェとの情熱的な愛でも知られた歌手、フランス・ギャル。
フランス・ギャルとベルジェ、このふたりの愛は、「Si maman si」「レジスト」「二人だけのミュージック」「彼は立ったままピアノを弾いていた」そして「エラ・エ・ラ」といった大ヒット曲によって、私たちの心を震わせた。人生最大の愛だったミッシェル・ベルジェと、早世してしまった娘ポーリーヌのもとに旅立った。

フランス・ギャルが、2018年1月7日、日曜日に亡くなった。

癌を経て、70歳で亡くなった彼女の訃報は、広報担当者によってAFPに伝えられた。フランス・ギャルは、「ココに捧ぐ」「エラ・エ・ラ」「彼は立ったままピアノを弾いていた」をはじめ、歌手であり作曲家でありプロデューサーのミッシェル・ベルジェの曲をたくさん歌った。
忘れられぬ歌声。
健康上の問題に加え、心に深い傷をおっていた彼女は、ショービジネスの喧騒から、久しく距離を置いていた。

「静寂が必要なの」
16歳でシンガーとして成功したフランス・ギャルは、10年ほど前から、世間から引っ込み、メディアから離れて暮らしていた。ブルック・デイヴィットと共作した、ミッシェル・ベルジェの音楽にのせたミュージカル「レジスト」公開のおり、2014年12月の朝のラジオで司会のイヴ・カルヴィのインタビューに答えた彼女は、 こう語っている。
「喝采も、舞台のスポットライトがなくても幸せ。私に必要なのは静寂と落ち着き、孤独です。いまのところ、この仕事に戻るつもりはありません」。
彼女はほとんどメディアの前に出てくることはなかった。

フランス・ギャル、その告白。

その10年前、2004年10月のある日、彼女は「MadameFigaro」誌のインタビューに答えている。その中で自分の歩みや、人生の伴侶であったミッシェル・ベルジェとの比類なき愛について、そして嚢胞性線維症の末に18歳で世を去った長女ポーリーヌについて語っている。

「1997年以来、ただ心の静寂だけを求めていました」

「自宅は最高の場所です。私はあまり移動しないし、カメラマンに出くわしそうな場所には行かないことにしています。あまり人には会いませんが、孤独ではありません。1997年(編集部注:娘のポーリーヌが亡くなった年)以来、ただ心の静寂だけを求めていました」。

 全曲集(インタビューの行われた直後の2004年11月2日にワーナー・ミュージックから出た13枚組CD、フランス・ギャル全曲集)のために、フランス・ギャルは私たち皆がしたように、自分で自分の歌を聞き直し、その歌に支えられた。「この全曲集の中に、いまの自分をたくさん注ぎこみました。どんなに注いでも充分ではないけれど。この全曲集に文章を書いたのは私だけ。そんなことはいままでなかったと思います。私はものごとを大雑把にやり飛ばすタイプではないのです。20年もの間、インタビューのたびに何度も繰り返したように、『キャリア』 ほど恐ろしい言葉はありません。それは心身ともに老いた人の言葉。いま、私自身がその言葉の通りになっています。だから“人生”と言う方が好きだわ」。

フランス・ギャルの人生

1947年 パリにてイザベル・ギャル、誕生。その後名前をフランスとする
1965年 「恋するシャンソン人形」でユーロヴィジョン、グランプリを受賞
1974年 ミッシェル・ベルジェと出会う
1978年 娘、ポーリーヌ誕生
1980年 「彼は立ったままピアノを弾いていた」を発表
1981年 息子、ラファエル誕生
1992年 ミッシェル・ベルジェ死去
1993年 胸の悪性腫瘍を手術
1997年 嚢胞性線維症のため、娘が死去(19歳)
2006年 「Coeur de Femmes」(女性たちの心)アソシエーションのマレーヌ(名付け親)に
2013年 レジヨン・ドヌール、シュヴァリエ賞受勲
2015年 ブルック・デイヴィットと共作のミュージカル、「レジスト」公開

 

1964年、「パリ・マッチ」誌が初めて彼女のページを制作。フランス・ギャルは17歳、サシャ・ディステルの前座として舞台に登場したばかり。ラジオでは1年前から彼女の曲が流れていた。

プロデューサーが、セルジュ・ゲンズブールに彼女の曲の歌詞を書くよう提案。

だがすぐその前に、彼女の父(作詞家のロベール・ギャル)が作曲家ジョルジュ・リフェルマンの曲に「シャルマーニュ大王」の歌詞をつけてしまい、残念ながらそれを録音することに。それでも歌はフランスと日本、アメリカ、さらにはアフリカ、シンガポール、チリにまで広まり、200万枚以上を売り上げた。

続いてユーロヴィジョンの代表としてリュクサンブールへ。この時の歌が、セルジュ・ゲンズブール作詞作曲の「恋するシャンソン人形」。 この独特の曲で 、彼女はコンクールのグランプリを受賞。その成功は欧州の枠を超え、フランス・ギャルはこの曲を日本語を含め3ヶ国語で録音。

1966年は、ゲンズブールによる新しいヒット曲「ベイビー・ポップ」で幕を開ける。フランス中がこの歌詞を「乱暴」とみなしたが、18歳の少女の歌声の中には、誰も黒い部分を見出すことはできなかった。

とはいえ、ゲンズブールの次の作品「アニーとボンボン」は、作詞したゲンズブール自身の発言のせいもあって、歌詞の二重の意味についてのスキャンダルが月を追うごとに加速。このせいで、フランス・ギャルは、長い間成功から遠のき、ゲンズブールとの協力関係には汚点が残ることになった。

1967年、フランク・トマとジャンミッシェル・リヴァという新しい作詞家が作曲家でシンガーのジョー・ダッサンと組み、フランス・ギャルのために作詞。「おしゃまな初恋」はほかの曲をしのぐ大成功を収める。6月21日、フィリップスがフランス歌謡曲界のスターを集めて写真撮影。(ジョニー・アリデー、ジョルジェット・ルメール、フランス・ギャル、アニー・フィリップとラジオのプレゼンテーター、プレジダン・ロスコ)

セルジュ・ゲンズブールとの効力で成功を収めた3年後、賞は受賞しても、ファンには恵まれなかった。(写真はリカ・ザライ、アントワーヌ、シェイラと。1969年5月21日のオリヴィエ賞授賞式にて)

1971年、兄弟のパトリスとともに、「テレ・ポッシュ」誌が出版した8つのエピソードによるフォトストーリーに登場。「プラティーヌ」誌の取材にユーモアを込めてコメントしている。「私にとってこのフォトストーリーは堕落でした。次のステップはポルノ映画出演か、といったところね」

1976年1月6日、12年のキャリアの後、ミッシェル・べルジェのプロデュースで1975年に録音した初のスタジオ・アルバム「フランス・ギャル」をリリース。ミュージカル「ヘアー」でスターダムにのし上がって以来、上り調子だったジュリアン・クレールとの5年の関係に終止符を打つ。

ジュリアン・クレールは彼女を引き留めようと「Souffrir par toi n’est pas souffir」を作曲するも、フランス・ギャルとミッシェル・ベルジェは1976年6月22日、パリ16区の市役所で結婚。この結婚で、フランス・ギャルはアカデミー・フランセーズのジャン・アンビュルジェ教授と、ピアニストのアネット・ハースの義理の娘となった。この結婚から二人の子供、ポーリーヌ・イザベル(1978年)とラファエル・ミッシェル(1981年)が誕生。

ミッシェル・ベルジェの影響で、彼女は舞台への関心を取り戻す。1978年、彼女は舞台に復帰、シャンゼリゼ劇場に登場、「メイド・イン・フランス」というタイトルのショーを行う。

1979年12月10日~14日、フランス・ギャルとミッシェル・ベルジェールはラジオ、ユーロップ1のオーガナイズによるシャンソンのオランピア―ドでダカールへ。彼女にとって初のセネガル旅行。

1979年、フランス・ギャルがクリスタルの役を演じた初公開のショーは人々の記憶に残るものになる。オペラ・ロック「スターマニア」はパリのパレ・デ・コングレで1カ月間上演された。ミッシェル・ベルジェが作曲し、ケベックのリュック・プラモンドンが作詞を手がけた同作品は歴史に残る名作に。

1980年、ミッシェル・ベルジェが作詞作曲した「彼は立ったままピアノを弾いていた」が大成功。フランス歌謡曲のスタンダードになった。

1982年、パリのパレ・デ・スポールにて行われた、スパンコールもラインストーンのキラキラもない革新的なショー「音楽のために」は数週間、満席状態に。

1980年代はアングロサクソンとバンド・エイドから始まったヒューマニズム の時代。「国境なき歌手たち」、ついで「学校のために」のチャリティで、フランス・ギャルはダニエル・バラヴォワーヌとともに、テレビのステージを巡った。(写真は1983年3月16日ヤニック・ノアと)

1984年、パリでの初コンサートに、パリ中が集まった。(9月13日、ジョニー・アリデーと)

1986年1月14日、ダニエル・バラヴォワーヌがアフリカ旅行中にヘリコプター事故で死亡。フランス・ギャルは1987年、ベルジェが二人の友人にオマージュを捧げた「ココに捧ぐ」を歌った。この曲はアルバム「ババカー」に収録。同じ年、「Victoires de la musique」でこの年の女性歌手賞に選ばれる。その翌年、フランス・ギャルが引退を考えていた頃、ミッシェル・ベルジェの演出による「フランス・ツアー」が大成功。

続く数年間は、一線を退き、楽曲の録音が減る。ミッシェル・ベルジェと共に手掛けるアルバムでなければスタジオでの録音を行わなくなる。1992年の「最後のデュエット」、デュオというよりも二人の声によるクリエイションに全力投球。二人はラ・シガールやベルシーなど、パリのいくつかの場所でコンサートの開催を発表。

1992年8月2日、ラマチュエルで、 ミッシェル・ベルジェが心臓発作による突然の死を遂げ、コンサートの計画は立ち消える。

1年後、1993年。フランス・ギャルはパリ・ベルシーのパレ・オムニスポールの舞台に立つ。9月22日から25日、「Mademoiselle Chen」「Ella」「デブランシュ」などを歌う。だが、ミッシェル・ベルジェの死と健康上の深刻な問題、さらに1997年に娘のポーリーヌを亡くしたことで、フランス・ギャルはメディアの世界から遠ざかる。

この頃彼女はセネガルのダカールを定期的に訪れている。1990年にはンゴ―ル島に家を建て、レストランと学校も建設。ショーの世界から身を引いて以来、この地で年の半分を過ごしている。1997年、シンガーとしてのキャリアに終止符を打つ。

photos:Getty Images, texte:Yan Bernard-Guilbaud (madame.lefigaro.fr)

Share:
  • Twitter
  • Facebook
  • Pinterest

フィガロワインクラブ
Business with Attitude
キーワード別、2024年春夏ストリートスナップまとめ。
連載-パリジェンヌファイル

BRAND SPECIAL

Ranking

Find More Stories