ケネディ家の知られざる妹、ローズマリー・ケネディの悲劇とは?

Culture 2023.09.10

第35代アメリカ合衆国大統領のジョン・F・ケネディ(JFK)の妹のひとりは知的障害を持って生まれ、兄たちの政治的キャリアを守るためにロボトミー手術を受けさせられ、歴史から抹消された。一族の陰で人生の大半を過ごしたある女性の肖像。

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イギリス宮廷デビューするローズ・ケネディ、娘のキャスリーンとローズマリー(ロンドン、1938年5月11日)photography: Getty Images 

愛らしく、いつも前向きで愛情深く、最善を尽くそうとする。ローズ・ケネディは長女ローズマリーをこんなふうに語っていた。第35代アメリカ大統領ジョン・F・ケネディの妹は1918年9月13日に生まれ、若い頃は朗らかな娘だった。たとえ知的障害があったとしても。7月初めよりフランス等で配信が開始されたドキュメンタリー映画『Vier Brüder, fünf Schwestern. Die Kennedys(原題訳:ケネディ家の4人の兄弟と5人の姉妹)』でもそのように描かれている。だが結果的にローズマリーは名門一族の犠牲となり、悲劇的な運命を辿ることになった。

 

 

ローズマリー・ケネディの障害についてはいくつかの説があるが、ドキュメンタリーによれば、それは彼女の出生時に起因する。出産の際、ローズマリーの脳が数分間酸欠状態になったことで知的障害を引き起こした。そのため、言葉を話すのも、歩きはじめるのも遅かった。学校に通うようになると、クラスの勉強についていくのも難しかった。しかし、ケネディ家では長女の様子を当初心配していなかった。ローズマリーはケネディ家の子ども9人のうちの3番目である。

イギリスの宮廷デビュー

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(左から)エドワード、ジーン、ロバート、パトリシア、ユーニス、キャスリーン、ローズマリー、ジョン、ローズとジョセフ・P・ケネディ夫妻(1934年7月8日)photography: Getty Images

ローズとジョセフ・ケネディ夫妻がローズマリーの発達の遅れに気づいたのは、彼女の後から生まれた妹たちの成長を目にしてからだった。それでもこの頃のローズマリーは、パーティーやショッピングが好きで、ヨットやテニス、バドミントンに熱中する陽気な少女だった。10代の頃は、舞踏会やコンサートに出席したことを日記に綴っていた。しかし、ケネディ家の生活が彼女にとってバラ色だったわけではない。両親から競争心を植えつけられた兄弟妹たちの活躍ぶりを目の当たりにし、それを見守るしかない自分にローズマリーは苦しんだ。

1938年、ローズマリーの世界が広がった。父親が駐英大使に任命され、一家はロンドンに移り住む。ローズマリーは喜んで英国宮廷とロンドン社交界にデビューする。並行して現地の修道院でモンテッソーリ教育を受けた。やがて戦争が始まり、ケネディ一家は戦火を逃れてアメリカへの帰国を余儀なくされる。アメリカに戻ったローズマリーは、ワシントンの修道院で学び、そこで教師の免状を取得した。しかし、彼女の気持ちは沈んでいく。

ロボトミー手術

ローズマリーは自分の居場所がないと感じ、反抗的な態度を取るようになった。兄弟に与えられている自由が、自分には与えられていないことを嘆いた。家族の愛を受けられなかったローズマリーは暴れたり、家出したり、男の子と密会するようになる。信心深かった母親にとってはとんでもないことだった。「ローズマリーは進歩するどころか、悪くなっているように見えた。22歳でこれまで以上に怒りっぽく、気難しくなった」と妹のユーニスは書いている。父親のジョセフ・ケネディは、ローズマリーの行動が息子のジョンやロバートの政治的野心を脅かすと考えた。そこで彼は、医師から勧められ、まだ実験段階だったものの、攻撃性と抑うつを抑えるという触れ込みのロボトミー手術を受けさせることにした。

当時23歳だったローズマリーにとって、それは非常に暴力的な体験だった。前述のドキュメンタリー映画のなかでジャーナリストのロナルド・ケスラーは次のように語っている。「ワッツ医師はロボトミー手術をどうおこなったかを話してくれた。それによるとバターナイフのような形をしたメスを取り、ローズマリーの脳を露出させると中をひっかき回し、ローズマリーにアメリカ国歌を歌うように言った。そして彼女が歌えなくなるまで脳をいじった。こうしてロボトミー手術がおこなわれた」

手術は失敗だった。ローズマリーは2歳児並みの精神年齢となり、歩くこともしゃべることも困難になった。このような大惨事を目にしたジョセフ・ケネディはすべてを秘密にすることを選んだ。娘をウィスコンシン州ジェファーソンの障害者施設、セント・コレッタ学校に送り、一切の面会を禁じた。父親はその後一度も娘に会いに来ることはなかった。そして妻にも誰にも、娘の状態について固く口を閉ざして話さなかった。

永遠の遺産

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ユーニスとローズマリーのケネディ姉妹。(1938年4月21日撮影)photography: Getty Images

ローズマリーが家族の一員としての地位を取り戻したのは、1969年に父親が亡くなってからのことだった。その後36年間、ローズマリーは施設で暮らし、弟妹は定期的に訪問した。2005年、86歳で死去。ケネディ家の長女は一時期歴史から抹消されたかもしれないが、それでも彼女は歴史に「深く永続的な」足跡を残した、と妹のユーニスはローズマリーの弔辞で述べている。ローズマリーの障害は、兄弟妹たちの多くのプロジェクトに影響を与えた。1962年、ユーニスは自宅の庭で障害者のためのホリデーキャンプを開催し、これは数年後、知的障害者にスポーツの喜びを体験する機会を与えることを目的とするスペシャルオリンピックスとなった。JFKは、米国内の障害者の生活を改善するための法律を制定した。ローズマリー・ケネディが忘れられなかったことの証だろう。

text : Chloé Friedmann (madame.lefigaro.fr)

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