Culture 連載

イイ本、アリマス。

思い出の味は何ですか?
父と娘で手繰り寄せた家族の記憶。
吉本隆明『開店休業』

イイ本、アリマス。

久しぶりに吉本隆明さんのご自宅にうかがったのは3月のお彼岸の頃だった。
亡くなったのが昨年の3月16日だから、ちょうど一周忌ということになる。
気の早い春が突然やってきたようなよく晴れたあたたかな日で、すぐ近くのお寺の桜は、それはもう、見事な満開だった。

 この春刊行した『フランシス子へ』で構成を担当した。
 吉本さんが愛猫フランシス子に寄せる想いを語ったこの本には、長女のハルノ宵子さんがあとがきを寄せてくださった。
 『十五歳の寺子屋 ひとり』、そして『フランシス子へ』をつくるのに吉本家に通った2年半余の間、毎回絶妙のタイミングでお茶を出してくださったのもハルノさんだった。あのすべてを心得た気配、あうんの呼吸をどう言ったらいいのだろう。
 久しぶりに通された奥の和室には、ひな人形が飾られていた。フランシス子が亡くなった9か月と1週間後に吉本さんが亡くなって、相次いで奥様も亡くなったので、長い間ご両親のお世話をされていたハルノさんは今、この家で猫たちと暮らしている。

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 吉本さんの最後の自筆連載である「dancyu」の食エッセイ『開店休業』にハルノさんが追想文を書いたことをうかがったのも、その日のことだ。
 追想文と言っても、実際に読んでみると、吉本さんが書いた40話すべてにハルノさんからの返信のような文章が添えられていたので、驚いた。父と娘、それぞれの文章から吉本家の家族の肖像が立体的に浮かびあがってくる。

「父が亡くなり、母も突然逝ってしまい、あの時はもう、願をかけるような気持ちで書いていましたね。今思えば、単に<家族を思い出す>というのではなく、自己慰安でした、あれは」

 ハルノさんは振り返る。娘が父について語る言葉のほとんどは、おそらくは父が生きていた頃には面と向かって語ることがなかった言葉だろう。そして家族の思い出の味をたどることは、とりもなおさず家族の記憶をこれ以上なほどつぶさに手繰り寄せることなのだ。

 この本でも、ハルノさんのすべてを心得た、あうんの呼吸がいかんなく発揮されている。
 父・吉本隆明が<少年時代の思い出の味は月島にあった「三浦屋の肉フライ」だ>と語れば、<父にとって「三浦屋の肉フライ」は、何の心配も無く、力強いお父さんと優しいお母さんに守られた時代の、輝くような幸せの味だったに違いない>と娘が推察する。
 父の自慢の手料理は白菜に豚ロースをはさんだ鍋で、これをおろした玉ねぎと醤油につけて食べる。吉本家の定番メニューだったこれを、詩人の清岡卓行も「ヨシモト鍋」と呼んでいた。ところが娘によれば、母は「あれは私が考えたのに、さも自慢の発明みたいにエラそうに!」とご立腹だったとか。
 病弱な母に代わって父がオール炊事当番をやった時期には、デンジャーな実験料理の連続。<中でも最悪だったのが、青ねぎの混じった小判型のぶよっとした揚げ物>。すべてが衣で出来た天ぷらは、娘にとっては<恐怖の父の味>だったと振り返るが、どんなにくさしても、それがかけがえのない思い出であることが泣き笑いのように響いてくる。

 そういえば妹で作家のよしもとばななさんの短編集『からだはぜんぶしっている』にも、
『おやじの味』という一編があって、それは玉ねぎが入った、ものすごくバターの味がする、食べると一日胸やけがするが妙においしいオムレツだった。こちらはまあ、小説だけれど、つまり家族の味というのは、そんなふうに他人が食べたって別に感激もしないような、でも懐かしい、その家だけのうちうちの味のことで、その美味しさ、かけがえのなさは、やはり家族でしか共有できない。味覚の記憶も、家族の死と共に記憶の彼方へと遠ざかっていくかけがえのない何かなのだ。吉本さんが亡くなって、はからずも父と娘の合作になった『開店休業』を読むと、そのことがじわじわと胸に迫ってくる。

 『開店休業』に出てくる食べ物の中で、ひとつだけ挙げるとしたら何が一番記憶に残っていますか? ハルノさんにそう訊ねたら、少し考えて「やっぱり・・・焼き蓮根ですかね」という答えが返ってきた。
 蓮根を真っ黒になるまで焼いたものを、焦げた皮を拭い、細かく刻んで、醤油をたらり。ごはんにのっけて食べる。素朴で滋味溢れるそれは、なるほど、実に美味しそう。

「でもね、大変なんですよ、あれは。父は雑だから、とにかく散らばるんです。台所がどんなことになるか!(苦笑)だからと言って、フードプロセッサーでやったんじゃ違っちゃうんで、やっぱり手で刻まないといけない」

 焼き蓮根の章でハルノさんはこんなふうに書いている。

<この連載をリアルタイムで読んだ時、「ああ!そうだ父に焼き蓮根を作ってあげよう」と思ったのだが、眼が悪い父がどれほど床に散らかすのかと考えると、ついつい一日延ばしになり、そしてそのままになってしまった。今思うと、涙が出るほど胸が痛む>。

 はからずも、これは娘が父を看取るまでの見事な歳時記にもなっている。
 家族の思い出の味は何ですか?
 そんなことを誰彼となく訊ねてみたくなった。食べれば、何かを思い出さずにはいられない。そんな味を誰もがきっと持っている。本当に美味しいものは必ず思い出の味がする。
 読んだあとは、家族と囲む食卓が特別なものに思えてくるはずだ。いつもより少しだけ親に優しくしたくなるかも知れない。 『開店休業』は、そんな1冊である。

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