【フィガロジャポン35周年企画】 ナオミ・キャンベルも務めていた「フィッティングモデル」とは? クチュリエの創造意欲を刺激する仕事に迫る。

Fashion 2025.07.15

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アールドゥヴィーヴルへの招待 vol.2
2025年、創刊35周年を迎えたフィガロジャポン。モード、カルチャー、ライフスタイルを軸に、 豊かに自由に人生を謳歌するパリジェンヌたちの知恵と工夫を伝え続けてきました。 その結晶ともいえるフランスの美学を、さまざまな視点からお届けします。

アトリエの奥でデザイナーの服に最初に袖を通す、それがフィッティングモデルだ。時にデザイナーのインスピレーション源となるほど重要な役割を果たす彼女たちの仕事とは?


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photography:Shutterstock

「ナオミ、君ならこの服をどう着る? 肩の動きを強調したほうが良い? 線をもっと抽象化すべき?」

ランウェイから遠く離れた場所で、ナオミ・キャンベルはムッシュ・イヴ・サンローランの観念的な質問に威圧されながら感動していた。偉大なデザイナーは彫刻的な容姿のナオミを毎朝パリのジョルジュ・サンク通りのアトリエに呼び、フィッティングルームで向き合って過ごしていた。「私が1980年代にイヴ・サンローランの新人フィッティングモデルだったことを知る人はほとんどいないでしょう」とスーパーモデルは当時を振り返る。

「17歳の私にとって、本当に素晴らしい体験でした」

ブレイク直前のナオミ・キャンベルは偉大なフランス人デザイナーのフィッティングモデルの中で、特にお気に入りのひとりだった。先輩フィッティングモデルにはソマリア人のアマリア・ヴァイレリ、気高きダニエル・リュケ・ドゥ・サンジェルマン(YSLが初めて女性タキシードを作った時のモデル)らがいる。当時はイヴ・サンローランを含む多くのクチュリエが生身のモデルを使って服のデザインを考え、シルエットのスケッチをタイユールアトリエの責任者(プルミエール)に渡していた。プルミエールはキャンバス地で服の原型を作る。デザイナーはそれを承知のうえで洋服地を選び、形にする。まるで儀式のようだ。ナオミ・キャンベルは服が出来上がるまでの全工程に立ち会っていた。単なるハンガーのように感じたことはないと、ナオミは言う。

「その逆です。クチュリエの天才的な閃きを直に体験し、秘められた創作過程に参加している気分でした」

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photography:Lila Louisa / Shutterstock

ナオミ・キャンベルはフィッティングモデル時代に厳密かつ規律正しく振る舞うことを学んだ。

「イヴ・サンローランでは完璧であることが求められました。髪はお団子にして、真紅の口紅をつけました。着るものは決まっていて、白いダブルブレストのブラウスに黒タイツ、サテンの靴というミニマルなスタイルでした」

こうしてクチュリエは仕事に取りかかった。「木のボディでは仕事ができない」と、彼は口癖のように言っていたのだ。

「インスピレーションを与えてくれるフィッティングモデルが必要なんだ。モデルの身体に布地を広げ、巻きつけ、動いてもらう。どこかの瞬間でドレスやスーツが突如として閃く」

イヴ・サンローランが「大失敗だった」と語る唯一のコレクションは、クレージュのための初コレクションだった。「良いモデルがいなかったから」だそうだ。

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フィッティングモデルという職業の女性たちは1950年代から活躍していた。モデルの多くはひとりのデザイナーと独占に近い契約を結んでいた。デザイナーはしばしば、服に命を吹き込む彼女たちを思い浮かべながら作品を創った。本店のサロンでコレクションが開催される場合、クリスチャン・ディオールが人気フィッティングモデルと呼ぶ選りすぐりのモデルたちが、選ばれた顧客やファッション評論家ら一流のゲストの前を歩き、ルックを披露した。モデルたちはメゾンと契約を結んでおり、時には着用した服の売り上げから手数料をもらうモデルもいた。そもそも人間のモデルを使い始めたのは19世紀のクチュリエ、シャルル・フレデリック・ウォルトだ。

「フランスで活躍した英国人のウォルトはオートクチュールの先駆者であり、生身のモデルを使って試作品を発表するようになりました。モデルたちは『顧客の双子』と呼ばれていました。デザイナーの妻、マリー・ヴェルネは史上初のフィッティングモデルでした」

そう語るのは、パリの装飾美術学校でファッション史を教えるゲノレ・ミルレ教授だ。彼女は『L'Atelier du Modéliste』(パタンナーのアトリエ/Publishroom刊)の著者でもある。

「モデルたちはエレガントでチャーミング、身のこなしも美しく、自立した女性たちでした。組合も結成されていました」と、かつてイヴ・サンローランでアーカイブの責任者だったゲノレ・ミルレ教授は言う。こうして徐々にフィッティングモデルを使うアトリエが増え、彼女たちは必要不可欠な存在となっていった。

フィッティングモデルの特異な魅力をユーモラスに表現した言葉を残しているのはピエール・バルマンだ。

「プラチナブロンドヘアに彩られた青白い顔、3つ重ねのつけまつ毛に濃いスモーキーメイクでこってり盛られた目が顔を横切っている。だが、彼女たちが首を少し突き出してあたりをにらみつけながら歩き出すとパリシックの権化と化す」(『Mannequin haute couture』(オートクチュールモデル/リアーヌ・ヴィギエ著、1977年刊)。さらにクリスチャン・ディオールのミューズだったフィッティングモデルのフレディが自著『Freddy, dans les Coulisses de la Haute Couture Parisienne』(フレディ、パリオートクチュールの舞台裏/1956年刊)で語っているように、パーフェクトでなくても見事な身体を持つ彼女たちは優雅の体現者であり、舞台裏でドレスに命を吹き込んでいた。これと比較して雑誌に登場するモデルたちをフレディは「腕は硬いし足は巨大でひどい」とこきおろす。各高級ブランドは専属のフィッティングモデルを月給で雇っていた。ジャンヌ・ランバンはベッティーナらミューズを身近に置き、自分の作品にモデルたちの名前をつけた。ユベール・ドゥ・ジバンシィは彫刻的な黒人モデル、たとえばパット・クリーブランドやベサン・ハーディソンらをフィッティングモデルとして起用した。アズディン・アライアはファリダ・ケルファ、ステファニー・シーモア、グレイス・ジョーンズを使った。人気フィッティングモデルは自分のサイズに合わせた専用ボディを持っていた。

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1960年代に撮影されたガブリエル・シャネルと、「シャネルブルゾン団」と呼ばれたモデル。©CHANEL

シャネルのフィッティングモデルたちは「シャネルブルゾン団」というニックネームで呼ばれていた。ほっそりした彼女たちはエレガントで強い個性を備え、ポール・リッゾや貴族出身のミミ・ダルカングもそうであったように、アーティストのミューズか、ジェットセッターで当時のファッションアイコンだった。またヴェラ・ヴァルデズはガブリエル・シャネルの秘蔵っ子で、ルイ・マルやロジェ・ヴァディムの恋人として知られていた。

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1961年、シャネルのサロンにて。シャネルの秘蔵っ子と言われていた、ヴェラ・ヴァルデズ(右から3番目)。©CHANEL

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偉大なクチュリエの服はナンバリングされて美術館に展示されてもなお、纏った女性たちの記憶を保ち続けるのだろうか。ニューヨークのメトロポリタン美術館での『When Fashion Meets Art』展に出品された1960年代のイヴ・サンローランのドレスは、ヴィクトワール・ドゥトルロウのシルエットから作られた。映画『イヴ・サンローラン』(ジャリル・レスペール監督/2014年)でシャルロット・ル・ボンが演じたヴィクトワールは最初クリスチャン・ディオールの、やがてイヴ・サンローランの主要フィッティングモデルとなった。ビッグメゾンのアトリエでひっぱりだこだった彼女は、通常のファッションモデルのような長身でも細身でもなかった。しかしながらその細い腰や身体のラインはデザイナーの想像力を刺激し、数々のデザインを生み出した。「ムッシュ・ディオールは私にドレスを着せると丈を短くし、強烈な色を選び、オリエンタルな帽子をデザインしました」とヴィクトワールは当時を振り返る。装飾美術学校でデザインを学んだヴィクトワール・ドゥトルロウには、自伝色の強い著作『Et Dior Créa Victoire』(2014年、Éd. du Cherche Midi刊)がある。彼女は生まれも育ちもパリのサンジェルマン・デ・プレで、独創性に加えて不遜なエレガンスを備えていた。「私は、当時のオートクチュールのモデルたちのようなプチブルジョワ・スタイルとは真逆のところにいました」とヴィクトワールは言い、クリスチャン・ディオールやイヴ・サンローランと親密だったと語る。

「私たちは若く、ともに歩んでいました。よく、洋服について意見を求められたものです」

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何十年経ってもフィッティングモデルの仕事は不動だ。「ファッション界にどんな大変動が起ころうと、彼女たちは不動の地位を保ってきました。なぜならその存在はアトリエの中で生まれる創作過程に不可欠のものだからです」とゲノレ・ミルレ教授は語る。フィッティングルームは別世界なのだ。クリスチャン・ディオール同様、教授も劇場の楽屋になぞらえた。

「フィッティングルームには肘かけ椅子もランプも鏡もあり、妖精がいるのです」

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photography: Raffaella Galvani / Shutterstock

パリのモンテーニュ通りにある展示スペース、ディオール ギャラリーではクチュリエのフィッティングルームが再現されている。ここは、あいまいな夢やスケッチが幾度ものフィッティングを経て形を成していく神殿なのだ。

「フィッティングは神聖な瞬間、とても親密な瞬間です。私はいつも、自分は現実の女性の洋服を作っている、空想の中にいるのではないということを肝に銘じています。服は着ていて動きやすく、いつでも快適であるべきです」

こう語るのは、ラバンヌのクリエイティブディレクター、ジュリアン・ドッセーナだ。だからこそフィッティングモデルが重要なのだ。

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カール・ラガーフェルドのミューズを7年間、その後ヴィルジニー・ヴィアールのミューズとなったアマンダ·サンチェスは、現代のアイコニックなフィッティングモデルのひとりだ。23年間もの間、彼女はシャネルのオートクチュールとプレタポルテのクリエイションに、魅力あふれる優美なシルエットで貢献してきた。サンパウロ生まれの身長178センチのブラジル人モデルは、カンボン通りのブラック&サンドカラーのアトリエで、ハサミや針が飛び交って直しが入る間、何時間も動かずにじっと忍耐強く立っている。そして布が身体の動きに沿ってどのように動くかを見せるためにどう動けばいいかも知っている。そんな彼女が長いキャリアを振り返って口にする言葉は「謙虚さ」だ。

「フィッティングモデルは合唱のような共同作業です。自分のエゴはしまって洋服の美しさを追求しなくてはなりません。では、人間扱いされず、ただのモノ扱いされるのかと問われればそんなことはありません。逆にとてもやりがいのある仕事です。おかげで細部の美を見抜く力を与えてもらい、物事の調和に目がいくようになりました。通りの建物の曲線とか、モネの絵に落ちる光のゆらぎとか......」

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初めてカンボン通りを訪れた時のことを彼女は覚えている。2001年、22歳だった。フィッティングで自分の手首(14センチ)、足首(18センチ)、ウエスト(48センチ)、バスト(85センチ)のサイズを知った。20年後のサイズは1ミリも違わず、ずっとここで働き続けてきた。年に10回のコレクションをこなすという驚異的なペースだ。

「私はいつも、自分が小さなハツカネズミで、アトリエの責任者や職人の動きを見守り、刺繍や仕上げの技術を観察していると想像します。過去の作品に触れてガブリエル・シャネル時代のスーツを試着したこともあります」

布ロールやミシン、「お針子たちのテーブルに置かれたキャンディいっぱいの容器」の間でアマンダ・サンチェスはいつもオーケストラ作品に参加している気分だった。

「カールとは仲良しでした。よく意見を求められ、丈や布の肌触り、ポケットの位置について聞かれました。彼のデッサンを見るのが大好きで、フィッティングの時にはよく、鉛筆で描かれたシルエットどおりのポーズをとって遊んでいました。するとちゃめっ気たっぷりにこう言ってくれるんです。『デッサンよりも素敵だね!』って。まるでゲームでした。ヴィルジニー・ヴィアールとは視線を交わすだけで直感的にわかり合える関係でした。彼女が微笑んだり眉をしかめたりするだけで、その服を気に入っているのか、不満なのか、イメージどおりでなくて不機嫌なのかすぐにわかりました」

多くのフィッティングミューズ同様、アマンダ・サンチェスもコレクションの際、ランウェイに登場した。

「カールやヴィルジニーがこだわったんです。最後まで一緒にやろうって」

アマンダはカール・ラガーフェルドの手紙をいまも大切にとってある。あるファッションショーの後にもらったもので、「ありがとう。君のおかげでデッサンに命が吹き込まれた」とあった。現在、同メゾンのイメージパーソンを務めるアマンダ・サンチェスは、シャネルのアトリエを定期的に訪れている。最近、彼女は新人のモデルを連れて歩いている。22歳、身長178センチのアリス・シャルヴェにアマンダは1年かけて自分の仕事のノウハウを教え込んだ。「フィッティングモデル仲間にライバル意識はありません。年齢もあまり関係ない、安定した仕事です。女性として、非常に尊重されていると感じます」とアマンダは語った。

「私たちはデザイナーやアトリエの責任者と多くの時間を過ごします」とアリス・シャルヴェは目をキラキラさせながらシャネルのフィッティングモデルとして働く楽しさを語った。柔らかなモスリンを肌に纏い、まだシルクの裏地がついていないためにザラザラと肌に当たるスパンコールのついたツイードスーツを着る。アリスにとって、服が完成していくのを見るのはこのうえない喜びだ。「生地の感触や服の形だけでなく、クリエイティブな面でも意見を聞いてくれるところにやりがいを感じます」とアリス。エリート・エージェンシーのエグゼクティブエージェント、パトリック・シモンはアリスのほか、現在ニコラ・ジェスキエールのミューズであるマーシャ・スココヴァら多くのフィッティングモデルを育ててきた。彼によれば、フィッティングモデルにはたくさんの資質やスキルが必要なのだそうだ。

「年齢は16歳から28歳までですが、ブランドによっては40歳を超えたアイコニックなモデルもいます。これはお金も名誉も伴う職業で求められる水準も高いです。自分の胸囲、ウエスト、ヒップ、股下、肩幅等々のサイズを把握して維持しなくてはならないことに加え、規律を守れること、ブランドの秘密事項にアクセスすることから守秘義務への理解、メゾンの歴史に精通していることが求められます。彼女たちはアーカイブを研究してカッティングや布地、仕上げの知識を身につけなければならないのです」

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優秀なフィッティングモデルは創作過程のキーパーソンとなる。洋服にほんのわずかでも狂いが生じているとそのことを察知し、たとえば袖の仕立てのどこがダメなのかを専門用語で説明できる。

「フィッティングモデルという名称はどうかと思います。デザイナーのミューズと呼んだほうがいいのではないでしょうか。彼女たちはブランドのお人形的存在ではありませんし、そう見なされるのを避けるべきですから」

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photography: Antonin Albert / Shutterstock

ミューズとデザイナーの創造的な相乗効果はコレクションに決定的な影響を与えることもある。アメリカのデザイナー、マーク・ジェイコブスは語る。

「ファッション業界ではシーズン毎に何かおもしろいものを見つけなくてはなりません。だから正直なところ、デザイナーが『今シーズンは何をしたらいいかわからないな』と思うことはよくあります。でもアイデアは周囲を観察することから生まれます。ある日、ジェイミー・ボシェールが、真夏のアトリエに漆黒の髪とヴィクトリア調の古いドレスで現れた日のこと。ジェイミーは優れたミュージシャンであり、ダンサーであり、かつての私のフィッティングモデルであり、インスピレーションを与えてくれるミューズです。その時のジェイミーの格好から、ひとつのコレクションが生まれました」

ニューヨーク出身のマーク・ジェイコブスが2008年にジェイミー・ボシェールと出会った時、彼女はヴィヴィアン・ウエストウッドとアン・ドゥムルメステールのフィッティングモデルをする傍ら、ロックコンサートに通いつめていた。キム・ゴードンやパティ・スミスのコラボレーターでもあるジェイミー・ボシェールが45歳の頃のマーク・ジェイコブスとのフィッティングについて語るのを聞いていると、役を演じる女優と監督のような関係に思えてくる。

「10年近く一緒に仕事をして、マーク・ジェイコブスとは素晴らしい瞬間を共有してきました。ある時、私を布で包んでいる間、彼は私のまぶたにブルーのアイシャドウ、まつ毛にマスカラ、唇に淡いピンクの口紅を塗ることを思いつきました。シェールの『悲しきジプシー』をかけて、私たちは仕事しながら歌って踊りました。仕事が深夜に及んでも、14時間もフィッティングスタジオにこもっていても、いつも音楽を聴いて踊っていました。マークが創る姿を見て、話すのを聞き、多くを学びました。アーティストもたくさん紹介してくれました。マークは自分が好きな造形芸術家とよく一緒に仕事をしていたからです」

マーク・ジェイコブスは世界で初めて「プラスサイズ」の服のラインを手がけたデザイナーとしても知られている。彼は、ボディポジティブを唱えるフィッティングモデルのイゾルト・ハルドルドッティルや、ロックシンガーのベス・ディットーの体形に合った作品をデザインした。「マーク・ジェイコブスは、多様なフィッティングモデルを起用することで多様性とはホリスティックなものであり、サイズ、年齢、性別、人種など、いくつかの相互依存的な要素を含むことを示したのです」とベス・ディットーは語った。

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ナオミ・キャンベルと当時ルイ・ヴィトンのアーティスティックディレクターを務めていたマーク・ジェイコブス。1998年撮影。photography: Aflo

ブラックモデルの先駆者として名高いベサン・ハーディソンはナオミ・キャンベルにとってメンター的存在だ。「フィッティングモデルはファッション業界に多様性を導入するのに一役買いました」とナオミ・キャンベルは語る。早くも1970年代にベサンはボーイッシュな雰囲気とともにその肌の色をランウェイに登場させた。1973年、ヴェルサイユ宮殿で開催されたファッションショーは、フランスとアメリカのデザイナーたちがバトルを繰り広げたことで有名だが、これにも彼女は参加している。ランウェイのスターとして、フィッティングルームでインスピレーションを与える存在として、彼女はウィリー・スミス、スティーブン・バローズ、三宅一生と仕事をした。1980年代には、多様性をキーワードとするモデルエージェンシーを自ら立ち上げ、イマンと共同でブラック・ガールズ・コーアリションを作った。それは黒人モデルにスポットを当て、人種差別を糾弾するためのプログラムだった。ベサン・ハーディソンは現在、グッチのコンサルタントミューズだ。フレデリック・チェン(『Diana Vreeland, The Eye Has to Travel』の共同監督)とドキュメンタリー『Invisible Beauty』を共同監督したベサンは、次のように語る。

「最初に働き始めたボタン工場で、服のディテールに魅せられました。縫製、刺繍、レース仕上げをその後学びました。1967年にウィリー・スミスのフィッティングモデルとなり、私の服の知識が彼にインスピレーションを与えました。同時に彼は、多様性を促進するためにランウェイを歩くことも勧めてくれました。こうして自分を信じて創造の冒険に踏み出し、偉大なデザイナーと歩むようになったのです。ミューズの役割をとても気に入っています。キャットウォークでもアトリエの中でも、新しいテクノロジーやAIが登場しても、この役割がなくならないことを願っています」

カルバン・クラインなど一部の洋服ブランドは、モデルの民族的多様性や身体的多様性を高めるためにすでにAIを活用しているものの、生身のモデルがすぐに消えることはないだろう。

多くのデザイナーにとって、フィッティングモデルの最大の資質は、カメレオンのように変幻自在に次々と服を着こなす能力だ。「まるで役柄に入り込むように服に溶け込み、演じる術が必要だ」とマーク・ジェイコブスはこの職業に戦略的思考が求められることを指摘している。フィッティングモデルはインスピレーション源として、クリエイションのアンバサダーとして、デザイナーが頭の中に思い描く作品と、実際に見て触れることのできる現実の服とをエレガントに結びつける存在であり続ける。1956年、クリスチャン・ディオールはこんな言葉を残している。

「モデルたちは、ドレスの命そのものだ。そして、ドレスには幸せであってほしい」

*「フィガロジャポン」2025年7月号より抜粋

text: Paola Genone(Madame Figaro)

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