<ガリエラ美術館で『1997 ファッション・ビッグバン』展 2> 展覧会の若き企画者が語る、1997年に起きた大爆発の背景。

Paris 2023.04.28

ガリエラ美術館で7月16日まで開催されている『1997年 ファッション・ビッグバン』展を担当したのは、学芸員のアレクサンドル・サムソン。1997年当時8歳だった彼は、展覧会で紹介している中でリアルタイムで記憶に留めているのはダイアナ王妃が亡くなったことだけという。そんな彼には展覧会を準備する中で、驚くことが山ほどあった。

「たとえば、マルタン・マルジェラがエルメスのアーティスティック・ディレクターに任命されたのも、エディ・スリマンがイヴ・サンローラン・オムの最初のコレクションを発表したのも、1997年のことだった。もっと後のことだと思っていたけれど……」

過去に開催されたモード展において、たとえば装飾美術館で最近開催された『80年代、フランスのモード、デザイン、グラフィズム』展のように時代で語る場合は10年単位がほとんどだ。今回のように1996年10月から1997年10月までと365日に絞り込んだ展覧会はアレクサンドルの表現を借りると“革新的”なのだ。それだけに展覧会は興味深い。展示されている服や映像を見るだけでも十分に楽しめるが、鑑賞の手引きとなりそうな話を彼にしてもらうことにしよう。

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ガリエラ美術館学芸員アレクサンドル・サムソン。1947年からのオートクチュールとコンテンポラリークリエイションを担当している。

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展覧会のアイデアが生まれたのは……。

「2018年に企画したマルタン・マジェラの回顧展を準備している時に、僕は次のようなメモをとっていました。1996年10月にマルタンは彼の象徴的なコレクションであり、モード史においてもそう見なされている『ストックマン・コレクション』を発表。これはコム デ ギャルソンの『Body Meets Dress, Dress Meets Body』と24時間の間隔を空けてのことだった、と」

その時に、ジャーナリストたちが当時書いた記事をリサーチした彼。身体についての再考などメゾン・マルタン・マルジェラとコム デ ギャルソンというふたつのブランドを関係付けているテーマや、また同時にオートクチュールの行方についても触れられていたことを知った。ここにこの展覧会の出発点がある。

「1996年7月にジャンフランコ・フェレがディオールを去り、その後継者は誰?とファッション界中がざわめき、興奮し……予測では毎週のように新しい名前が挙がっていました。過去においてこんなことはなかった。1983年にカール・ラガーフェルドがシャネルのアーティスティック・ディレクターに就任した時も、メディアが反応したのは任命そのものではなく彼によるコレクション。でも1996年のディオールについては、予想や噂など任命そのものが話題になって。それもモード界を超えて、CNNやBBCでも取り上げられていたほどだった。いろいろな名前が取り沙汰された中には、自らそのポストに志願したというヴィヴィアン・ウエストウッドも。名前が挙がっていた山本耀司はその状況に対して、1997春夏コレクションでディオールのニュールックに捧げるクリエイションを見せたのです。我々の想像をはるかに超えた美しいコレクションだった」 

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1996年10月8日、コム デ ギャルソンが1997年春夏コレクション「Body Meets Dress, Dress Meets Body」を発表した。メゾン・マルタン・マルジェラのコレクション「ストックマン」の展示会は、その前日にスタート。photos:(左)©︎ Gautier Deblonde、(右)© Paris Musées / Palais Galliera, Paris 

このコレクションも含め、『1997年 ファッション・ビッグバン』展が紹介する1997年春夏コレクションは5つのブランドに限られている。コム デ ギャルソン、メゾン・マルタン・マルジェラ、アン・ドゥムルメステール、ヨウジヤマモト、トム・フォードによるグッチだ。多くのブランドから展覧会に参加を希望するアプローチが彼にあったそうだが、この年において重要なことがなかったブランドは展示されていないのだ。それだけではない。展示されるのは、いまの時代にも響く名前でなければならない。

展覧会のアイデアが生まれた時に、アレクサンドルは1996年10月からの1年間を1日ずつ表にして、日記のようにその日行われたイベントを書き込んでいった。当時の新聞や雑誌の記事を活用し、その後しっかりと事実を確認。また当時を知る人に語ってもらった情報も役立たせたが、中には曖昧な記憶で語られたものあり、確認の結果排除して……という緻密な作業を続けたのだ。

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オートクチュールの再生とアメリカ人クリエイターの到来。

「ビッグバンが起きたのは、その前の状況に反動してのことだ。60年代にもいちどオートクチュールの終焉が語られたけれど、1994~96年頃の記事を読むとクチュールはおもしろくなくてうんざり……という感じで容赦ないものでした。裕福な女性たちもクチュールではなくプレタを買って、若い人たちは興味すら示さない。どのメゾンも数字はひどく落ち込んでいた。そこにLVMHグループが反応したんですね。クチュール界に蔓延する退屈感。その情勢をなんとかしなければ、と。1997年はディオールのメゾン創立50周年です。半世紀を祝う記念の年にふさわしいものでなければならない。それでジョン・ガリアーノがジバンシィからディオールに移り、彼が去ったことで起きた波紋からジバンシィにアレキサンダー・マックイーンが任命されて……」

この年のもうひとつの顕著な出来事は、バリプランドをアメリカ人クリエイターたちが占拠したことだ。LVMHグループのルイ・ヴィトンにマーク・ジェイコブスがアートディレクターとして就任することが発表された。服を作ったことのないレザーブランドがプレタポルテ部門を作り、アメリカ人をヘッドに据えるという“グッチ形式”がここに見られるとアレクサンダーが語る。この年、LVMHが傘下に収めたばかりのロエベにはナルシソ・ロドリゲスが、セリーヌにはマイケル・コースがアーティスティック・ディレクターに就任した。フランス人はといえばバレンシアガのニコラ・ジェスキエールだけ。もっともこれにしてもメゾンが希望したのは彼ではなくヘルムート・ラングか山本耀司だったという。彼のバレンシアガでの功績を思うと、なかなか信じ違いエピソードでは?

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1997年1月、LVMHグループのディオールはジョン・ガリアーノによる初のクチュールコレクション(写真左)を発表し、ルイ・ヴィトンはマーク・ジェイコブスがプレタポルテ部門のアーティスティック・ディレクターに就任することを発表した。彼による初のコレクションは1998〜99年秋冬コレクション。photos:Mariko Omura

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マックイーンのジバンシィだけ2シーズン展示?

この展覧会中、アレキサンダー・マックイーンによるジバンシィのオートクチュールコレクションだけが2シーズン展示されている。アレクサンドルは今秋に出版が予定されているジバンシィのキャットウォークをまとめた本の執筆のために、メゾン創設から2003年までのショーについて分析を行った。その際に発見したことが彼にあったのだ。

「マックイーンのキャリアを語る際、2シーズン目となった1997~98秋冬のクチュールは大切なコレクションなんです。というのも、彼がジバンシィでの仕事をいかに自分のブランドのためのラボラトリーとして活用したかをこのコレクションが示しているから。最初のコレクションとは大きな違いがあります。彼は自分のブランドのためにジバンシィでいろいろな実験をし、そして2000年代のアレキサンダー・マックイーンの素晴らしいコレクションが誕生しました。このクチュールの2シーズン目のコレクションは美しいだけでなく、彼の政策を語る上で大切なんです」

1997年1月の彼のデビューコレクションは第2室のエントランスを飾っている。来場者を圧倒するのは彼がデザインしたクチュールピースだけでなく、その頭(ヘア)だ。人々はニコラ・ジューンジャックというヘアアーティストの名前を記憶に止めることになるだろう。

「来場者たちが1997年のこの瞬間を実感できる展示にしたかったんですね。人体に服を着せた時に、服だけじゃ足りない、ヘアが足りない!って。ショーにおいてヘアとメイクは不可欠な要素。マックイーンの壮観な仕事は、服だけでは半分しか見せないことになってしまう。それまでにしたことがなかったことだけど、ニコラに連絡をとったんです。ヘアを再現してもらえないかって。展示会終了後は美術館の所蔵品となります」

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アレキサンダー・マックイーンによるジバンシィの1997年春夏クチュールコレクション。ショーの映像、Nicolas Jurnjack(ニコラ・ジューンジャック)によるヘアピースも見ものだ。photos:Mariko Omura

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左: マックイーンによるジバンシィのセカンド・クチュール・コレクションより。 右: アレキサンダー・マックイーンがビョークのためにデザインしたドレス。photos:(左)Mariko Omura、(右)©︎ Gautier Deblonde 

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1997~98秋冬プレタポルテコレクションについて。

1996年10月に発表されたその前のシーズンは5ブランドを1部屋割いて紹介しているのに対し、秋冬コレクションは2つのブランドがマネキンで展示されているだけとあっさりしている。存在しないと目が行かないものなので、このシーズンがあまり大きく扱われてないことをスルーしてしまう人もいるだろう。

「このシーズンについてリサーチしたのだけど、展示に値する強いコレクションがなかったからです。1997年3月にあった3つの大きな出来事。第一はアルベール・エルバスがギ・ラロッシュのアーティスティック・ディレクターとしてパリに来たことです。アルベールのことは語らなくては! 取り上げたもう1ブランドはマルティーヌ・シットボン。これは彼女にとってシンボリックとなるコレクションをこのシーズンに発表したからです。フェンディの“バゲット”バッグの誕生もあり、これはコレットを紹介するスペースで展示しています。3つとはいえ、素晴らしいことばかりでは?」  

彼は展覧会の構成として、有名な名前とそれほど世間に知られていない名前を並べてリズムを作る必要があるとも語る。それがアルベール・エルバスとマルティーヌ・シットボンであり、また最後の部屋でバレンシアガのニコラ・ジェスキエールと並ぶジョセフュス・ティミステールなのだ。彼についてはリズムの目的だけではない。「彼は2000~10年に興味をかきたてたクリエイターのひとりだったけれど、一般大衆にその名は知られていません。美術館の義務として、こうした名前を出す必要があるんです」。

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左: アルベール・エルバスはギ・ラロッシュで1997〜98年秋冬コレクションからアーティスティック・ディレクターに就任。カテリーナ・ジェブが撮影したカタログより。 中: マルティーヌ・シットボンのコレクションより。彼女の名前に結び付つくベルベットのフロッキーがここに見られる。 左: ジョゼフュス・ティミスターによるファーストコレクション。photos:(左)©︎ Katerina Jebb、(中)© Paris Musées / Palais Galliera, Paris、(右)Mariko Omura

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ラクロワが10周年を祝い、ヘルムート・ラングがパリを去った。

アレクサンドルの多数の驚きの中には、1997年10月に開催されたショーがヘルムート・ラングの最後のパリ・コレクションだったことだ。

「モード界で再びパリが国際的な注目を集めることになった時に、彼はパリを去ることにしたんですよ! 彼の周囲にいた人たちはこれに衝撃を受けたと語っています。1986年からパリで発表をし、メジャーなクリエイターの代表格である彼がニューヨークへ拠点を移すのは裏切りだ、とも。パリのモード界との関わりでいうと、彼の出発は象徴的な出来事でもあるんです。ラングはミニマリスムの唱導者。僕にとって1997年というのはミニマリスムの終焉の時で、ガリアーノやジャン=ポール・ゴルチエといったバロックやシアトリカルな方向への回帰の年だからです」

ヘルムート ラングのパリ最後のコレクションを展示する部屋のひとつ前で、この年の7月に行われたクリスチャン ラクロワのメゾン創設10周年を祝うクチュールコレクションからドレス2点を見ることができる。このショーについて、アメリカ版「ヴォーグ」誌で編集長アナ・ウィンターがミニマリスムの時代に話題にされなくなっていたクリスチャン ラクロワが見事な回帰を果たしたと賛辞しているそうだ。素晴らしい色彩の素晴らしいコレクション。これを展示できるのは幸せだと、アレクサンドルは個人としても喜んでいる。

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左: パリでの最後のショーとなった、ヘルムート・ラングの1998年春夏コレクションより。 右: クリスチャン・ラクロワによる1997〜98年秋冬クチュールコレクション。photos:(左)©︎ Courtsy of Helmut Lang-art、(右)Mariko Omura

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ヴェルサーチの死が物語ることは?

展覧会での展示はパリのブランドが多いけれど、それはモードが表現される中心地ゆえのことで、アレクサンドルは世界を対象にこの展覧会を考えたという。たとえばイタリア人で米国フロリダに死したクリエイターのジャンニ・ヴェルサーチについても展覧会は語っている。ダイアナ妃の死は覚えていても、ヴェルサーチの暗殺は記憶に残っていないというアレクサンドル。ジョン・レノンさながらの悲劇的な最期を彼が迎えたことに、動揺させられたそうだ。

「ジャンニ・ヴェルサーチはポップスターでした。19世紀半ばから20世紀のモード史において、ファッションクリエイターがセレブリティとしていかに認められていったのか。クチュリエのシャルル・フレデリック・ウォルトは社交界のソワレのためのドレスを作っても、自分がソワレに招待されることはありませんでした。シャネルもそうでしたけど、彼女はそれに対して戦い、成功します。ポール・ポワレは自分でソワレを催していました。20世紀の初め、クチュリエたちは肉屋やパン屋と同じ搬入商人にすぎず、彼らはパーティには招かれなかった。クリスチャン・ディオールがそうした状況を逆転させ、イヴ・サンローランはスターとなり、そしてジャンニ・ヴェルサーチはレッドカーペットのポップスターのひとりになるんです」

展覧会でも明記されているが、7月22日に行われた彼の葬儀にはその39日後に交通事故で亡くなることになるダイアナ妃も参列していた。

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左: ジャンニ・ヴェルサーチによる最後のクチュールコレクション。 左: 兄の死後、ドナテラ・ヴェルサーチェが1998年春夏コレクションを発表した。photos:(左)Mariko Omura、(右)©︎ Gautier Deblonde

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太陽が地球を回転する会場構成のアイデア。

「太陽が地球のまわりを1年で一周することをフランス語ではレヴォリューションといいます。この回転を来場者が体験することは、おもしろいぞ、って思った。また1997年というは一種の革命(レヴォリューション)年ですよね。こんなことが頭にあり、円を描く会場構成によって、来場者はこれまでとは異なるガリエラ美術館体験ができるのではないだろうか、と。展示内容とコースは僕が考え、セノグラフィーはジャン=ジュリアン・シモノが担当しました。彼は僕の頭の中にあったそのものの以上の、より素晴らしい提案を持ってきてくれました。建物の中央に彼はポイントを置き、そこからすべての区切りが発してるんですよ。まるで爆発するように!」

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左: 展覧会場のエントランス。中央の数字の右側で1996年10月が始まり、ぐるりと会場を一周して数字の左側の1997年10月で展示が終了する。 右: カタログ(39ユーロ)だけでなく、入り口で入手できるガイドにも展示品以外の1997年の出来事について掲載されている。またそこに掲載されている見取り図を見ると、会場構成の意図を理解しやすくなるはずだ。photos:(左)©︎ Gautier  Deblonde、(右)Mariko Omura

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1997年を知らない世代はどんな反応を?

「とてもポジティブです。僕(33歳)と同世代、その下の世代の人間には多くの驚きがあり、何よりも興奮があります。展示の服、大きなスクリーンに流れるショーのビデオを前にして、いまの時代に欠けているクリエイティブなエネルギーに会場で浸かることの興奮があります。いまのクリエイターたちが抱えているのは不安が固まった力。環境問題、女性の地位、ダイバーシティーといったことへの問いかけを要求され、またソーシャルメディアの凶暴な反応があって、自分の提案が受け入れられないことへの恐怖、数字面への不安から、自分のクリエイションへの一種の自己検閲のようなことを行うようになっています。この1997年にあったクリエイティブなエネルギーが、いまの時代には欠けている。僕が願っているのは、1997年に比肩できるよう2023年に改善が見られることです」

さて1997年を知らない世代でもファッションに関心がある人は、この展覧会を見て思うのではないだろうか。なぜジャックムスがないの?と。

「2020年1月にジャックムスは『1997年』というコレクションを発表しています。1997年というのは、彼が初めて服を作った年なのです。楽しい話題ですよね。彼のメゾンにコンタクトをしたのだけど多忙だったのでしょう。あいにくと返答が得られなかった。承諾があったら、この展覧会で展示できただろうと思います」

1997年に7歳のシモン・ポルト君が麻のカーテンを使ってママのために作ったスカート……見てみたかった!と、ちょっと残念がらせるエピソードである。

『1997 Fashion Big Bang』
会期:開催中~2023年7月16日
Palais Galliera
10, avenue Pierre 1er de Serbie
75116 Paris
開)10:00~18:00
休)月、5月1日
料金:15ユーロ(予約が望ましい)
www.palaisgalliera.paris.fr

editing: Mariko Omura

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