
ドラクロワ(1798-1863)☆
久しぶりにルーヴル美術館( Musée du Louvre)へ出かけました。
いつもわちゃわちゃと入館時に混み合ってるイメージと広過ぎて目的を絞らないとヘトヘトになる…そんな理由で最近はちょっと足が遠のいていましたが、これは見逃せない!と出かけたのが“Delacroix”(ドラクロワ)回顧展。
本展では1820年代のサロンへの出品から最晩年の作品まで180点におよぶドラクロワの絵画作品と未公開作品が展示され、1963年の生誕100周年記念展以来となる画家の回顧展。
こんなに有名画家なのに63年以来これまで回顧展が開催されなかったことが意外に感じながら鑑賞スタート。
人気の画家なので混雑を予想していたものの、混み合っていたのは最初の大きな作品が展示された一角だけで、
コーナーを進むうちにどんどん人は少なくなり、静かにゆっくりじっくり鑑賞することができました。
ドラクロワといえば、まず思い浮かぶ作品は1830年にフランスで起きた7月革命に触発されて描かれた「民衆を導く自由の女神」。
トリコロールの旗を手に民衆を先導する女性像はフランスのシンボルとして不動の人気で紙幣にもなっています。
彼女の左のシルクハットの人物がドラクロワだと言われているそう。
引き寄せられるようにググっと近づいて女神を見上げました。(油絵なので光る…)
ルーヴル美術館所蔵作品なのでこれまでに繰り返し観ていますが、やはり何度観ても飽きないドラマチックな大作。
1798年にパリ近郊のシャラントン生まれたFerdinand Victor Eugène Delacroix(フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ)は、父は政治家、母はルイ16世に仕えた宮廷家具製造家の娘だったこともあり、芸術が身近な上流階級の家庭で不自由なく育ちました。
幼い頃から音楽の才能があったそうですが、父の死で音楽の道を断念。
そしてパリの名門リセ・アンペリアルに入学すると成績優秀。
(そう知ると自画像も頭脳明晰顔に見えてきた…)
ある日、学校をさぼってルーヴル美術館へ行った彼はティントレットやルーベンスに感動して画家になることを決意。
18歳で国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学。
先輩のThéodore Géricault(テオドール・ジェリコー)の作品「メデューズ号の筏」に感激し、自身も船をモチーフに描いたのが「ダンテの小船」で、これがサロン初出品作品で入選。
当時愛読していたダンテ・アリギエーリの代表作「神曲」の中のInferno(地獄篇)第8歌の場面。
この作品の大きさは189×264cm、前述の「民衆を導く女神」は259×325cmといずれもかなり大きく、私のカメラには綺麗に収まらず…。
とにかくその迫力は圧巻。
ドラクロワが26歳の時に崇敬する先輩ジェリコーが32歳の若さで死去。
その死をひどく悲しみ、ジェリコーの意思を引き継ぐべく制作に励んだ彼の次なる作品が「キオス島の虐殺(死あるいは隷属を待ち受けるギリシア人の家族)」。
これは1820年にオスマン帝国の圧政支配に抗う形で会戦したギリシア独立戦争の実話で、オスマン・トルコ軍によるキオス島住人に対する虐殺的行為を描いた非常に社会性の強いと言われる作品。
当時「これはキオス島の虐殺どころか、絵画の虐殺だ」と非難を浴びるも、この絵は国家がお買い上げ。
そんな問題作をなぜに国家がお買い上げ?!と思ったら、それはドラクロワが実は大物政治家の隠し子だからという説があるそう。
ドラクロワの実の父親はシャルル・ドラクロワではなく、フランスの外務大臣のシャルル=モーリス・ド・タレーランという超大物政治家だと言う説。その根拠は色々で実際かなり有力説なのだそう。
こうして画壇に大物新人としてデビューしたドラクロワは、サロンに作品を出品し続けるもその評価は賛否両論。
サロンで非難の嵐だったと言われる「サルダナパールの死」。
これは19世紀初頭に活躍した英国を代表する詩人ジョージ・ゴードン・バイロンの詩集(戯曲)「サルダナパロス」に着想を得たもの。
好き放題やっていたサルダナパール王の圧政に耐えかねた民衆が反乱を起こします。
サルダナパール王は自分の財産をすべて破壊し、愛妾を皆殺しにするよう兵士に命じ、宮殿に火をかけたシーン。
怖い絵ではあるけれど、腹をくくったというか、ジタバタしない王の冷めた顔や態度になぜかちょっと惹かれます。
私の中ではドラマチックでセンセーショナル、サイズの大きな作品のイメージが強いドラクロワですが、本展では挿絵やデッサンも数多く鑑賞できそれも面白かったです。
フランスがナイジェリアを征服後、1832年にドラクロワはフランスのモロッコ使節団のメンバーとしてスペイン、モロッコ、ナイジェリアなどの北アフリカの国々を巡りました。
その旅での経験はその後の作品に大きく影響を及ぼしました。
その旅の様子を描いた絵日記風のメモやスケッチが残されていました。
絵が描けない私は旅の思い出は写真に撮るだけですが、描けるならこんな風に行く先々でササっと描き、言葉を添えたら色濃い旅の思い出が残せるのに…と思う。
40代で大家となったドラクロワは、政府からの注文もひっきりなしで多忙な毎日。
個人的に気になった彼の恋愛事情ですが、生涯独身。
30代後半から亡くなるまで家政婦のJeanne-Marie le Guillou(↑肖像画)が献身的にお世話をしてくれたそう。
(↑ハムレットとホレイショー)
そんな成功の一方でドラクロワがなかなか思うようにいかなかったのが画家としての名誉であるアカデミー会員になること。
7回落選して50代になって8回目でようやく会員に☆(まさに七転び八起きだ…)
1863年8月13日(もうすぐ命日!)に65歳で亡くなりましたが、残した作品は6000点以上。
久しぶりのルーヴルでドラクロワ作品を満喫しました。
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