
グラン・パレで「錬金術師」ゴーギャン展☆
只今グラン・パレで開催中のGAUGUIN L'ALCHIMISTE(「錬金術師」ゴーギャン展)に行ってきました。
この日は朝からとても寒かったのでしっかり着込んで出かけました。
で、どうでもいいことですが、パリに暮らして驚くことの一つが同じ空の下にいながら体感温度が随分違う人が結構いること。
観光地なので世界中から色々な人が訪れるとは言え、ヒートテック&カイロ装着でも寒がる私の前にTシャツ姿の人…。
私としては基礎体温を少しでもあげるべく、この冬も温活!と誓う。。
画家ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin)と言えば、真っ先に浮かぶのはタヒチの女性や自然を描いた作品の数々。
本展でも数多くのタヒチ作品が展示されていました。
オルセー美術館を始め数々の印象派関連の展覧会で目にしてきたゴーギャン作品達ですが、彼のバイオグラフィーとともに系列的に作品を追う大規模な特別展は初めてだったので今回新たに知ることばかりでした。
まずは年表でざっくりその人生を確認したら、じっくりと作品を鑑賞へ。
1848年、共和主義者のジャーナリストであるクロヴィス・ゴーギャン(父)とアリーヌ(母)の間にパリで生まれたゴーギャンは、10代後半の頃、航海士として南米やインドはじめ世界中の海を巡りました。
二十歳から数年間は海軍に在籍し、普仏戦争にも参加。
その後、株式仲買人となり(意外な経歴!)、デンマーク出身の女性メット=ソフィー・ガッドと結婚し5人の子供が生まれる。
しばらくはサラリーマンとして働く傍ら趣味で絵を描く日曜画家だったそう。
30代半ばから画業に専念。
1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴェンを拠点として絵画制作し、1888年にはあのゴッホに誘われ南仏アルルで共同生活を送る。
そこで起こったゴッホの耳切り事件は有名な話。
1891年、西洋文明に絶望し、理想の楽園を求めてフランス領のタヒチ島に渡りました。
しかし既にタヒチも文明が進み、思ったより原始的なソバージュな魅力はなく、彼が夢見た楽園はそこなかった…。
2年後にパリに帰国したものの、一度捨てた家族には受け入れられず、絵もなかなか売れず、再びタヒチへ。
“La Maison du Jouir”(ラ・メゾン・デュ・ジュイール=快楽の家)と名付けた家を立てました。
(その木枠はオルセー美術館所蔵ですが、期間中はこちらで展示)
制作の傍ら現地の女性パウラと同棲を始め子供が産まれるも死去。
更に長女アリーヌの死の知らせを受け、立て続けの不幸に以前から悪かった体調は更に悪化。
この精神的、肉体的な苦痛を表現した作品が「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」。
↓
そして自殺未遂。
その後は体調の悪化と裁判沙汰で1903年に死去するまでの2年間は制作をしながらも苦悩の日々。
名誉毀損事件で禁固刑が宣言された1903年3月に控訴の準備を始めていたが、この時にはもう体力的にも限界で、その2か月後の5月8日に突然倒れそのまま死去。享年54歳。
と、ざっくりメモのゴーギャンの人生ですが、これまで作品は鑑賞しながらも彼の人生、背景はほとんど知らなかったことを思い知りました。
そんな彼の人生を知ってから観るタヒチの絵は以前よりちょっと感慨深く感じました。
こうして今では名高い世界的な画家として知られるものの、生前は絵も売れず苦労が多かった芸術家の一人。
今更ながら彼の苦悩に満ちた人生を知ると同時に、本展ではゴーギャンは画業だけでなく、陶芸・版画・彫刻・文筆・など多岐にわたって創作活動をしていたマルチな才能の持ち主だったことを知り、特に個人的には彼の陶芸作品に惹かれました。
この壺欲しい!そんな気持ちに。
自画像の彼は、今はどんな気持ちでこちらを見つめているのか?!
絵画だけではない多面的なゴーギャンの魅力を知ることのできる大展覧会でした。
☆Belle et Bonne Blogも絶賛更新中☆
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<info>
GAUGUIN L'ALCHIMISTE(錬金術師ゴーギャン展)
*2018年1月22日迄
Grand Palais, Galeries nationales
3 Avenue du Général Eisenhower, 75008 Paris
http://www.grandpalais.fr/fr/evenement/gauguin-lalchimiste
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