西側亡命から30年、バレエ人生を疾走したヌレエフ展をオペラ座で。

2023年はルドルフ・ヌレエフ(1938~1993年) の没後30年だった。没後20年にはガルニエ宮でヌレエフ ・ガラが行われたが、30年に際してはパリ・オペラ座のために彼が手がけた『くるみ割り人形』『ドン・キホーテ』『白鳥の湖』の3作がシーズン2023/24年にプログラムされて彼にオマージュを捧げることに加え、オペラ・ガルニエ内のミュージアムでBnF(フランス国立図書館)とのコラボレーションによるパリ・オペラ座との強い絆にフォーカスを置いた『Rudolf Noureev à l'Opéra』展が12月21日からスタートした。

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オペラ・ガルニエ内で開催中の『オペラ座のヌレエフ』展のポスター。

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シーズン2023/24のルドルフ・ヌレエフ作品から。2023年12月8日〜2024年1月1日『くるみ割り人形』(1985年)。photo:Sébastien Mahté/ Onp,

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シーズン2023/24のルドルフ・ヌレエフ作品から。3月21日〜4月24日『ドン・キホーテ』(1981年)。photo:Julien Benhamou/ Onp

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来日公演で踊られる『白鳥の湖』(1984年)はオペラ・バスティーユで6月21日から7月14日まで。photo:Ann Ray/ OnP

キーロフ・バレエ団の団員として参加したパリ公演後に西側亡命した23歳の1961年以降、1993年にエイズの合併症で亡くなるまでの功績を振り返る展覧会だ。この約30年間の彼について、ダンサーとして、振り付け家として、そしてバレエ団芸術監督としての章に分けて、写真、デッサン、コスチューム、ビデオでそれぞれ紹介。彼がバレエ界に残した業績を知らないいまの世代には、発見の多い展覧会だろう。

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ダンサー

この章では亡命以降の彼のダンサーとしてのキャリアを追っている。1963年から英国ロイヤル・バレエ団との契約で、ゲストとして20歳近く年上のマーゴット・フォンテーヌとペアを組んで踊った。このふたりがパリ・オペラ座で初めて踊るのは1966年。それ以降も彼はゲストとしてオペラ座のレパートリーの『ジゼル』『白鳥の湖』などを踊り、また、好奇心あふれる彼はマーサ・グレアム、ローラン・プティ、ピエール・ラコットなどスタイルが異なる複数の作品でもオペラ座の舞台に立った。カリスマ性のあるダンサーである。彼のステージは演目がなんであれ観客を熱狂させたのだった。

1983年のオペラ座バレエ団芸術監督に就任後も、1シーズンについて40公演踊るダンサーとしての立場も維持した彼。それによって自分が創作したバレエを踊り、また過去の作品を再解釈したヌレエフ版も自分で踊ることができたのだ。なお、彼のオペラ座での最後のステージは1990年。この時すでに自分の病気を知っていた彼はモーリス・ベジャールの『さまよえる若者の歌』のパートナーにパトリック・デュポンを希望したという。

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"新ニジンスキー"とメディアが賞賛したルドルフ・ヌレエフの踊り。photo:Mariko Omura

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左: 『白鳥の湖』でヌレエフが着用したコスチューム。 右: 『ペトルーシュカ』を踊るヌレエフ。photos:Mariko Omura

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左: 『眠れる森の美女』のヌレエフ・ルドルフのためのコスチュームのプロトタイプ。 右: ローラン・プティの『若者と死』を踊ることになったヌレエフとプティを取り上げた雑誌の記事を展示。photos:Mariko Omura

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振付家

亡命以前から創作への関心を持っていた彼。オペラ座バレエ団のレパートリー中、ヌレエフ振り付けのバレエは13作品ある。振り付けは彼自身がゼロから創作した作品、マリウス・プティパが19世紀に創作した過去のバレエを再解釈した作品の2タイプだ。

レパートリーの中でいちばん古いのは、1974年の『ラ・バヤデール第3幕』のオンブル。次いで1979年の『マンフレッド』は彼による100%創作である。彼は怪我をしたため、初日ではなく公演期間の最後に踊ったそうだ。1981年には『ドン・キホーテ』を創作。パトリック・デュポン、シリル・アタナソフとともに彼もバジリオを踊り、再解釈した1984年の『白鳥の湖』ではマニュエル・ルグリ、ローラン・イレールなどとともに彼も王子役を踊った。振り付けの最後の仕事となったのは、1992年にオペラ・ガルニエで踊られた『ラ・バヤデール』である。病を抱えながらの創作だった。

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1981年、『ドン・キホーテ』をパリ・オペラ座のために創作。コール・ド・バレエのダンサーたちとのリハーサルにて。カリスマ性のある彼は周囲の誰をも、そのキャラクターで魅了した。photo:Mariko Omura

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写真の『ライモンダ』(1983年)を始め、彼がパリ・オペラ座のために創作した作品のコスチュームやデッサンなどがバレエごとに展示されている。photo:Mariko Omura

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シャルル・ペローの原作を30年代のハリウッドに舞台を置き換えた『シンデレラ』は1986年の創作。森英恵が衣装デザインをしたので、日本でも有名な作品だ。photo:Mariko Omura

13作品中、『マンフレッド』については抜粋がいまもガラで時々踊られるものの、1982年に英国で初演され1984年にレパートリー入りした『La Tempête(嵐)』は『ラ・バヤデール第3幕』とともにいちど踊られたきりである。オペラ座のために1984年に創作された『Bach-Suite(バッハ組曲)』も、シャンゼリゼ劇場での初演だけ。1985年に創作しレパートリー入りした『Washington Square(ワシントン・スクエア)』は1986年にミックスプロで再演された限り......これら作品がいつか再演されることはあるのだろうか?

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左: 1984年、公演『ヌレエフ/リファール』でレパートリー入りした『La Tempête』。 右: 1985年にパリ・オペラ座のために創作された『Washington Square』。パトリック・デュポン、ローラン・イレーフ、フローランス・クレール、イザベル・ゲラン、モニク・ルディエールなどがヌレエフとともに踊った。photos:Mariko Omura

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バレエ団芸術監督(1983〜1989)

彼がバレエ団の芸術監督を務めたのは任命された翌年の1983年からで、パリ・オペラ座総裁の座にピエール・ベルジェがついた翌年1989年に任務を去る。なおオペラ・バスティーユが完成するのは、その1カ月前のことだ。つまり古典大作と呼ばれるヌレエフ作品がオペラ・バスティーユで踊られることになるのは、その後のことである。

芸術監督時代、彼はシーズンごとのプログラムを組み立て、ダンサーを配役し。彼が在職中にエトワールに任命したのはシルヴィ・ギエム、イザベル・ゲラン、エリザベット・モーラン、マニュエル・ルグリ、ローラン・イレールの5名である。その後"ヌレエフの子どもたち"と呼ばれることになる彼らを作品に配役し、ヌレエフはオペラ座バレエ団に新たなる輝きをもたらすことに成功した。この間も振り付け家としての仕事を続けた彼だが、芸術監督としてコンテンポラリーの振付家たちをパリ・オペラ座に招いている。ウィリアム・フォーサイス、マーサ・グレアム、モーリス・ベジャール、ジェローム・ロビンス、ローラン・プティ......いまのパリ・オペラ座で我々が作品の鑑賞を楽しみにする振付家たちの名前が続く。

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ヌレエフがコンテンポラリーの振付家を招き、いまのパリ・オペラ座のプログラムの基礎がつくられたようだ。photo:Mariko Omura

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伝説的アイコン

展覧会の締めくくりはアイコンとしてのヌレエフだ。西側亡命して伝説の人となった1961年から1992年に亡くなるまで、人間的な魅力、超人的なダンスゆえ彼はダンスの世界だけでなくいまで言うところの"セレブ"として華やかな話題を振りまいた。パーティでは深夜から早朝まで遊ぶ彼の姿が見られ、またキリム絨毯やネオクラシックの調度品など彼好みに整えたパリのセーヌ河に面したアパルトマンには世界中からジェットセッターが訪れて......彼の遺品は没後1995年クリスティーズによって3回のオークションで散逸してしまった。

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左: 1986年オペラ・ガルニエの屋根の上でコレット・マッソンが撮影。色やモチーフのチョイスがいかにも"ルディ"スタイルだ。 右: ヌレエフのショソン。photos:Mariko Omura

スター性のあるダンサーである。映画界が放っておくはずはなく、彼はケン・ラッセル監督の『ヴァレンティノ』(1977年)、ジェームズ・トバック監督の『愛と死の天使』(1983年)に俳優として出演している。

展覧会場のいちばん奥の部屋に設置されたスクリーンではダンスの映像に加え、インタビューなどTV番組からの抜粋も流されている。その中には、1992年10月、最後の振付作品となった『ラ・バヤデール』の公演終了後に幕が下りたステージ上で、車椅子のヌレエフがダンサーたちに囲まれて当時の文化大臣ジャック・ラングからCommandeur des Arts et des Lettres(芸術文化勲章)を授けられるシーンが含まれている。この時、その劇場内で翌年1月12日に彼の葬儀が行われることになるとは誰が想像しただろうか。マニュエル・ルグリやシャルル・ジュードなど彼が好んで配役したダンサー6名が棺を担いで大階段を降りるシーンは、ルドルフ・ヌレエフがどれほど例外的存在であったかを改めて思い知らされる。そのヌレエフを最も偉大な20世紀ダンス界の人物としてレイフ・ファインズが描いた映画『ホワイト・クロウ 伝説のダンサー』が2018年に公開されたことは大勢の記憶に新しい。

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過去のTV番組などを含むヌレエフにまつわる映像より。1993年1月12日、オペラ・ガルニエ内で行われたルドルフ・ヌレエフの葬儀では彼と個人的に親しかった文化大臣ジャック・ラングが悼辞を読み上げた。photos:Mariko Omura

『Rudolf Noureev à l'Opéra』展
会期:開催中~4月5日
Bibliothèque -musée de l'Opéra Garnier
Opéra Garnier
※入り口 rue Scribeとrue Auber のコーナー
開)10:00~17:00
休)月、祝
料金:15ユーロ(ガルニエ宮自由見学チケットに含まれる)
www.operadeparis.fr/visites/expositions/rudolf-noureev-a-lopera-de-paris

editing: Mariko Omura

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