リュドミラ・パリエロがアデュー。またひとり偉大なエトワールがパリ・オペラ座を去った。
パリとバレエとオペラ座と 2025.04.30
4月17日、エトワールのリュドミラ・パリエロのアデュー公演が行われた。彼女が42歳の誕生日を迎えるのは今年の10月なので、1シーズン早めてパリ・オペラ座を去ったのだ。彼女が選んだ最後に踊る演目はマッツ・エクの『アパルトマン』。公演後、彼女のステージ上での別れの儀式は20分近く続いただろうか。素晴らしい最後のパフォーマンスに対して、そして彼女が築いた22年間のキャリアに対して、さらにこれから彼女が切り開く未来に対して、観客とステージ上の仲間たちが抱く温かい想いがガルニ宮に満ちあふれていた。清々しい宵。繊細な泡の上質なシャンパンを飲んだような、心地よい酔いすら感じさせる一夜だった。



リュドミラがパリ・オペラ座バレエ団に正式入団したのは2005年。その前に2年間契約団員を務めている。2007年にコリフェ、2008年にスジェ、2010年にプルミエール・ダンスーズに昇級。エトワールに任命されたのは2012年3月12日、『ラ・バヤデール』でガムザッティ役を踊った晩のことだ。この時期、彼女が配役されていたのは「ジェローム・ロビンス/マッツ・エク」の『アパルトマン』であり、『ラ・バヤデール』には配役されていなかった。しかし、映画館でのライブ上映もあるという3月12日の公演でガムザッティ役を踊るダンサーが怪我続きで誰もいないということになり、当日の朝に2010年5~6月の公演でガムザッティ役を踊ったことがあるリュドミラに当時の芸術監督ブリジット・ルフェーヴルとメートル・ド・バレエのローラン・イレールが白羽の矢を立てたのである。
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『ラ・バヤデール』でエトワールに。その驚きの背景を再び。

13年前のことだ。このエピソードを知らないバレエファンもいることだろう。この日をリュドミラに振り返って語ってもらった。
「この晩、踊るかどうかの決断は私に任されてました。私がイエスと言わなかった場合、彼らが別のアイデアを用意していたかは知りません。いずれにしても、まずは私というA案を試そうと思ったのでしょうね。その日の朝、ソロル役のジョジュア・オファルトと30分稽古をし、ニキヤ役のオーレリー・デュポンと争いの場面を合わせてみて......そしてローランと目を見合わせて、OK!という感じにその晩踊ることを決めました。きっとうまくゆく、と彼は私を信頼してくれました」
これは特殊なケースとはいえ、オペラ座ではこうした突然の事態は珍しくなく、その都度なんらかの解決策を見いだして公演を実現させている。オペラ座の仕事でよく語られるのは、稽古にたっぷりと時間をかけること。リュドミラは「何度も何度も繰り返して稽古をした役は、簡単に戻ってきます。身体に残っているんですね。身体の動きの自動性を簡単に見いだせます。逆にあまり稽古に時間をかけていない作品は消化時間の不足から忘れるのも早いんです」。この挑戦に成功し、彼女はその晩、エトワールに任命されたのである。
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リュドミラが下した大きな決断。

リュドミラのバレエ人生を振り返ってみると、いくつかの大きな決断を下している。その結果が現在我々が知る彼女が築いた素晴らしいキャリアを導いているのだが、決断は直感からか熟考の結果だろうか。
「物事を決めるのにかける時間はケースバイケースですが、常に熟考があります。それは自分が取るべき道か否か、リスクを冒してでも試したいことか......といったように。17歳の時、祖国アルゼンチンを離れてチリに行きました。それはサンティアゴ・バレエ団に入団するため。プロのダンサーとしてのキャリアをスタートしたかったので、カンパニーからの提案に一瞬の躊躇もなく決めました。アメリカのABTでの契約を選ばずパリ・オペラ座に来た時も、ためらいはなかったですね。芸術面においてフランス、ヨーロッパに惹かれていたので。アメリカに比べてダンスのヘリテージやクリエイションがよりあることからです。先にお話しした『ラ・バヤデール』の時は、当日の朝のことなので考えている時間など全くなくって(笑)。ステージに出る準備が自分にできていると感じられるかどうか、ということについて考えました。オペラ座を1年早く去ると決めた時は熟考の時間がほかの場合に比べて、たっぷりありました。期限のプレッシャーがなかったからです」

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引退を1年早めて、新しい扉を開く。
昨年12月半ば、彼女はインスタグラムで4月17日にマッツ・エクの『アパルトマン』の"ビデ"を踊って引退すると発表した。オペラ座の引退年齢42歳を迎えるシーズン2025~26での引退ではなく、これは突然のように思えたが本人はシーズンの頭に決めていたことだという。
「1年アデューを早めることの決定打となったのは、別のことを発見するという自分の欲ゆえ。心の声に耳を傾けた結果なんです。ダンスを続けるか、未来を築くためにいまそれを始めるか......という熟考がありました。少し前から、私は別の道に進むこと、ほかの扉を開くことを試しています。それはいまとは反対側に回って、指導するというダンスの継承です。若いダンサーたちが技術的、精神的に自分を作り上げてゆく工程を共に歩むことです。海外も含め、研修も行っています。さらに、いかにグループをマネージメントするかという管理方面についても少しづつ進めています。その面で経験のある知人の教えを受けたり......。経営面についても、といまは学びの時期なんです。そうですね、いつかどこかの劇場のディレクターというのも気にいる仕事ではないかと思います」
とはいえ、中国やアルゼンチンでのガラの予定があり、しばらくは踊り続けるそうだ。いまのところ8月15日まで予定が決まっている。それらが全て終わってから、いよいよ新しい世界と乗り出すことになるのだが、いずれにしてもダンスの世界に留まるのは確かなことだと語る。
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印象に残るその視線。

コンテンポラリー作品、ヌレエフの古典大作、ドラマティック・バレエ......どのジャンルでも"アーティスト"とその仕事が評価された彼女。技術面は常に無駄のない美しさを披露し、芸術面では演劇性豊かに観客をストーリーに招き入れ......。何を踊っても忘れられないのは、彼女の視線使いの見事さだ。日頃はステージ上のダンサーに向けられる彼女の視線を観客が正面から見る機会があったのは『マイヤリング』でのこと。第3幕でマリーとルドルフが心中を決めて寝室へと移動する直前、銃を手にした彼女は正面の観客右席側を向くのだがこの時のリュドミラ演じるマリーの燃えるような断固たる視線は強烈なものだった。
『赤と黒』で共演したロクサーヌ・ストヤノフがこの作品の思い出として挙げたのも、リュドミラの強い視線である。それはリュドミラ演じるレナール夫人と子どもの家庭教師ジュリアン・ソレルの仲を密告する手紙を自分で書いたメイド(ロクサーヌ)が郵便物が来たふりをして夫レナール氏に手渡すシーンでのこと。真実を見抜いたレナール夫人役のリュドミラがロクサーヌに投げつけた、これ以上ないという張り詰めた射るような視線。ロクサーヌは鳥肌の立つ思いをしたそうだ。また3月1日に『オネーギン』で彼女と踊りアデュー公演を行ったマチュー・ガニオは彼女のアデュー当日、インスタグラムで「我が友よ、その視線が早くも恋しいです」と彼女にメッセージを送っている。リュドミラ本人は視線の仕事を意識して行っているのだろうか。

「舞台上で経験を積むと、振り付けを覚えて動きをマスターしている身体は自動的に動きます。そうすると視線を一種の起動装置のように活用することができるんです。動きは身体に任せ、自分はパートナーを見て、ほかを見て......そうすることで作品の中により入り込めます。また周囲をコール・ド・バレエに囲まれてソリストとして踊る時、みんなに参加してほしいんです。モチベーションを高めるために彼らのエネルギーを感じたいんですね。つまり、彼らの注意を独占する必要があります。こうしたことは視線を介して成功すること。視線は大切な道具なんです。年数を重ね経験を積んでゆき、この重要性が理解できました。相手役やほかの人からの視線を得ることも快適で満足が得られることですね。それゆえに、マチューのアデュー公演で一緒に踊った『オネーギン』はとても難しいものでした。最後だから存分に彼との視線のやり取りを味わいたいのに、このバレエの最後は視線を交わすことなく終わるものだったのですから辛かったですね」

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マッツ・エクの『アパルトマン』でアデュー。
シーズン2025~26の『椿姫』がリュドミラのアデュー公演という噂があった。しかし彼女が引退を1年早めると決めた時点で、この作品のプログラム入りがコンファームされていなかったそうだ。
「ローラ(・エケ)、マチュー(・ガニオ)、ミリアム(・ウルド=ブラーム)、私、それにこれからドロテ(・ジルベール)というようにエトワールのアデューが複数あって、誰が何を踊ってオペラ座を去るか......と。私は『マルグリットとアルマン』を希望したり、ミックスプロで『Dancers at the gathering』もいいかなと思ってました。グループのバレエというのも悪くないのではないかと。『椿姫』では過去にマノン、プリュダンスを踊っています。確かに主人公マルグリットに取り組むのは私の夢のひとつでした。でも、いまの私には別の夢がありますから(笑)。これをフラストレーションとか放棄というようには考えたくないですね。人生には成功することもあれば、成功しないこともあって......タイミングの問題ですね。とにかくいまの私は新しい冒険を発見できることに満足しているので」
1年前倒ししてオペラ座を去ると決めたのは今シーズンの頭だが、その2~3年前から、彼女は何かを踊るたびにこれが最後!とプレ・アデューという感じで作品に向き合っていたそうだ。そして、最後のシーズンとなる2024~25年はウイリアム・フォーサイスのクリエイション、『マイヤリング』、『オネーギン』そしてマッツ・エクの『アパルトマン』と、彼女が踊る作品の予定はとても素晴らしいものだったのだが......。

「ところが今シーズンの最初ですね。待ちに待っていたフォーサイスのクリエイションの最中に骨が"ポキッ!"と感じに。それでこの素晴らしい冒険の予定は終わってしまいました。この怪我の結果『マイヤリング』も踊れず......。でも『オネーギン』という3幕ものの大作を踊り、コンテンポラリーの『アパルトマン』をグループで踊って、と私が好きな異なる2つのタイプの作品で人生のひとつの章を締めくくることができました」
マッツ・エクとの出会いは2011年の『A sort of』。以来、『メゾン・ベルナルダ』『アパルトマン』を踊り、2019年には彼の創作『Another Place』に参加し、そして今回の『アパルトマン』と彼の作品がオペラ座で上演されるたびに彼女は配役されてきた。
「彼の身体言語、スタイルについて仕事をするたびに少しずつ知るようになって......。彼の視線はこちらをドギマギさせるものがあって、仕事への打ち込み方には心を捉えられます。こうして彼の世界に連れてゆかれるのですね。時の経過とともに互いを知るようになり、ふたりの間にやり取りも増えてゆきました。『Another Place』の創作では彼はもちろん自分が作りたいものがわかっているのですが、お互いの間には芸術的かつ人間的なやりとりがあったんです。彼のアイデアに我々表現者は挑発され、そして彼のアイデアを発展させて、と。こうしたことって強い絆をお互いの間に生み出しますね。リハーサルスタジオで時間を過ごし、やり取りをして......こうすることで人間的なコネクションが生まれるコレオグラファーがいます。そこには何かを課すということはなく、追求や探求、クリエイトの喜びがあるだけ。私をリスペクトして接してくれたコレオグラファーたちには、同じようにリスペクトをお返しすること以外できませんね」
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4月17日、笑顔で手を振ってステージを去ったリュドミラ。
4月17日、アデューの日について語ってもらおう。マッツ・エクの『アパルトマン』はシャロン・エイアルの『Vers la mort』後の20分の幕間に続いて踊られる作品で、閉ざされた緞帳の下からリュドミラが姿を現すことから始まる。この晩は、彼女の姿がステージ上に見えたと同時に拍手が起こり、鳴り止まず。ほかの国と違い、パリ・オペラ座ではカーテンコールではダンサーに拍手が送られるが、ダンサーの出には拍手がないのが常である。拍手で迎えられたことについて彼女はこう語る。


「私がステージで最初にひとりで出るので、もしかすると、とは思いました。作品の進行が拍手によって止まってしまってはいけないので、バレエの流れに集中しようというように心の準備をしてありました。以前、『ラ・シルフィード』をマリインスキー劇場で踊った時にステージに出た瞬間にも拍手がありました。これは観客が"劇場にいて、あなたの舞台を見られることに満足している"という気持ちを示す行為だと思うのでこうして拍手で迎えられるのはうれしいですね。気持ち良いことです」
このアデュー公演には母国アルゼンチンから父親、妹、友だちなどが長旅をしてやってきた。これは素晴らしいギフトを受け取ったようだと語る彼女。この日驚かせられたのは、受け取ったメッセージの量だという。その中には長く会っていなかった人もいれば、コレオグラファーのクリスタル・パイトのものも含まれていたそうで、「ちょっとした言葉、手紙、花、ギフトなど、この1日に世界のあちこちの人々からたくさんのへの心遣いを受け取ったんです。これには心が熱くなりましたね。美しい感動にあふれていました。この日、私はひとりじゃなかったんです。深い感動で悲しみをそそられるより、祝うように務めました。たくさんの愛にあふれ、寛ぎもあり、笑いもあって......美しい祝祭といった感じがあり、私はこの最後にとても満足でした」
22年のパリ・オペラ座人生の中で、もっとも幸せな思い出はエトワール任命で、忘れがたい思い出はマチュー・ガニオのアデューと自分のアデューだというリュドミラ。苦い思い出としては2012年の『マノン』の公演前日に足を骨折したことと、今シーズン最初の怪我を挙げた。

現在POP(Paris Opéra Play)では、彼女のキャリアを振り返ることができる"リュドミラ・スペシャル"14本を視聴できる。バレエはジャン=ギヨーム・バールの『ラ・スルス(泉)』、イリ・キリアンの『Stepping Stones』、ジョージ・バランシンの『Who Care's?』と『水晶宮(パレ・ドゥ・クリスタル)』、クリスタル・パイトの『Seasons' Canon』と『Body and Soul』、ルドルフ・ヌレエフの『シンデレラ』、ピエール・ラコットの『セレブレーション』。ドキュメンタリー6本のうちの1本は『マイヤリング』がパリ・オペラ座バレエ団のレパートリー入りした時のリハーサルを追ったものだ。日本のバレエファンに2023年2月の来日公演『マノン』で別れを告げた彼女だが、POPで改めてそのアーティストぶりを再発見してみてはどうだろうか。



editing: Mariko Omura