【オニール八菜連載 vol.1】4つの国、4つの都市で、世界が舞台のバレエ人生。

パリ・オペラ座バレエ団の最高位エトワールとして活躍するオニール八菜の"いま"をお届けする新連載がスタート。ダンサーとして、ひとりの女性としての彼女にインタビュー。(取材・文/大村真理子)


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photography: James Bort/ Opéra national de Paris

オニール八菜のキャリアについてはこれまで多くのインタビューで彼女が語っているし、またインターネットでも情報を検索できる。連載の初回でもあり、またバレエに詳しくない読者もいるだろうから、東京で習い始めたバレエを現在パリで職業にしている彼女のこれまでを、まずは駆け足で紹介しよう。

東京・世田谷に生まれ、バレエを習い始めたのは3歳の時。8歳で父の故郷ニュージーランドに引っ越してからは現地でバレエを続け、学校の休暇で帰国した時は4歳から通っていた岸辺バレエスタジオでレッスンを受けていた。2008年にオーストラリア・バレエ学校に入り、在学中の2009年にローザンヌ国際バレエコンクールに参加し、第1位を獲得。卒業年の2011年、パリ・オペラ座の外部入団試験を受けてシーズン契約を提案された彼女は、メルボルンに残ってオーストラリア・バレエ団の正団員となるというチョイスもあっただろうが、期間限定にも関わらずパリ・オペラ座の契約を選んだ。なお、その夏からパリ暮らしとなったため、首席で卒業したものの12月の学校の卒業式には出席していない。

パリ・オペラ座では契約更新があり、2年間臨時団員としてステージに立った後、外部入団試験を受けて2013年にカンパニーの正団員となる。そしてコール・ド・バレエ昇級コンクールの結果、入団した翌年からコリフェ、スジェ、プルミエール・ダンスーズと毎年オペラ座のピラミッドをとんとんと上がっていった。2016年からプルミエール・ダンスーズとして活躍し、2023年3月、ジョージ・バランシンの『バレエ・アンペリアル』を踊り、マルク・モローとともにエトワールにダブル任命された。ここにいたるまでのバレエ人生について、時代ごとに一問一答形式で答えてもらうことにしよう。

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●東京時代

ー 岸辺バレエスタジオには、何がいちばん楽しくて通っていたという記憶がありますか?

ここで習い始めたのは4歳の時で、8歳以降はニュージーランドから帰るたびに通ってました。お友だちと一緒に踊るというのがとても楽しかったんです。それに小さい時ってバレエ教室のお姉さんたちに憧れるというのがありますよね。それもあって......でも、何よりも踊るのが楽しくて、ということがいちばんですね。中でも発表会が大きな楽しみでした。人の前で踊るということ、ステージで踊るということ。強い照明が当たった頬の火照りとか、メイクの匂い......こうしたことはいまでも記憶に残っています。

●ニュージーランド、オークランド時代

ー パリ・オペラ座バレエ学校にビデオを送ったけれど返答がなかったのですね?

はい。オペラ座のバレエ学校に行けたらと思ってビデオを送ったのだけど、返答がなかったように記憶しています。でも、それでガッカリするということはなかったですね。というのも2007年のユース・アメリカ・グランプリ(YAGP)の後、オーストラリア・バレエスクールに行くことが決まっていたので、オペラ座はどうなったのだろう、と気がかりに思うこともなくって......。YAGPでもらったオーストラリア・バレエスクールの2週間のスカラシップに行ってみたらとても楽しかったので気持ちはそちらに向いていたんです。

ー 初めてトゥシューズを履いた時はどんな気持ちでしたか?

これは本当にうれしかったですね。RAD (ロイヤルアカデミー・オブ・ダンス) のバレエのメソッドをやってた時なんですが、グレード5が終わってアドバンスド・ファンデーションというクラスになるとポワントが履けるんです。だからグレード5の試験が終わった日にすぐポワントを履いて......。痛かったけれど、そんなことも気にせずにタカタカタカタカやってました(笑)。トゥシューズはその時からずっとフリードです。ほかのも試したことがあるけれど、固いというか履き心地がよくなくって自分の足という感じがしないんです。その点フリードのは手作り感が足に感じられて......だからずっといまもフリードです。

本人のインスタグラムより。チュチュをつけて、ステージで初めてヴァリアッションを踊った11歳の時の写真をワールド・チュチュデーにアップした。

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● オーストラリア、メルボルン時代 

ー バレエ学校時代、コンクールにいくつか参加しています。なぜでしょうか?

コンクールはニュージーランド時代から出ていてました。オーストラリア時代は、学校からローザンヌとYAGPに出ました。そのほかにも小規模のにいくつか......。学校の発表会を除いては舞台で踊る機会がないので、コンクールというのはその良い機会だったんです。優勝したいとか賞が目的ではなくって。なぜ踊りをやってるのかというと、それは公演をするためなのだから。コンクールのために稽古をたくさんする必要があったけれど、小さい頃からそうした仕事が好きだったのかもしれません。

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ローザンヌのコンクール優勝後、オーストラリア・バレエ学校にて取材を受けて撮影された16歳のオニール八菜。photography: gettyimages

ー 16歳の時にオーストラリアで撮影された写真を見ると、いまとあまり変わっていないように見えます。

いいことなのか悪いことなのかよくわからないけれど、生まれた時から顔が全然変わってないんです(笑)。この撮影で着てるのはローザンヌのコンテンポラリーのヴァリエーションの時のコスチュームですね。コンクールの後オーストラリアに帰ったら、新聞とかいくつかの取材があって、この写真はその時のひとつです。ローザンヌのコンクールで初めてヨーロッパに来て、コンクールの後パリとロンドンに寄ったんです。その時にああヨーロッパで踊りたいな、という気持ちが生まれて......それでバレエ団のディレクターが私を気に入ってくれていることは知っていたけれど、学校の最後の年の始めにオーストラリア・バレエ学校の校長先生のところに行って、ほかもチャレンジしてみたいと告げました。先生からは「そうくるかなと思ってた」という反応だったので、これには助けられた気持ちがしました。

本人のインスタグラムより。2009年のローザンヌでの授賞式。

ー オペラ座の外部入団試験の結果、契約団員の提案があったのですね?

そうなんです、オペラ座のコンクールを受けた翌日に、パリからシンガポール経由でメルボルンに戻る時でした。ちょうどシンガポールの空港の乗り換えの待ち時間の時に、フランスの電話番号から電話がかかってきたんですね。ローラン・イレール(当時のメートル・ド・バレエ)からで、その瞬間、私の答えに迷いはなかったですね。ただ、まだオーストラリア・バレエ学校の生徒なので学校にいったんは戻る必要がある、とは伝えましたけど。両親に相談することもなく自分で決めて返答しました。

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● フランス、パリ時代へ

ー パリ・オペラ座で働き始めた時、言葉ができない苦労はありましたか。

パリに来て、最初はフランス語がゼロ! 日本からニュージーランドに引っ越した時は英語も喋れたし、漢字はちょっと大変だったけれど日本人学校だったし。それに何よりも子どもって適応力があるじゃないですか。それに比べると、パリに来てオペラ座になじむのは本当に大変でした。東京からニュージーランドのオークランドに引っ越して、そこからメルボルンへ移ってもカルチャーショックとかなかったので、そうしたことって考えもしなかった。でもパリに来て1カ月くらい経ったところで、あ、大変だな!って。でも少しずつフランス語が喋れるようになってからは......。パリに来て、オペラ座で知り合った仲間は当時みんな若かったせいかもしれないけれど、同じ年齢でも、なんだか彼らが子どもっぽい!って感じました。メルボルンでは学校に寮がなかったので、なんでも自分ひとりでやってたんです。アパートでは2つ年上の日本人女性と一緒に暮らしていて、この時に日本語がすごい上達したんですよ。

ー エコール・フランセーズについてどのように学びましたか?

オペラ座のスタイルがあるのはビデオなどを見て知ってましたけど、どうして違うのかということまでは突き詰めてなかった。オペラ座に来て、舞台を見て、まわりのダンサーたちの仕事を見て、ああこれなんだ、って!   それで私がすぐにフランス派の踊りができたわけではないですけど、実は私はほかのダンサーの真似をするのが結構上手なんですよ。身体の使い方とか見れば真似ができるんです。言葉が100パーセントわかる状況ではなかったので、こうして真似をしながら身体で覚えてゆきました。

ー コール・ド・バレエ時代、何が印象に残っていますか?

この時代、大変だ!ってことがよくありました。代役って、いつ舞台に出るのか、どのパートを踊るのかわからないまま舞台裏で控えているので、すごいストレスでした。これは怖かった。オペラ座での最初の頃は、『白鳥』『ラ・バイヤデール』『ドン・キホーテ』......ほとんどがこうした形でステージに出ていました。コール・ド・バレエの代役はステージに立つ位置がその前の時とは反対側ということもあって、上げる腕や脚の左右を間違ったことはたくさんあります(笑)。

ー プルミエール時代の7年間、得たことは多いと思いますか?

はい。この時代は長かったけれどオペラ座の中で自分がどういうふうにこの時期をうまく活用すればいいのかということを学びました。踊りたい主役に配役されなくても、たとえば『白鳥の湖』ならパ・ド・トロワは何度やっても毎回楽しかったので、踊ることの楽しさを忘れることはありませんでした。自分は本当に踊るのが好きなんだなあって、実感できて......。長かったんですけどそういうこともあり、また我慢することも学びました。良い経験をしたんじゃないでしょうか(笑)。同じ世代の人たちがその間にエトワールに任命されて、ああ、私は一生プルミエールのままかな、と思うことはよくありました。若い時はやる気満々だったこともあって、どうして私じゃないの!!って思うことも。でもローラン・ノヴィスとか私を指導してくれる先生たちに、"人それぞれなのだからほかの人のリズムに自分を合わせてはいけないよ"と言われて、自分はマイペースでやってゆけばいいってわかってから心が落ち着き、自習することがどれだけ大事かというのもわかったし......。プルミエール・ダンスーズの時代は確かに長かったけれど、その間に自分は成長することができたな、と思っています。

【関連記事】
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editing: Mariko Omura

東京に生まれ、3歳でバレエを習い始める。2001年ニュージーランドに引っ越し、オーストラリア・バレエ学校に学ぶ。09年、ローザンヌ国際バレエコンクールで優勝。契約団員を2年務めた後、13年パリ・オペラ座バレエ団に正式入団する。14年コリフェ、15年スジェ、16年プルミエール・ダンスーズに昇級。23年3月2日、公演「ジョージ・バランシン」で『バレエ・アンペリアル』を踊りエトワールに任命された。

photography: ©James Bort/Opéra national de Paris
Instagram: @hannah87oneill

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