最果ての島に建つ古びたホテル・アイリス。そのフロントに立つ若い娘マリは、ある日、謎めいた翻訳家と出会い、密やかに官能的な逢瀬を重ねるようになる。『タイムレス・メロディ』『青い車』の奥原浩志監督が、淡い空と海の境界に浮かぶ台湾の金門島を舞台に描くミステリアスな愛の物語『ホテルアイリス』。主演は、ジム・ジャームッシュや相米慎二といった名匠と組み、日本を代表する俳優として幅広い役柄に挑戦し続ける永瀬正敏。その相手役に抜擢されたのは、台湾でモデルとして活躍するルシア。『博士の愛した数式』や『薬指の標本』も映画化された原作者・小川洋子と主演・永瀬正敏が公開間近の映画『ホテルアイリス』について語り合う。
永瀬 実は20代後半か30代になった頃に、若松孝二監督から『痴人の愛』を撮ろうと声がかかったことがあったんです。脚本家・田中陽三さんが、素晴らしい脚本をお書きになっていて。でも当時、演じてくれる女優さんがいないとか、いろいろあって、企画が頓挫してしまって。主人公はその時の自分と同年代だったんですが、いま考えると当時なら、あの深い役どころを形だけで演じてしまったかもしれないと、ずっとその映画への想いが残っていて。今回最初にこのお話をいただいた時、何か関係性を感じたんですよね。最初の企画では、日本のどこかの島で撮るんだろうなと思っていたけれど、どんどん企画が転がって「ひょっとしたら台湾で撮るかも」と。僕は台湾好きなのでうれしくなって、マリ役も台湾の子かもと聞いて、ますます楽しみになっていったんです。
小川 小説『ホテル・アイリス』は、私が若い頃、勢いで書いた面があり、マリに自分を近づけていって書きました。永瀬さんが演じた翻訳家に近しい年齢になりましたが、もしいま同じ設定で書くとしたら、ここまで思い切って書けないかもしれませんね。「ホテルがあって、離れ小島があって、引き潮の時しか行けないその場所に、ひとりの男が住んでいる」という、イメージを先行させて書いた作品です。
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舞台となった「淡い死を纏う島」
永瀬 演じる上でも、今回の場所の影響力はすごく大きかったです。舞台となった翻訳家が住む小島は、引き潮の時だけ道ができ、潮が満ちると渡し船でしか行けない。しかも人が住むには小さすぎる小島です。それに金門島自体が台湾でありながら、中国本土のすぐ目の前にあって。台湾と中国の最初の防衛線として、昔からずっと緊張状態に置かれていて、いまでも島中に弾丸の跡がたくさん残っている。小川先生が原作でお書きになっているように、少し戻って来れない感じ、「淡い死を纏っている島」なんです。
小川 小説を書いていた時、舞台の設定はフランスのサン・マロに行った時のことをイメージしました。でも永瀬さんから、島がひとつの区切られた空間であるだけでなく、さらに中国と接しているとうかがって、この男女ふたりが、世界の淵のような場所と時間に閉じ込められているという輪郭が、よりくっきりしたように感じました。だからこそ、物語の展開にも、あの場所が大事な意味合いを持っているということが際立ちました。
永瀬 外部から観光客を迎えるためのホテルが作られるなど、変わっては来ているものの、金門島には「時間の跡」がある。潮が引くと、鉄製の船とか、島に上陸できないように沈められていた柵が出てきたり。島が経験してきた戦争や死が浮かび来るというか……。徴兵制を持つ台湾の軍事訓練の場所でもあり、男性はあまり行きたがらない場所だと台湾の友達からも聞かされました。僕自身、演じる上で、孤立感、閉塞感を金門島から大いにもらった気がします。
小川 この孤島に立つ永瀬さんを拝見して、原作と違う具体的な年齢は関係ないなと感じました(編集部注:原作『ホテルアイリス』では、翻訳家の年齢は老人という設定)。翻訳家がもう半分死んでいるような男なんだという、こっちの世界には入って来れない存在なんだということが、観ている人に伝わるかどうか。とにかく強烈な原作なので、設定を変えていただくのは全然構わないし、言葉で描くのと、生身の人間がやるので意味合いが違うので、その意味合いの溝を埋めるために、監督はさまざまな工夫やこだわりを挟み込んでいると感じましたね。たとえば、マリが日記を書くというアイデアも、彼女の内面の言葉が日記という形で素直に出せる場所ができて良かったなと思いました。
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孤独なふたりが繰り広げる秘めやかな逢瀬。
永瀬 マリを演じた陸花(ルシア)さんは、CMやファッションモデルをやっている方で、大きな役は初めてと聞きました。彼女の日本語は日常会話レベルだと全く問題ないんですが、お芝居となるとまたちょっと違ってきて。その日本語の台詞の微妙なニュアンスが、また効果的だった気がします。さらに、これから仕事を重ねていくと、戻りたくても戻れなくなる微妙な素人感というか、役者、俳優としても、その時しか出せない何かがある。その何かを映像に閉じ込められたことも、この作品にとってはラッキーだったと思います。
小川 私の小説『薬指の標本』がフランスで映画化された時(2005年、ディアーヌ・ベルトラン監督)のヒロインはオルガ・キュリレンコという、後にボンドガールになったウクライナ出身の女優さんでしたが、彼女と今回のルシアさんとのイメージに繋がりを感じました。少女とも言えないけれど、大人には毒されていない、女性の人生の中でもほんの一瞬しか訪れない少女と大人の境界。多分、男の人にもそういう時期があると思うんですけど、ルシアさんも、いましかないこの時に、絶妙に撮影されたなという気がしました。実際の年齢は知りませんが、観るシーンによって、何歳にも見えるんです。
永瀬 ルシアさんは、それこそラブシーンは初めてだったと思うんですけど根性が座っているというか、この仕事を受けた時点で、ラブシーンもあるとわかって引き受け、覚悟を持って現場に来ていて。場面の切り取り方、見え方は、僕の方がちょっとだけ経験しているので、監督とも「こうやりましょうか」と話し合いましたけれど、彼女は堂々たるものでした。
小川 単純に見ると、男が女の子を支配しているように見えるけれど、もしかしたらマリはこの男を踏み台にして、この世界から抜け出そうとしているのかもしれない。あるいは、この男が死の世界へ行ってしまうのを「私が見送ってあげよう」という母性的なものを持っているのかもしれない。そんな複雑な役で、寡黙な設定ですし、物語には舌のない甥も出てきて、皆あまり喋らない。喋るのは、非常に現実的なホテルのおばさんとマリの母親だけ。寡黙なこのふたりの微妙な関係ですが、離れ小島にいる時と本島にいる時では、ふたりの見つめ合う横顔が全然違います。この辺りを丁寧に観ていただきたいですね。
永瀬 たとえば、翻訳家とマリが本島のレストランを訪れる場面。「予約が入ってない」と言われて、普通なら面と向かって激昂するところ、彼らがいるのは小島ではなく、本島というマリのテリトリーにいる。だから翻訳家がいくら怒ってもレストランのフロント係と目線が合わないんじゃないかと提案させてもらって、目を見ないで、彼の胸元に向かって芝居をしている。細かいことなんですが、気付いてくれる人がいたらうれしいですね。
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夢か現か、ミステリアスなラストの余韻。
永瀬 今回はとにかく観る人によってさまざまに感じてもらえるように演じました。翻訳家はマリの妄想によって作られた男かもしれないし、そうでないかもしれない。また、マリの方が幻想の中の人物なのか、そうでないのか。ラストの場面で海から打ち上げられるものは、元々もっとはっきり映る設定でした。でも、ここは曖昧にしたほうがいいんじゃないかと。もしかしたら、そのラストのシーンが物語の始まりで、そこから妄想の物語が広がったと考える人がいてもおかしくない。いろんな受け取り方をしてもらったほうが映画も広がっていくから、奥原監督とガッツリ話し合いながら撮っていきました。
小川 私もラストの“もの”が気になって気になって、原作をもう一度めくり直しました(笑)。さらに、その“もの”を見ている彼女の視線が、悲しんでいるでもなく、驚いているでもない。なんとも言えない表情なんです。彼女が支配している世界なのかなというゾッとさせる瞬間がありました。どんな人にも理由のない残酷さというものがあって、日常生活の中で、どうにかそれを飼い慣らして、うまくごまかしながらやっているんだけれど、何かの拍子にそれがごまかしきれなくなることがある。小説とは、そういうもののためにあるのかなと。取り繕うことができなくなった人とか、シチュエーションを書くのが小説かなと考えもしましたね。
永瀬 映画は作っただけでは完成しません。観てもらって初めて完成し、そこからさらに進化するというか、どこかに持っていってもらえるものだと思います。まずは映画館の座席に座ってもらうことがいちばん。あとは自由に、いろんな視点で見てもらって。本当は3回ぐらい観て欲しいですね(笑)
小川 映画のポスターもいいですよね。この1枚の写真を見れば、この永瀬さんがとても素敵で、映画を観たくなるんじゃないでしょうか。まさに繰り返し観るにたる映画ですよね。
『ホテルアイリス』
●監督・脚本/奥原浩志
●原作 : 小川洋子(「ホテル・アイリス」© 幻冬舎)
●出演/永瀬正敏、陸夏 (ルシア)、菜葉菜、寛一郎ほか
●2021年、日本・台湾映画
●配給/リアリーライクフィルムズ + 長谷工作室
●2/18(金)より新宿ピカデリーほか全国にて公開
©️北京谷天傳媒有限公司/ 長谷工作室 / 紅色製作有限公司
www.reallylikefilms.com/hoteliris
text: Reiko Kubo photography: Kunuhiro Miki styling: Yasuhiro Watanabe, Rino Oketani(W) hair & makeup: Katsuhiko Yuhmi(THYMON Inc.)