ダニエル・クレイグ版の「007」シリーズが終わってしまい、心にぽっかり穴が開いてしまったという映画ファンは少なくないはずだ。ダニエル版ジェームズ・ボンドだけじゃない、ベン・ウィショー演じるQや、ジュディー・デンチからレイフ・ファインズに引き継がれたMなど、凄腕のスパイたちが恋しくてたまらない。そんな英国スパイ映画好きに届けたいのが『オペレーション・ミンスミート ―ナチを欺いた死体―』である。
この物語は「007」シリーズの原作者であるイアン・フレミングが第二次世界大戦中、英国海軍に所属している時に、彼が発案した「オペレーション・ミンスミート」という作戦の舞台裏を題材にしたもの。ナチスの支配するヨーロッパ解放を目指し、イタリア、シチリア島への上陸を目指すイギリスは、ドイツの目を欺くために、ギリシャ上陸計画を記した機密文書がドイツ軍に渡るように思案する。そして思いついたのが、ギリシャ上陸を示唆する文書を持った高級将校の死体をスペインの海岸に漂着させる作戦だった。まさに事実は小説よりも奇なりを地でいく話だが、ジョン・マッデン監督は、シリアスなスパイ物語に必ず男女の秘め事を入れたイアン・フレミングへの目配せもあり、作戦に関わったチーム内の密やかなラブストーリーを描いている。『恋におちたシェイクスピア』(1998年)、『女神の見えざる手』(2016年)など、強い女性を描くジョン・マッデンがこの実話に惹かれた理由、そしてイアン・フレミングと、MやQのモデルたちとの知られざる関係を描くに至った経緯を聞いた。
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主人公は「物言わぬ死体」
――ジェームズ・ボンドの生みの親であるイアン・フレミングは、世界的な危機を乗り越える「007」シリーズで、非常に人間臭い恋愛の要素を必ず入れていました。この『オペレーション・ミンスミート ―ナチを欺いた死体―』も実話をベースにしながら、イギリスの命運をかけた作戦に関わったチーム内の恋愛模様を描いていて非常におもしろく観ました。これはイアン・フレミングへのリスペクトですか?
まず、この題材に対してのアプローチとして、恋愛がベースとなっているのは真実です。歴史上実在した男性たちは、心の奥底にどんな感情が潜んでいたのかは理解していなかったかもしれない。しかし、女性部員としてこの計画に参加していたジーン・レスリーに、コリン・ファース演じるユーエン・モンターギュ少佐が執着していたというのは確かです。この作戦に携わっている時、彼の妻子はアメリカにいて、彼は家で独りだった。このあたりの事情は、ベン・マッキンタイアーによる原作『ナチを欺いた死体 英国の奇策・ミンスミート作戦の真実』(中公文庫刊)で、かなりのリサーチをもとに書かれていて、僕たちは原作から感じとったものを描いている。ただ、恋愛の要素は非常に重要ですが、それだけを描きたかったわけではないです。
ナチスを欺くため、イギリス軍は死体に偽の機密文書を持たせ、情報を攪乱することを思いつくが......。©Haversack Films Limited 2021
――いま話に出たベン・マッキンタイアーは数々のスパイ小説を書いていて、たとえば『KGBの男-冷戦史上最大の二重スパイ』や、『キム・フィルビー -かくも親密な裏切り』(ともに中央公論新社刊)など人を欺くことに長けた実在の人物を主人公にしています。ところが、『ナチを欺いた死体:英国の奇策・ミンスミート作戦の真実』はタイトル通り、ナチスを騙すメインキャラクターは「物言わぬ死体」で、話の軸に持ってくるのはなかなかチャレンジだったと思うのですが、なぜこの物語を選んだのでしょうか?
この物語に惹かれたのは、第二次世界大戦を描いた作品群の中でもとりわけユニークなストーリーだったから。僕は元々「キーホールストーリー」、すなわち鍵穴から自分の知らない世界を見せてくれるような物語が好きなんです。小さな人間関係を描いた物語だけど、世界に関わる大きな戦争の行方を左右する。映画を作る時、コントラストという要素は素晴らしい武器になるが、この映画はまさにそうでした。加えて、僕がこの映画でいちばん好きなのは、登場人物たちの沈黙と静の瞬間。彼らは、機密文書を抱えた死体がスペインの沖に流れ着いた後、どのような結果を生み出すのかわからない状況に置かれている。そういう緊張状態が、演出していてとてもおもしろく、気に入っているシーンなんです。自分たちが仕掛けた罠の結果を待つ間が、観客を驚かせる要素であり、映画におけるサプライズであり、映画的快楽だと思っています。
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発想が飛躍する小説家。
――この映画は、イアン・フレミングが作戦の様子を小説にしたためているところから始まります。映画の中では、のちの「007」シリーズのMやQを彷彿とさせる人物も出てきますが、フレミングの小説の世界はどれだけ意識されましたか?
イアン・フレミングはとってもおもしろい人物です。彼は英国海軍情報部に所属している時期、敵を欺くための方法を考え、それをリストにした“トラスト・メモ”を書きました(※その中で実際に採用されなかった作戦を、後に「007」シリーズのモチーフにしたと言われている)。当時の彼の上司であるジョン・ヘンリー・ゴドフリーはジェームズ・ボンドの上司であるMのモデルで、この映画にはMだけでなく、Qのモデルとなる人物も出てくる。フィクションであるはずの「007」シリーズに本物のモデルがいるのは、とても興味深いことでした。そしてこの映画には、先程指摘してくれたようにラブストーリーにまつわる要素も加わっている。プロットを見るとドライなスパイもののように思うかもしれないけれど、映画を観てもらえばとても人間的な内容であることがわかってもらえると思います。フレミングのすぐ近くで、この「オペレーション・ミンスミート」という作戦を率いるユーエン・モンタギューという元法廷弁護士と、年下の諜報員であるチャールズ・チャムリーというふたりの主要な人物がいて、死体から高級将校へと仕立てられる「ある男の架空の人生」を作っていく……。こんなことが実際に起こっていたなんて、一風変わっていて、驚かされますよね。
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奇跡を信じた英国首相。
――「ある若い青年の死体が、ナチスの戦局をがらりと変えるカギとなる」と信じたイギリスの当時の首相であるウィンストン・チャーチルは天才なのか、クレイジーなのか、どちらだと思いますか? 劇中では、Mのモデルであるイアン・フレミングの上司、ジョン・ヘンリー・ゴドフリーはこの作戦に懸念を表して、チャーチルに一蹴される場面がありますが……。
チャーチルは、何冊も本が書けるような人物ですね。この映画では、ひとつの局面の彼しか描けなかったんですが、彼は第二次世界大戦中、疑念というものから解き放たれていた人物だったと思います。どんな困難な局面であっても、彼は決断力に長けていた。だから英国史において重要な人物だともいえる。複雑な戦況で、彼はいつもクリアな決断が出来ていた。一方、ミンスミート作品を組み立てた4人のキャラクターたちは、計画を進めていくにつれて「これでナチスを欺けるのか」と、どんどん疑念に取りつかれていく。「策略がバレているかもしれない」と現場が感じている時においても、チャーチルは前に進むと決める。おもしろい対比ですね。
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現代に通じる「強い女性」
――監督の作品では、『恋におちたシェイクスピア』でのグウィネス・パルトロウが演じたヒロインや、『女神の見えざる手』でジェシカ・チャステインが鮮やかに演じた銃規制を目論むロビイストなど、自立した強い女性が出てきますが、本作にも、作戦に参加する年配のヘスターと、若いジーンという重要なキャラクターが出てきます。特にジーンは、高級将校として仕立てられる死体の恋人役として自分の写真をはじめ、彼が存在したことを証明する人物として、自分の人生を貸し出す重要な役割を果たします。ふたりとも素晴らしい職業婦人で、いまに通じる現代性も感じますね。
これはリサーチして驚いたことなんですが、実際に戦争ではああいう女性たちが活躍していたんです。多くの女性は、戦争が起きる前は誰かの母親であり、妻でしかなかった。専業主婦の役割にとどまっていることが多かった女性が、戦争で活躍する機会を得て、自分はこういう形で誰かを助けることに貢献できるんだと知り、人生を変えるような体験をした女性が多かったそうです。
この映画は、イアン・フレミングが観察している、ユーエン・モンタギュー、チャールズ・チャムリー、ヘスター・レゲット、ジーン・レスリーのカルテットの劇だと思っています。だからキャスティングは慎重に考え、コリン・ファースをはじめ、僕がキャラクターの資質を丁寧に考えて起用し、その後、演じる彼らが素晴らしい肉付けをしていった。僕がこの4人の人間模様において好きな場面は、高級将校のプロフィールを想像し、作り上げていく過程で「彼には恋人が必要で、そこには熱いラブレターがなければ」と手紙を書き始めるところ。年配のヘスターが最前線で戦う恋人へのラブレターを書き、その内容を4人が集まった時、最初は書いたヘスター役のペネロープ・ウィルトンに読ませようとしたんだけど、途中で変えた方が面白いんじゃないかと思い、マシュー・マクファデン演じるチャムリーに読ませようとした。しかし、彼はジーンへの恋心を殺して日々を過ごしているので、手紙を読むことで感情が現れ出ることが恥ずかしい。だから、最終的にケリー・マクドナルドが演じるジーンが読むという構成にしました。ヘスターの人生のかけらが入った手紙を、ジーンが読むことで、モンタギューとチャムリーというふたりの男性の心に、最愛の男性への熱い感情を語ったパムという架空の女性の物語が響いていく。その意味で、このスパイ映画は、女性が映画の中心にあることは間違いない。
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ジーン役のケリーからは、ジーンが高級将校の架空の恋人の設定として、自分の実際の写真を使ってもいいとチャムリーに取引する場面において、当初の脚本では、写真を使わせてくれと言われるだけのシーンで、ジーンのほうから「作戦の一員にさせて欲しい」と言いたい、と提案を受けました。あれはとてもいい言い方で、ケリーのアイデア。彼女たちが自分で行動できるところを見せますから。
また、作品全体のエモーションをコントロールしているのがヘスターであると思っています。彼女は主要なキャラクター全員と関係しているキャラクターで、アメリカにいるモンタギューの妻とも文通をしている。彼女の痛みも知っているし、モンタギューと惹かれあうジーンの感情も理解しあえている関係。第二次世界大戦中の物語が現代的であるというと奇妙に思うかもしれないけれど、まさに僕はそこに共感する。なぜいま、この話を作るんだっていう人もいるけど、緊張感が再び感じられるいまだからこそ、という気持ちがある。それくらいこの映画にはいろんな感情が詰まっているんです。
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●監督/ジョン・マッデン
●原作/『ナチを欺いた死体:英国の奇策・ミンスミート作戦の真実』ベン・マッキンタイア―著 中央公論新社刊
●出演/コリン・ファース、マシュー・マクファディン、ケリー・マクドナルド、ペネロープ・ウィルトン、ジョニー・フリン、ジェイソン・アイザックスほか
●2022年、イギリス映画
●128分
●配給/ギャガ
●2/18(金)より全国にてロードショー
©Haversack Films Limited 2021
www.reallylikefilms.com/hoteliris
text: Yuka Kimbara