転職と天職 マリー・ジュノン、グラン・パレの模型からハイジュエリー。

まったく異なる分野に転職し、成功しているパリジェンヌたちが少なくない。彼女たちは年齢も職種もさまざまだが、アグレッシブな面がなく、強い意思と意欲が感じられるという点が共通している。今回紹介するジュエリーメゾンIrène(イレーヌ) のマリー・ジュノンもそのひとり。彼女は昨秋、初のクリエイションをオテル・リッツで発表した。アクセサリー的な手頃なジュエリーでもなく、またクリエイティブな貴石のジュエリーでもなく、彼女の場合、ダイヤモンドが燦然と輝くハイジュエリーである。ファーストコレクション「ACT1」はリング、カフブレスレット、ブローチの3点で構成され、インスピレーション源は1900年にパリに建てられたグラン・パレだ。建物の模型とともに、ジュエリーを展示した。

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マリー・ジュノン。昨年9月にオテル・リッツでジュエリーをお披露目した際、グラン・パレの模型も展示した。彼女のジュエリーのメゾン名はIrène(イレーヌ)。

マリーはベルギー生まれというのでダイヤモンド商の家庭に育ったのだろうかという予測は外れ、医者の家系だという。ジュエリーと無縁に聞こえる生物学を彼女は専攻しているが、そこからいまの仕事にいたったのは当然の帰結で、「転職というのは、断ち切ることではなく、流れ。首尾一貫したものがあるのです」と語る。

「生物学を選んだのは、具体的な仕事の目的があったのではなく、興味があったから。ベルギー人って、学ぶことが好きな国民なんですよ。18歳でリセを終えた時に、社会に出るにはまだ若すぎると感じたので勉強を続けることにしました」

好奇心あふれるマリー。まるで小学校の生徒のように真剣に5年間勉学に励んだという。資料を漁り、テーマを探り、分析し、内容を深めて……理解するための彼女のこの学術的方法は、いまのジュエリー創作にも変わっていない。

「大学では、勉強と並行して演劇活動をしていました。演技ではなく、私の担当は舞台美術。小さい時から、自分の手で何かをクリエイトするのが好きでリセの時代でも演劇部でセットをつくるといった応用美術関係のことをしていて……。学業を終えたときに、今度は、こう思ったのです。何かほかのことを見る必要があるわ。世界を見なければ!と。それでパリに来ました」

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グラン・パレの建築からスタートして生まれたマリーのハイジュエリー。リング「La Verrière」は4cm長さのガラス屋根が開いて、ロッククリスタルのバラ型の装飾が現れる。

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シャネルのショー会場のセノグラフィーに8年関わって。

学生時代もアルバイト的な仕事はしていたが、パリに来て最初の1年を過ごしたところで、生計を立てるべく働くことにした。彼女がドアを叩いたのは、フランスのテレビ番組『 レ・ギニョル・ドゥ・ランフォ』という人形劇のニュースで使われる政治家やセレブたちを模した人形を製作するアトリエだ。彫刻家アラン・デュヴェルネが率いるチームに迎えられた彼女は、すっかりここでの仕事が気に入ってしまった。

「彼は哲学者的な面をもつアーティスト。人形といっても彫刻と同じで、とても緻密な仕事でした。私、とてもこのアトリエで快適に働けて、ついに自分がしたいことに出合えた、って……」

このアトリエがシャネルのショーのセノグラフィーに関わっていたことからマリーもチームと一緒に、ショー会場の仕事をするようになった。2011年のことだ。チームの仕事はおおいに気に入った。グラン・パレでのショーの会場作りの前段階に用意される、精巧なミニチュアの模型。ディテールにいささか凝りがちな彼女は、“このアトリエでは金銀細工の仕事はしないよ”とアランからは冗談で言われていたそうだ。水晶の柱が会場を満たした2012〜13年プレタポルテ秋冬コレクションでは、彼女もショーの現場へ。この仕事をつうじて、カール・ラガーフェルドから明快さ、厳格といったことの重要性を学んだとマリーは語る。

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カフ・ブレスレット「La Nef」。グランパレのクーポールを見上げた時に天井に見られるバラ形装飾は、ここではサイドにあしらわれている。 ダイヤモンド、エメラルド、アクアマリン、ロッククリスタル……使われている宝石の数は544個。

「このショーのために何カ月もかけてアトリエで会場のミニチュアを準備した時には、アメジストとか小さな石をカットして、磨いて、配置して……。この時に、自分のしたいことがわかったんです。 私は小さな規模の仕事のほうが楽。子どもの頃ドールハウスを自分で作ったのだけど、この時はトイレットペ−パーにいたるまでもミニチュアで……そんな私です。ジュエリーへと進むのが、理にかなっているわ、と」

2014年、彼女はパリ市内にあるエコール・ドゥ・オート・ジョワイユリー校で学ぶことに決めた。ここでテクニックを習得すればアトリエの仕事にもたらすことも多い、ということで、アトリエの仕事の時間も調整してもらえた。仕事との両立は大変だったが、当時はまだ子どもも生まれておらず、彼女は週に1日の成人コースで学んだ。デッサンのコースも追加でとった。学校でメタルの作業は扱いやすいハードな素材から始めるものだが、彼女は最初から柔らかくて扱いが難しい真鍮に取り組むなど、情熱に導かれるまま前進した。

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ブローチ「La Coupole」。ホワイトゴールド、グレーゴールド、ダイヤモンド、ロッククリスタルを使用。

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1/5000の縮尺のグラン・パレがハイジュエリーに。

2019年2月にカール・ラガーフェルドが亡くなった。その頃すでに自分のジュエリーのためのデッサンや模型を作り始めていたマリーは、祖母の名前でもあり、自身のセカンドネームでもある「Irène(イレーヌ)」という名でジュエリーのためのクリエイションスタジオをスタート。“セノグラフィーからジュエリーへ、ミニチュアから実寸へ”とうたって、彼女は2020年9月にオテル・リッツでグラン・パレという建築物から生まれたハイジュエリーを発表。シャネルのショーのセノグラフィーのためのミニチュア製作で8年間親しんだ建築物グラン・パレに、オマージュを捧げる3点だ。グラン・パレのガラス屋根を細かく分析し、そこから指輪が生まれ、ついでカフブレスレット、そしてブローチという順にクリエイトされた。

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図面に従って作業をするのに慣れているマリー。3Dのソフトを使い、デッサンを描く。試作はメタルの厚みを変えて、何度も繰り返したそうだ。

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建築のエレメントから出発したハイジュエリー。パリ市内のアトリエにてリングの制作。

点数は少ないとはいえ、誰もが入手しやすいジュエリーではなく、いきなりハイジュエリーのコレクションでのデビューとは!

「財政的にはとっても大変ですよ。でも人生は思い切らなければ‼ それに人々がコンセプトを理解してから派生バージョンを発表するというほうが、私には論理的だと思えるので」

「ACT1」の3点のハイジュエリーは現在、モナコのハイジュエリーを取り扱うGallerie Montaigne にて展示販売中だ。最近、マリーの情熱に賛同したヴァンドーム広場のジュエラーでの経験が豊富な女性が、パートナーとしてセールスに加わることになった。イレーヌは徐々にジュエリーメゾンらしい形をなしつつあるとマリーは喜ぶ。

いま彼女は「ACT1」から派生した「ACT2」のジュエリーに取りかかっている。これらは7月に発表予定だ。今度はグラン・パレの大階段の花の装飾がインスピレーション源となる。植物の開花という新しいストーリーを語れることにマリーの心はおおいに逸る。普遍のテーマであり、またアールヌーヴォーの国ベルギー出身のマリーは植物が大好き。さらに彼女が生物を学んだことを思い出させるテーマである。「ACT1」はホワイトゴールドだったが、今回はイエローゴールド、そして花弁にはアールヌーヴォー・ジュエリーの巨匠ラリックの蝉のブローチのように透けるエマイユ(七宝)……。

「ACT1」のカフブレスレットでは、セルチ・クーリサンという動きのテクニックがこのために開発された。極小のビーズのようなエメラルドやアクアマリンといった石が左右にスライドしてかすかな音をたてる。どこか遠くで鈴が鳴っているような澄んだ音がジュエリーに魅力を添えるのだ。「ACT2」ではこの新しい動きの技術を活用して、遊び心のあるジュエリーが登場するらしい。

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カフブレスレット。ホワイトゴールドの細い横レールを、小さなエメラルドやアクアマリンがスライドする。シャネルの2018年春夏コレクションのショーでは、グラン・パレ内に渓谷がつくられ滝が流れた。スライドする石の動きは、その滝の流れにインスパイアされたそうだ。

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「自分が感じるまま、したいことをする。これはとても贅沢な生き方ですね。私は独立したジュエラーなので自由でいたいし、それに控えめでいたいんです。インスタグラムにも自分の顔は出していません。自己宣伝の競争のようないまの時代だけど、私は静かに、でも確実に前進してゆきたいと思っています。ヴァンドーム広場のハイジュエラーJARのように……彼って表に出ないから、どんな人なのか知られていませんよね」

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réalisation : MARIKO OMURA

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