いつの間にかパリ社交界の中心に。調香師ジェルメーヌ・セリエの才能と意欲。
知られざるパリの女たち、その生き方。 2024.02.23
19世紀末から20世紀前半、男性優位のパリにおいて我が道を歩んだ女性たちがいた。自分の意思を貫き自由に生きたパリの女たちに焦点を当てる連載「知られざるパリの女たち、その生き方」。第3回目に紹介するのは、クチュール・メゾンのために多数の名香を生み出した調香師Germaine Cellier(ジェルメーヌ・セリエ/ 1909~1976年)である。
残された写真は数に限りがあるものの、そこに写っている女性はなんとも優雅でカッコいい。かつてパリの香水界にこんな女性調香師が存在していたの!!と驚かせる存在、それがGermaine Cellier(ジェルメーヌ・セリエ/ 1909 ~1976年)である。1944年のロベール・ピゲのBanditに始まり、1967年のMonsieur Balmanまで彼女は香水ファンなら目を輝かせる香りをいくつも創香した。彼女による斬新な調香はいまの時代においても、かなり大胆なものだという。素晴らしい功績を香水界に残したジェルメーヌとは、どんな女性だったのだろう。インターネットで検索するいくつか情報がみつかるが、wekipedia を含めベースとなっているのは2014年にフランスのあるオンライン・マガジンに掲載された記事である。それはジェルメーヌの12歳年下の妹の娘、つまり彼女の姪にあたるジャーナリストのMartine Azoulai(マルティーヌ・アズーレ)が伯母について語ったもので、ファミリーアルバムからの写真も掲載され、この女性調香師について人々はなんとなくイメージを膨らませることができるようになった。もっとも姪にしてもジェルメーヌのエレガンス、品格、尊大さ、強烈な存在感について証言できても、彼女の人生についてはまだまだ未知の部分が残っていると語る。謎めいた面を持つ美女のようで、それが余計に彼女への好奇心をかきたてる。
ジェルメーヌ・セリエ。グリーンの瞳の持ち主で、性格同様に豹を思わせ黄味がかった髪の色だった。装いはあくまでもシックでエレガント。この写真とは裏腹に彼女は一生涯飛行機に乗らなかった。photos: D.R.
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ベル・エポック期の1909年ボルドーに生まれたジェルメーヌ。その後パリ郊外のアルジャントゥイユに家族は引っ越し、化学に関心を抱いていた彼女は15歳のときにパリ郊外オートゥイユの私立校Scienticaに進学した。1925年に化学者助手としての免状を取得し、翌年は細菌学者助手の免状も。香料を扱うルール・デュポン社(注:1991年Givaudinに吸収された)のアルジャントゥイユの工場で仕事を始めるのは1930年のことだ。そこで彼女は合成香料を嗅ぐことからはじまり、香水のフォミュラーに活用されるベースをクリエイトする担当となり、10年近くその仕事を続けることになる。彼女はシャネルのN°5のアルデヒドのように香水の未来は合成香料にありという信念の持ち主で、彼女が優れた嗅覚の持ち主であることは会社でも早い時期に認められた。パリのクチュリエによる香水の発表は1908年のポール・ポワレに始まるが、1940年代になるとクチュール・メゾンの数も増え、それぞれが香水を発表することがブームに。若く意欲的な社長ルイ・アミックの発案でルール・デュポン社も本格的にクリエーションへと進出することになった。そこでのジェルメーヌの活躍に触れる前に、彼女の私生活を少し覗いてみよう。
仕事場にて。右端がジェルメーヌ。photo: DR
ボルドーでの子供時代は、仲良しの従姉妹カトリーヌ・マンジェルとともに教会付属の寄宿学校に入っていて、二人で悪さも楽しんでいたようだ。枠におさまりきらないカトリーヌはついに修道士によって悪魔祓いをされたほど......その後カトリーヌはパリで女性画商と6年間付き合う。その間にジェルメーヌもカトリーヌの紹介でアーティストたちとの繋がりができることになる。画家たちのモデルを務めたこともあり、姪によるとジェルメーヌの自宅にはアンドレ・ドランが描いた彼女のポートレートが飾られていたという。
パリで彼女が最初に生活を共にしたのは、23歳年上の画家で詩人のシャス・ラボルドだった。彼と別れた後、シャスとも知り合いだったイラストレーターのジャン・オベルレと彼女は一緒に暮らすことに。もっともロンドンでの仕事のためにジャンは1939年からパリ不在となり、その間に彼女はパーティで知り合ったテニス選手のクリスチャン・ブシュと生活を始めるのだ。戦後ジャンがパリに戻ったところ、自分のパリ7区のアパルトマンに二人が一緒に暮らしているのをみて仰天! というエピソードが残されている。クリスチャンは1929~32年のデビスカップで四銃士と呼ばれていたルネ・ラコスト、ジャン・ボロトラ、アンリ・コッシェ、ジャック・ブルニョンたちの補欠として選ばれたことから、''5番目の銃士''と 卓名され、活躍していた選手である。二人は3匹のダックスフントを飼い、彼女が1976年に亡くなるまで約30年間の人生をともにした。ヘビースモーカーでウイスキーを愛した彼女。今の時代なら禁じられている化学物質を若いときに多数嗅いだことも大きく関わって、肺浮腫で亡くなったときはまだ66歳だった。なお、彼女は3人の誰とも入籍はしていない。
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常に髪をきれいにセットしてたジェルメーヌ。メーキャップにはエリザベス・アーデンのパウダーを使用。その香りを姪は記憶していると語る。photo: DR
従妹のカトリーヌ・マンジェル(右)と。彼女の交友関係からジェルメーヌは大勢のアーチストと知り合う機会を得られた。この写真が撮影されたのは1930年代だろうか。photo: DR
1943年に彼女はコルゲート・パルムオリーヴ社に移っている。石鹸の香りについての仕事となり、3か月たったところでルール・デルトラン・デュポン社へ戻るのだ。彼女の才能を評価しているアミック社長は彼女を迎え入れ、彼の采配でその後ミス・ディオールを担当する調香師ジャン・カルルの下、彼女は研究所で作り手としての仕事を始める。もっとも彼女が香水をいくつか世にだし成功を収めたところで、歯に衣を着せぬ物言い、妥協しない質の彼女ゆえにカルルとはうまくいかなくなってしまう。会社は解決策としてパリ郊外ヌイイーに二人のアシスタントをつけて、彼女だけの研究所を用意した。
ジェルメーヌが調香したBandit(バンディ)が1944年に発表された。これは1933年にクチュールメゾンを開いたロベール・ピゲにとって初の香水で、''盗賊''を意味する香水らしからぬ名前は彼の飼い犬からとったもの。これにはレザーノートのイソブチルキノリンが通常以上に使われ、シプレの画期的な香りと話題を呼んだ。次に彼女が託されたのはクチュール・メゾンのリナ・リッチの香水。アルデヒドを用いたCoeur Joie(クール・ジョワ)はラリックのクリスタルボトル版もあることから、いまも香水ファンの心に残る名前だ。1945年にクチュール・メゾンを開いたピエール・バルマンのためのVent Vert(ヴァン・ヴェール)は初のグリーンノートと言われる香りで、ガルバナムを8%と大量に用いたことが香水界に驚きをよんだという。1948年、彼女が調香したロベール・ピゲの2つめの香りであるFracas(フラカ)が発表された。とりわけアメリカで大ヒットしたこの香りは、チュベルーズをふんだんに使った大胆さ。その翌年にはバレンシアガのLa Fuite des heuresを......このようにいくつかのクチュールメゾンの仕事をしたジェルメーヌだが、個人的にも親しかったクチュリエはピエール・バルマンで、シンプルでシックな彼女の装いはバルマンのメゾンでの誂えであることが多かった。
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バカンスはリラックスした装いで。この時代の女性には珍しく、ブラジャーをつけていなかった。海辺の家にいても水泳もスポーツはまったくしなかった彼女。ミニゴルフとペタンクだけが彼女の屋外の活動だった。photo: DR
時代も場所も不明。一緒に写っているのはクリスチャンだろうか? photo: DR
エリザベス・アーデン社がアメリカで販売した複数の香りも彼女が調香しているのだが、それらの詳細はあいにくと不明である。調香した人物の名前に世間が注意を払わなかった時代、フォミュラーは残されていても創り手について記録されなかったのだろう。もっとも1944〜45年ごろに写真入りで調香師の彼女を紹介する記事が新聞や雑誌に掲載されている。それは彼女の調香としての仕事への関心からだけでなく、彼女がいつの頃からか仲間入りしたパリ社交界で徐々に重要な存在となっていたこともある。1955年から住んでいた8区のボカドール通りのオスマニアン建築のアパルトマンでは、社交界の知り合いを招いて頻繁にディナーを催していた。大西洋岸の別荘地ピラにある彼女の家に集まるのは、俳優や政治家といった友人たち。庶民の家庭に生まれた彼女がいつどのようにパリ社交界に属する女性となり、その世界の習慣を身につけていったのかは姪にもわからないことだという。そんな彼女が鮮明に覚えていることがある。
「優れた嗅覚の持ち主だったのですね。彼女は自分で料理をするということはありませんでした。でも、指輪をたくさんはめた手を腰にあてて、料理人に指示を出す彼女の姿が私の記憶に刻まれています。彼女は料理から漂う匂いをかいで、料理人に''ここでストップ! ''といって......味が鼻でわかったのですね」
マルセイユ近くの丘で嗅いだナデシコの香りの思い出があり、それがきっかけで香水を作りたいという気持ちが湧いたと彼女は常日頃語っていたそうだ。化学への興味はそれ以前からあった。
「伯母が1920年代になぜ化学を学ぼうと思ったのか。これは想像ですが、彼女の父親が趣味で作る小さなオブジェにガラリス(牛乳から作るプラスチック)を素材に使っていたことからかもしれません。彼女、父親ととても通じあうものがあったので。でも、彼女が通ったScianticaというのはブルジョワの子弟が通う学校なんです。どうして彼女がそこに通うことになったのか、これは不明です。香水のルール・デュポン社を選んだのは、自宅に近かったことからではないでしょうか......。彼女にはいささか曖昧な面があって、両親を愛していて贈り物などもたくさんしていたけれどクリスチャンと暮らす家に二人を招くこともせず。私と妹も彼女から愛され、また甘やかされてピラの家で毎夏を過ごしてましたが、そこでは伯母が選んだ服を着せられ、私たちはそこに集まるシックな人々と交わることもありませんでした。彼女は自分の社交界の友人たちと親族との間にしっかりと仕切りを作っていたんです。ジェルメーヌについて考えるとき、私にはガブリエル・シャネルと重なることがあります。過去との関係や、あの断固たる態度、他人に対する厳しさ......」
昨年、Béatrice Egémar著でSandrine Revel によるイラストの「Germaine Cellier(ジェルメーヌ・セリエ)女性調香師の大胆さ」という本がNathan社から出版された。名香FRACASのボトルを描いたポストカードの付録つきだ。彼女を介して調香の仕事を語る教育的目的の子供向けの本だが、彼女を知る手がかりになる貴重な一冊といえる。なお、ジェルメーヌはグレーやベージュといった落ち着いた色の服しか身につけないシックな女性だったが、この本の中では視覚的効果ゆえかカバーのように赤系の装いで描かれていることが多い。photos: Mariko Omura
Germaine Cellier(ジェルメーヌ・セリエ/ 1909~1976)
ボルドーに生まれる。15歳ごろパリ近郊に引っ越し、化学専門学校に学ぶ。ルール・デュポン社に入り、ドイツ軍占領時代から1960年代にかけて、クチュール・メゾンのための香りをいくつも調香。中でも1948年に発表されたロベール・ピゲのFRACAS(フラカ)はとりわけアメリカで成功を収め、官能的で濃厚なこの香りは今でも独創的な香水を求める女性たちに愛されている。
editing: Mariko Omura