元金メダリスト、ケイトリン・ジェンナーの壮絶な人生。

Society & Business 2021.09.12

オリンピックで表彰台に上り、その後トランスジェンダーのアイコンとなった彼女が、今度はカリフォルニア州知事選挙に立候補した。Netflixで配信中のドキュメンタリーシリーズ「UNTOLD」第3弾「ケイトリン・ジェンナーの金メダル」。ケイトリン・ジェンナーが自らの半生、性転換、本来の自分を受け入れる助けになったスポーツへの思いを語っている。

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ロサンゼルスで開かれた第4回ウィメンズ・マーチに参加したケイトリン・ジェンナー。photo:Abaca

「私はずっとこの葛藤を抱えてきました。でもこの自問自答がなかったら、これまで成し遂げたことは実現できなかったでしょう」。アスリートたちが、自分の人生をスポーツがどのように変えたかを語るNetflixのドキュメンタリーシリーズ「UNTOLD」第3弾で、ケイトリン・ジェンナーは、1976年のオリンピック十種競技で金メダリストを獲得したブルース・ジェンナーとして名を馳せた日々を振り返っている。

スタジアムの神と呼ばれた当時の自分について語るとき、彼女は3人称を使う。「私はみんなと違ったが、誰もそれに気づいていなかった。でも私自身は、心の底でわかっていました。だからブルースを作り上げたのです」と、現在71歳の彼女は説明する。「ケイトリンはオリンピック金メダストだとよく人に言われますが、私は“いいえ、それはブルースよ”と言い直します。そう言うことで嫌な気持ちになったりはしません。彼は賞賛されてしかるべき。それを成し遂げたのは彼ですから」

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ブルース・ジェンナー、ケイトリンの表の顔

1949年10月28日生まれの男の子は、ウィリアム・ブルース・ジェンナーと名付けられた。母はエスター・R・マクガイア、父はウィリアム・ヒュー・ジェンナー。彼は、リサ、パム、バートの兄弟姉妹とともにニューヨークで育った。ディスレクシア(読み書きが難しい学習障害)を抱えた少年にとって学校は楽しいものではなかったが、彼はすぐに自分にスポーツの才能があることに気付く。

ただブルースは子どもの頃から、理由はよくわからないながらも、自分のアイデンティティについて疑問を抱えていた。「それは本当に一種のタブーでした。(……)いつも自分の中に混乱した気持ちを抱えていました」とケイトリンは当時を振り返る。

10歳の頃、未来のオリンピックチャンピオンは母親のクローゼットをあさり、こっそり母親の服を着て、口紅をつけていた。「ケイトリンはずっと私の中にいたのです」

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避難場所としてのスポーツ

小学3年生のときに体育の授業で短距離走のタイムを測る機会があった。ブルースは学内のベストタイムを記録し、運動は自分の成長と能力の開花に役に立つに違いないと理解する。「スポーツのおかげで、現実から逃げて自分が輝ける世界に足を踏み入れることができたのです」とケイトリンは語る。

自分の知的能力に自信がなかった彼は大学進学など考えたこともなかった。しかしアメリカンフットボールの奨学金を獲得してアイオワ州のグレースランド大学に入学する。ブルースは校内の競技場で同じく学生だったクリスティ・クラウンオーヴァーと恋に落ちる。彼女はその後ブルースの最初の妻となり、心の支え、そして彼の一番の支持者となる。

 

 

しかし1969年、サッカーの試合中に膝を負傷し、アスリートとしてのキャリアに転機が訪れる。一時は二度とスポーツはできないかもしれないと考えたこともあったが、けがを克服したブルースは、陸上コーチのL.D. ウェルドンに見出され、彼のもとで十種競技と出会う。グレースランド大学にコーチとして雇われていたウェルドンはかつて、やはり十種競技選手のジャック・パーカーを1936年のベルリンオリンピック銅メダル獲得まで導いた立役者だった。

学生のブルースはこの競技と、とりわけその歴史に魅かれた。「1912年、ジム・ソープが十種競技で最初の覇者となったとき(編集部注:ストックホルムオリンピック)、スウェーデン国王が彼に“あなたは世界で最も優れたアスリートです”と言ったのです。彼が獲得したそのタイトルが私の目標になりました」とケイトリンはNetflixのカメラに向かって語る。

若き陸上選手は、野球やサッカー、バスケットにも秀で、近代スポーツで最も多彩な能力を持つアスリートのひとりと言われたアメリカ人ソープに魅了され、それ以後彼は十種競技に全霊をかけて取り組んだ。そうすることで違和感を覚えていた男性性を肯定できるに違いないと願って。そしてひたすら目標に集中すれば、ほかのことは何も考えずにすむだろうと。

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スタジアムの神

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モントリオールオリンピックに出場したブルース・ジェンナー。(1976年7月30日)photo:Abaca

十種競技の選手としてグレースランド大学の学生記録を塗り替えたブルースは、1972年のミュンヘンオリンピックに出場するアメリカ選手団の一員に選ばれる。

しかしレースは過酷だった。2日間かけて10種目を競う競技。スピードと耐久力に加えて、跳躍種目ではバネの強さも問われる。世界のレベルはブルースが想像していたよりはるかに高く、この大会での彼の成績は10位に終わった。メダルの授与が行われている間、彼はチャンピオンのソ連代表ミコラ・アヴィロフから目が離せなかった。「彼がメダルを受け取る瞬間、心の中で“これこそ私の求めるものだ”と考えていました」とケイトリンは回想する。

自らのアイデンティティをめぐって葛藤しながら、ブルースは自分の真の力を発揮したいと願う。「オリンピックで金メダルを獲れたら、きっとそれが自分には問題なんて存在しないという証明になるんじゃないかと」。ケイトリンは当時の気持ちをそう説明する。1972年、彼はその後の4年間を厳しいトレーニングに捧げる決意をする。同年、彼はクリスティと結婚し、ふたりはカリフォルニアのサンノゼに居を構えた。

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オリンピックを前にトレーニング中のブルース・ジェンナーと、妻のクリスティ。(1976年6月4日)photo:Getty Images

1976年のモントリオールオリンピックの栄光に続く途が拓けたのはその頃だ。勝利を固く決意したブルースは十種競技に全力を傾ける。ついには陸上トラックに面したアパートに引っ越し、時間のあるかぎりトラックでトレーニングを行なった。クリスティもトラックでタイムを測り、支援を惜しまなかった。しかし週末はアメリカ各地で開かれる競技会に費やされ、カップルの給料の一部は移動費に消えた。トップクラスのアスリートとしてキャリアを積むには多くの犠牲が伴うことに気づいた彼は、モントリオールオリンピックで選手生活を引退すると心に決めた。

カナダに乗り込んだ彼はミコラ・アヴィロフと並んで金メダルの有力候補と言われた。「それは、テレビに出るためでも、お金を稼ぐためでもありませんでした。1日8時間トレーニングをしていたのは、先人たちが闘ったのと同じ舞台に私も立ちたかったから。世界で最も優れたアスリートのタイトルを手に入れたかったからです」と、ケイトリンはドキュメンタリーの中で語っている。

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モントリオールオリンピックでのブルース・ジェンナー。(1976年7月30日)photo:Abaca

レースが始まった。ふたりの有力選手は僅差で首位を争った。しかし競技2日目、雨に濡れたコースで行われた1500 m走を終えたブルースは、当時の世界記録を更新し、十種競技の1976年オリンピックチャンピオンとなった。

ほかのレース参加者が疲労困憊して倒れ込むなか、若きアスリートは古代ギリシアの不屈のオランピアンさながらに軽快にトラックを走り続けた。観衆に挨拶し、妻にキスする。彼は自分の夢を実現したことが誇らしかった。望みはほぼすべて叶ったといってよかった。「私ははしごを上り詰め、自分にできることはすべて成し遂げました。(……)なのに私は何も変わらなかった。やはり同じ疑問を抱えたままでした」

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現実に戻って

ブルースは英雄となった。アメリカの偉大なスターとして、彼はマスコミの注目を一身に集め、トークショーや広告撮影に引っ張りだこになる。ブルースという人格は絶頂期を迎えていた。「マスコミに持てはやされる、大きくなりすぎた“ブルース”という人格を作り上げたのは、そもそも自分自身を追い払うためだったのではないでしょうか?」ケイトリンはそう自問する。「オリンピックは自分が何者であるかを忘れさせてくれた。いつかこのことに向き合わなければならないのが怖かった。人々は国を代表するチャンピオンと献身的な妻の話といった、感動的な物語が大好きです。私はそんな立派な人間ではないのではないかと不安でした」

英雄の栄光はたちまち地獄への下降に転じる。彼の心の底に芽生えた疑問は夫婦の関係に影を落とした。しかしクリスティとブルースは希望を捨てず、家庭を築く。夫婦はバート(1978年)とカッサンドラ・リン(1980年)のふたりの子どもに恵まれた。オリンピックスターは自分の秘密が明るみに出ないように、家庭生活とテレビ出演に新たな慰めを求めた。しかし結婚生活はうまくいかなくなり、夫婦は離婚を決める。「私は誰にも話せない大きな秘密を抱えていました。彼女(クリスティ)は私が抱えていた困難について何も知りませんでした。私は自分の真の姿を人に知られたくなかったのです」

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ブルース・ジェンナーと妻のクリスティ。モントリオール・オリンピックで。(1976年7月30日)photo:Abaca

ブルースはその頃、女優のリンダ・トンプソンと出会い、1981年に結婚。ブランドン(1981年)とブロディ(1983年)のふたりの子どもが生まれる。新しい生活のおかげでブルースとして生きていけるだろうとケイトリンは期待した。しかしそれは困難な課題だった。ブルースはついに自分の秘密を妻に打ち明ける決心をする。

「ブルースは自分自身のことを女性として認識していると私に告げました」。2015年4月に『ハフィントン・ポスト』に寄せた文章のなかでリンダ・トンプソンはそう書いている。「彼が何を言いたいのか理解できませんでした。彼は鏡に映った自分を見ると、男の身体をしていることにいつも驚いてしまうと答えました」

セラピーを受けたものの、カップルの溝は埋まらず、別れることになった。一方、ブルースは性転換をしたいと考えるようになるが、恐怖心からそれ以上先には進めなかった。

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ケイトリン、自由

陰鬱な時期を送っていた頃に、ブルースはクリス・カーダシアンと出会う。キム、クロエ、コートニー、ロバート・ジュニアの5人の子どもの母親である彼女は、弁護士のロバート・カーダシアンと1990年に離婚したばかりだった。

子どもを持つ離婚経験者どうし、ふたりは激しい恋に落ち、ケイトリンにはブルースとして生きるためのエネルギーがふたたび湧いた。彼はクリスの子どもたちとも良好な関係を築き、ふたりは1991年に結婚。ケンダル(1995年)とカイリー(1997年)のふたりの娘に恵まれた。「たぶんこの先も自分の本当の姿を隠して生きて行ける、このままブルース親父でいればいいと思っていた」とケイトリンは語る。そしてリアリティ番組『カーダシアン家のお騒がせセレブライフ』が始まり、一家は一躍スポットライトを浴びた。

しかしマスコミから注目されることに元アスリートは徐々に苦痛を感じるようになる。穏やかな人生を送るために、彼は多くの秘密を隠さなければならなかった。

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左から右へ、カイリー・ジェンナー、クリス・ジェンナー、コートニー・カーダシアン、クロエ・カーダシアン、ロバート・カーダシアン、キム・カーダシアン、ブルース・ジェンナー、ケンダル・ジェンナー。(ロサンゼルス、2010年9月27日)photo:Abaca

結婚から22年後、クリスとブルースは離婚する。ケイトリンにとって真の姿を明かす時が来た。覚悟はできていた。極秘で性転換治療を始めた。「人に知られたくはなかった。子どもたちも知らないことだったから」と彼女は説明する。

しかしマスコミはそんな彼女の思いを配慮してはくれない。喉仏を切除する手術を受けた後、彼女はクリニックの出口でカメラマンにパパラッチされてしまう。写真はメディアで広く取り上げられた。元アスリートは子どもたちには打ち明けようと決意するも、カメラの前では性転換治療について書かれたことをすべて否定した。

ケイトリン・ジェンナーがついに世間に素顔を見せたのは、2015年、ABCニュースのインタビューでのこと。この時、彼女はブルースを消滅させた。「これまでの人生でずっと、私は自分を隠し、自分自身であることを禁じてきました。私の望みはたったひとつ、みんなの横面を張って、“ほら、これが私よ、さあ受け入れなさい”と言うことでした」。こうして彼女はLGBTコミュニティのアイコンとなった。

 

 

雑誌「バニティ・フェア」の表紙を飾ったとき、彼女はこれからはケイトリンと呼んでほしいと語った。政治という新しいプロジェクトに取り組み始めた彼女は、現在、カリフォルニア州知事を目指して選挙キャンペーンに奔走している。しかしかつてドナルド・トランプ元大統領への支持を表明した彼女が西海岸住民の賛同を獲得するのは容易ではなさそうだ。ベニスビーチのホームレスを排除するなどの提案も論議を呼んでいる。

とにもかくも、ケイトリンは自らの道を行く。まっすぐ前を見て、粘り強く、信念を貫くだけだ。40年以上前に、十種競技のトラックに立っていた時のように。

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